第十七話:伝説の誕生

 新宿の地下で繰り広げられた、俺一人の、そして誰にも知られることのない大掃除。その終わりは始まりと同じくらい唐突で静かだった。


『空間転移、完了しました』


 脳内に鳴り渡るエノクの平坦な声と共に、俺の身体にあったダンジョンの生暖かい腐臭と破壊の後に残った粉塵の匂いが、すっと霧のように消え去った。代わりに鼻腔をくすぐるのは、俺が『創造』したこの城の空調システムが作り出す、どこまでも清浄で無機質な空気。

 ほんの数秒前まで立っていた崩壊しつつある巨大な地下聖堂の光景はもうどこにもない。俺は漆黒の壁と床に囲まれた、俺だけの玉座――タワーマンションの最上階、そのリビングの中央に音もなく立っていた。


「……ふぅ」


 俺は一つ長い息を吐いた。

 身に着けていた『絶影』の装備一式が俺の意思に応じてサラサラと光の粒子へと変わり、虚空に消えていく。代わりに現れたのは先ほどまで着ていた肌触りの良い部屋着のスウェットだ。仮面の下に隠されていた素顔が、この城の穏やかな照明に照らし出される。

 窓の外に広がる、宝石をぶちまけたような東京の夜景。その輝きは俺が地下に潜る前と何一つ変わっていないように見えた。あの地下での天変地異が、まるで最初からなかったことのように。


「さて、と」


 俺は独り言を呟きながらキッチンへと向かった。巨大な冷蔵庫の扉を開け、キンキンに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。キャップをひねり、喉を鳴らしながらその冷たい液体を一気に煽った。乾いた身体に水分が染み渡っていく。


「映画の、続きでも見るか」


 ソファにどさりと身体を預け、テーブルの上に放り出していたリモコンを手に取る。壁一面を覆う巨大なディスプレイに、先ほどまで見ていたアクション映画の一時停止された画面が再び映し出された。派手な爆発シーンの真ん中で、主人公が苦悶の表情を浮かべたまま静止している。

 俺は再生ボタンを押そうとして、ふとその指を止めた。


「……いや、その前に」


 俺はリモコンを置くと、ディスプレイに向かって静かに命じた。


「エノク。外の様子を見せろ。俺がやった『掃除』の後始末がどうなってるか、少しだけ興味がある」

『了解しました、マスター。全球モニタリングシステムを起動。新宿エリアの情報をリアルタイムで表示します』


 映画のスクリーンがすっと画面の隅に小さく縮小される。代わりに、壁の中央には再び巨大な地球のホログラムが浮かび上がり、壁全体には無数のウィンドウが滝のように流れ始めた。監視カメラの映像、ニュース専門チャンネルの生中継、そしてこの国の誰もが利用している短い文章を投稿する形式のSNS。

 そこには俺が予想した通りの、しかし予想を遥かに超えた混沌とした騒動が広がっていた。



 そのSNSのタイムラインは今、たった一つの話題で埋め尽くされていた。画面の片隅に表示される『トレンド』の最上位には、当然のように『#新宿ダンジョン』の文字が鎮座している。


『ちょ、マジ!? 新宿ダンジョンのあのヤバい赤い光、完全に消えてるんだけど! 誰か状況わかる人いる!? #新宿ダンジョン』

『今、現場近くにいる者だが、マジだ。さっきまでの地面が揺れるみたいな振動も、完全に止まってる。嵐の前の静けさじゃなければいいが……』

『え、ダンジョン・ブレイク回避されたってこと? 誰がやったの? トップランカーの誰かが攻略したなら、とっくに配信始まってるでしょ?』

『そもそも、トップランカーは全員、結界が強すぎて中に入れずに外で待機してたはず。中の状況なんて誰も知らないはずなのに、どうなってんの?』

『ってことは、誰も知らないうちに中で何かが起きた……ってことか? 怖すぎだろ……』


 秒速で更新されていくタイムラインは、人々の生の混乱をそのまま映し出す濁流のようだった。俺は、その光景を何の感情もなく、ただぼんやりと眺めていた。まるで水槽の中の熱帯魚が餌を求めて騒いでいるのを観察しているような気分だった。

 別のウィンドウには、動画配信サイトの生放送画面が映し出されていた。封鎖線の外側からスマートフォンでダンジョンの入り口を撮影し続けている、若い探索者らしき男。


「えー、ご覧ください、皆さん! 先ほどまで、あれだけ禍々しい光を放っていた新宿ダンジョンのゲートが、完全にその光を失っています! 一体中で何が起こったのか! トップランカーのパーティーが突入したという情報もありません! これは前代未聞の事態です!」


 男は興奮した様子でマイクに向かって叫んでいる。彼の配信の同時接続者数は既に数十万人を超えており、画面の端には視聴者からのコメントが凄まじい勢いで流れ続けていた。


『神回キターーー!』

『マジでどうなってんの?』

『政府の陰謀説に一票』

『明日、会社行きたくない』


 誰もがこの異常事態を現実の出来事として受け止めきれずにいる。ある者は恐怖し、ある者はそれをエンターテイメントとして消費し、またある者は明日の自分の生活のことしか考えていない。

 実に、人間らしい光景だった。


「……滑稽だな」


 俺は誰に言うでもなくそう呟いた。

 彼らが必死になって答えを探しているその原因。それが今、この部屋のソファに座って高みの見物をしている俺だとは、誰も夢にも思わないだろう。

 その時だった。


 ピコン、と軽い電子音。

 エノクが、一つのウィンドウを画面の中央に大きくポップアップさせた。


『マスター。探索者ギルドより、公式発表です』


 ウィンドウに表示されたのは、ギルドの公式アカウントが投稿した一枚の簡素な画像付きのポストだった。


『【重要なお知らせ】本日午後8時47分、S級ダンジョン『新宿三丁目ダンジョン』内部において、最深部ボスの魔力反応の完全消滅を確認いたしました。これに伴い、当ダンジョンは現在、安定した崩壊、及び消滅プロセスに移行しております。周辺地域への危険性は完全に消滅したと判断されます。なお、ダンジョンボス消滅の原因については現在、調査中です。詳細が判明次第、追ってご報告いたします』


 その、あまりに素っ気なく、そして異常な発表は、混沌としていた世論にさらに巨大な燃料を投下する結果となった。


「……原因不明、ね。まあ、そう言うしかないか」


 俺は、その投稿を鼻で笑った。

 ギルドにしてみれば悪夢のような事態だろう。自分たちの管理下にあった国内最高難易度のダンジョンが、誰にも知られず、何の痕跡も残さずに攻略されてしまった。プライドも面子もあったものではない。

 この公式発表が投稿された直後。

 SNSのサーバーが焼き切れるのではないかというほどの爆発的な反応が巻き起こった。


『原因不明!? ふざけるな! それで終わりかよ!』

『ギルド無能すぎだろwww 自分とこのダンジョンで何が起きたかも分かんないのかよ』

『待って、この文章を正直に読むと「誰かが、ギルドにも気づかれずに、単独で、S級ダンジョンを攻略した」ってことにならない……?』

『……そんな人間、存在するのか? バケモノじゃん』

『日本のランカーは全員外にいた。海外ランカーがお忍びで? いや、S級の入国は厳重にマークされてる。じゃあ、誰が……?』


 混乱は、やがて一つの方向へと収束していく。

 それは、未知の存在に対する畏怖だった。


『……冷静に考えてみろよ。配信もしない。名乗りも出ない。これって、金とか名声に全く興味がないってことだろ?そんな探索者が今の世界にいるか?』


 ぽつりと誰かが投稿したその一言。

 それが人々の想像力の最後の堰を切った。


『確かに……。承認欲求の塊みたいなランカーばっかだもんな、今どき』

『まるで、神様か何かの御業みたいだ……』

『天災を鎮めるために、人知れず降臨した名もなき神……か。「#名無しの神」がトレンド入りしそう』

『いや、待てよ。善意の存在とは限らない。S級ダンジョンをまるで散歩でもするように消し飛ばせるんだぞ? 気まぐれで次は東京を消し飛ばすかもしれない、規格外の化け物だったら……』

『どっちにしろ、もう俺たちの常識が通用する相手じゃないことだけは確かだな。まさに都市伝説の始まりって感じだ』


 俺は、そのタイムラインを冷めた目で見下ろしていた。

 名無しの神、か。

 俺がやったことは、ただの面倒な害虫駆除だ。それをこの世界の連中は、勝手に神だの化け物だのと祭り上げ、尾ひれをつけて一つの物語を創り上げていく。

 実に、馬鹿馬鹿しい。


『マスター。あなたの行動は、承認欲求と自己顕示欲が価値の中心となっている、現代の探索者社会の根源的な構造と相反するものです。彼らの理解を超えた存在に対し、人々が神性や、あるいは魔性を見出すのは必然的な帰結です』

「俺の知ったことか。勝手に祭り上げて、勝手に怖がってればいい。俺には関係のない話だ」


 俺はそう吐き捨てると、壁一面に広がっていた情報ウィンドウと、中央の地球ホログラムを全て一斉に消した。

 壁は再び、ただの静かな漆黒へと戻る。

 世界の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。

 後には静寂と俺、そして映画の続きを待つ一時停止されたスクリーンだけが残された。


「……さて、と」


 俺は再びリモコンを手に取った。

 そして、今度こそ再生ボタンをゆっくりと押し込んだ。

 画面の中で止まっていた時間が再び動き出す。

 主人公が絶体絶命のピンチから奇跡的な反撃を開始する。派手な効果音と勇ましい音楽が、静かな室内に満ちていった。


 外の世界で新たな伝説が生まれようと、俺の存在が神として崇められようと、悪魔として恐れられようと。

 そんなことは今の俺にとって、どうでもいいことだった。


 俺が守りたいのは世界じゃない。

 ただ、この誰にも邪魔されずにくだらない映画の続きを見ることができる、この瞬間。

 この、ちっぽけで、それでいて何物にも代えがたい俺だけの平穏な日常。


 ただ、それだけだ。


 俺は、新しく『創造』した温かいポップコーンを一つ口に放り込みながら、スクリーンの光に静かに目を細めた。

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