第十六話:一撃の終焉

 俺が穿った大穴は、どこまでもまっすぐに闇の奥へと続いていた。

 壁面は先ほどの超電磁加速砲の余熱でドロドロに融解し、まるで巨大なガラス管の中を歩いているかのようだ。足元に転がる黒曜石の破片をブーツの底でジャリっと踏みしめながら、俺は無感動にその人工の洞窟を進んでいく。


「ふん。掃除が行き届いていて、歩きやすいことこの上ないな」

『ご明察です、マスター。これより先、ボスエリアまでの経路上に障害となる存在は一切観測されません』


 脳内に鳴り渡る相棒の冷静な声。その声には、先ほど俺がやらかした天変地異まがいの破壊活動に対する驚きも非難も、何一つ含まれていない。ただ、結果だけを淡々と報告する。実に俺好みの性格だった。

 それにしても、だ。S級ダンジョンというからにはもっと骨のあるパズルやトラップが満載かと思っていたが、蓋を開けてみれば物理が効かない敵と物理でしか殴れない敵を並べただけの、単純な力押しステージだった。実に芸がない。

 そんな下らない開発者の意図にいちいち付き合ってやるほど、俺はお人好しではない。面倒なものはまとめて更地にする。それが一番手っ取り早く、確実な方法だ。


「それで、ラスボスとやらはあとどれくらいだ?」

『マスターの現在のペースであれば、約五分で最深部に到達します。内部より極めて強大な魔力反応を感知。これまでのモンスターとは、エネルギーの規模が桁違いです』

「桁違い、ね。まあ、そうでなくては困る。せっかく大掃除したんだ。最後のゴミがちっぽけなホコリだったら、張り合いがないからな」


 俺は仮面の下で、退屈そうに鼻を鳴らした。

 やがて、ガラス状のトンネルの先にぽっかりと巨大な空洞の入り口が見えてきた。ひんやりとしていて、どこか淀んだ空気がそこから流れ出してくる。灼熱地獄だった中層エリアとは、明らかに空気の質感が異なっていた。


「ここか」

『はい。この先が、新宿三丁目ダンジョンの最深部。ボスの玉座です』


 俺は立ち止まることなく、その闇の入り口へと足を踏み入れた。

 瞬間、視界が一気に開けた。

 そこは、先ほどの灼熱の溶岩地帯よりもさらに広大な、巨大な地下の大聖堂のような空間だった。天井は遥か上方の闇に沈んでいてその高さは窺い知れない。ただ、壁や床は磨き上げられた黒大理石のような滑らかな鉱物で構成されており、空間全体がぼんやりとした青白い光で満たされている。

 そして、その広大な空間の中央。

 ひときわ巨大な、小山ほどの大きさの岩塊の上に、ソレはいた。


 ドラゴン。


 おとぎ話やゲームの中でしか見たことのない伝説の生き物が、現実の存在としてそこに鎮座していた。

 全長は軽く百メートルを超えているだろう。全身を覆う鱗は、一枚一枚が黒曜石を削り出したかのように鋭利な光沢を放っている。その巨体は、まるで山脈が横たわるかのような圧倒的な存在感があった。今は巨大な鎌首を垂れて静かに眠っているのか、身じろぎ一つしない。だが、その身体から発せられる魔力のオーラは周囲の空間をビリビリと震わせ、俺がこれまで遭遇したどのモンスターとも比較にならない絶大な威圧感を放っていた。


『エンシェントドラゴン。SSランク相当の災害級モンスターです。その鱗は、あらゆる属性の魔力を中和、無効化する特性を持ちます。また、口から放たれるブレスは桁違いの破壊力を有し、都市を一瞬で蒸発させることも可能です』

「……はっ。ずいぶんとまあ、大層な肩書だな。魔法が効かない上に、一撃必殺のブレス持ちか。百人中百人がミンチになる、典型的な高難易度のダンジョンらしいボスってわけだ」


 俺は、その巨体を見上げながらどこか他人事のように分析していた。

 俺がその広間へと完全に足を踏み入れた、その時だった。


 ピクリ、と。


 眠っているように見えたドラゴンの巨大な瞼が、わずかに動いた。

 そして、ゆっくりとその目が開かれる。

 現れたのは、溶かした黄金を流し込んだかのような、縦に長い瞳孔を持つ巨大な瞳だった。その瞳がギロリと、侵入者である俺の姿を正確に捉えた。


 グオオオオオオオオオオオオオオオッ!


 次の瞬間、大聖堂全体を揺るがす凄まじい咆哮が俺の鼓膜を叩いた。

 それはただの大声ではなかった。咆哮そのものに魔力が乗っている。空気がまるで固い壁のように俺の身体に叩きつけられた。常人ならこの声を聞いただけで内臓が破裂して死ぬだろう。

 だが、今の俺には少しうるさい、ただの騒音にしか聞こえなかった。


「……ようやくお目覚めか。寝起きの機嫌が悪いのは分かるが、もう少し静かにしてくれないか。こっちはさっさと仕事を終わらせて家に帰りたいんだ」


 俺は耳の穴を小指でほじりながら、平然とそう言い放った。

 その、あまりに不遜な態度が伝説の竜の逆鱗に触れたらしい。

 ドラゴンはゆっくりとその山のような巨体を起こし始めた。ズズズ、と地を擦る音を立てて鎌首が持ち上がり、俺を遥か高みから見下ろす。その黄金の瞳には明確な殺意と、絶対者としての侮蔑が燃え盛る炎のように揺らめいていた。


「……ほう。ようやくやる気になったか」


 俺は、その圧倒的な威圧感を前にしても一歩も引かなかった。ただ、つまらなそうにその巨体を見上げている。

 ドラゴンは大きく息を吸い込み始めた。

 その巨大な顎が限界まで開かれていく。喉の奥がまるで小さな太陽が生まれたかのように、凄まじい光と熱を放ち始めた。

 周囲の空間から魔力が渦を成し、その口元へと収束していく。大聖堂の空気がキリキリと悲鳴を上げているのが分かった。


『警告。最大級の魔力反応を感知。エンシェントドラゴン、ブレスを発射します。回避不能。直撃すれば、マスターの装備、及び肉体も原子レベルで分解される危険性があります』


 エノクが初めて、焦燥とも取れるような早口の警告を発した。

 だが、俺はその場から一歩も動かない。

 ただ、静かにその光景を眺めている。


「……やれやれ。いきなりクライマックスか」


 俺は呆れたように首を左右に軽く振った。

 そして、ドラゴンが破滅の光を解き放つ、まさにその寸前。


 パチン。


 俺は、何の気負いもなく、ただ右手の指を軽く鳴らした。


 直後。

 俺の目の前、数メートルの空間がまるでバグった映像のように一瞬だけノイズを走らせた。

 そして、そこに目には見えないが、確かに存在する『何か』が生まれた。

 それは熱も光も音も、全ての概念を拒絶する絶対的な『無』の領域。

 俺がこの空間の法則を捻じ曲げて『創造』した、『絶対零度の空間』だった。


 ゴオオオオオオオオオッ!


 ドラゴンの顎から純白の破壊の奔流が解き放たれた。

 世界から色が消える。

 全てを焼き尽くし、全てを蒸発させ、全てを無に還す終末の光。

 それが一直線に俺へと殺到する。


 だが。

 その破壊の光は、俺に届く直前で俺が創り出した『絶対零度の空間』に吸い込まれるようにして接触した。


 音はなかった。

 爆発も衝撃波も何も起こらない。

 ただ、絶対的な熱と絶対的な冷気が接触する。互いの存在が、まるで最初からなかったかのように静かに打ち消し合った。

 あれだけ凄まじいエネルギーの奔流が瞬時に消滅していく。


 数秒後。

 そこには静寂だけが残された。

 ドラゴンの渾身の一撃は、俺の指パッチン一つでこの世から完全に消え去っていた。


「…………グルル?」


 ドラゴンが、信じられないといった様子で戸惑いの声を漏らした。

 その黄金の瞳に初めて、絶対者としての余裕以外の感情――『驚愕』と『混乱』が浮かび上がっている。

 自分の最強の切り札が赤子の玩具のようにいとも容易く無効化された。

 その事実が伝説の竜のプライドを根底から揺さぶっているのだろう。


「……さて。お前の番は終わりだ」


 俺はどこまでも冷たい声でそう宣告した。


「次は俺の番だ」


 ドラゴンが次の行動に移るための思考の隙。

 そのコンマ数秒の時間を、俺は捉えた。

 俺はもはや目の前の巨大なトカゲには何の興味も示さない。

 俺が見据えているのは、この大聖堂の遥か上方の闇。


 このダンジョンの天井だ。


「エノク。このダンジョンの全ての構造データをもう一度スキャンしろ。最上層からこの最深部に至るまで、全ての岩盤の強度、質量、座標を寸分の狂いなく割り出せ」

『……了解。全構造のスキャンを開始。……完了。3Dマップを、マスターの脳内に投影します』


 俺の頭の中に、この新宿三丁目ダンジョンの、完全な立体地図が青白い光のデータとなって流れ込んでくる。

 地上から地下深くへと続く巨大な蟻の巣。その全ての構造を俺は完全に掌握した。


「よし」


 俺は右手をゆっくりと天にかざした。


「ここからが本番だ」


 俺は『創造権能』をキメラと戦った時以上に解放した。

 無限のMPが俺の身体から凄まじい勢いで引き出されていく。

 その力は目の前の空間を変形させるのではない。

 俺の意思は、このダンジョンの遥か上空、地上に最も近い第一階層の分厚い岩盤へと直接干渉を始めた。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


 ダンジョン全体が先ほどのレールガンの比ではない激しい揺れに見舞われた。

 天井からパラパラと岩の破片が雨のように降り注いでくる。


 ドラゴンは、この天変地異が目の前のちっぽけな黒い人型によって引き起こされているという事実をまだ理解できていない。ただ、その本能が自らの身に抗いようのない『死』が迫っていることを感じ取っているのか、落ち着きなく周囲を見回している。


 遥か上空。

 地上の光が届かぬ暗黒の天井。

 その空間に、何もない場所から一つの『概念』が生まれつつあった。


 それは、杭。

 ただひたすらに巨大な鉄の杭。


 材質はこのダンジョンの岩盤そのもの。第一階層から第九階層に至るまで、その道中のありとあらゆる岩石を俺の権能が強制的に分解し、再構築していく。

 全長は数キロメートル。

 直径は数十メートル。

 もはやそれは兵器というよりも、天と地を繋ぐ巨大な柱。

 あるいは、神が地上の罪人を裁くために振り下ろす巨大な鉄槌。


 その、あまりに巨大で無慈悲な質量兵器が、ドラゴンの遥か頭上、成層圏にも等しい高さの暗闇の中に静かにその姿を現した。


 ドラゴンがようやくその存在に気づいた。

 黄金の瞳が驚愕に見開かれ、遥か上方の一点を見つめている。

 その瞳に、自らの死を告げる巨大な十字架が映り込んでいるのだろう。


 グオオオオオオッ!


 ドラゴンが恐怖と怒りが入り交じった絶叫を上げた。

 再び口の奥に終末の光を溜め込み始める。

 あの巨大な杭を地上に落ちる前にブレスで破壊するつもりか。


 あるいは、この大聖堂から一目散に逃げ出すか。

 どちらにせよ。


「――もう、遅い」


 俺はかざしていた右手を、ただ静かに下ろした。

 それはこの世界における、物理法則への絶対的な命令。


『――落ちろ』


 俺がそう念じた瞬間。

 遥か上空で静止していた巨大な杭が、何の予備動作もなく、ただすっと落下を始めた。

 音はない。

 空気抵抗など、その圧倒的な質量の前では無に等しい。

 それはただひたすらに、重力というこの星の根源的な力に引かれ加速していく。


 ヒュウウウウウウウウウッ!


 やがて、杭が大気の層を突き破り、風を断ち切る凄まじい音が、遅れてこの大聖堂に届き始めた。


 ドラゴンは完全に動きを止めていた。

 いや、動けなくなっていた。

 あまりに巨大な質量が真上から迫ってくる。その圧倒的な重圧と絶望的な光景を前に、伝説の竜としての本能がフリーズしてしまったのだろう。

 口に溜め込んでいたブレスの光も、いつの間にか弱々しく消えかかっている。


 ただ、見上げることしかできない。

 自らの頭上に確実、かつ抗いようもなく迫りくる、『死』そのものを。


 やがて。

 巨大な杭の先端が、ドラゴンの硬い鱗で覆われたその頭頂部に触れた。


 音はなかった。

 ただ、ぐちゃり、と。

 熟れたトマトを指で潰したかのような、生々しい感触だけが俺の脳内にイメージとして伝わってきた。


 ドラゴンの巨体は、何の抵抗もできていなかった。

 魔法を無効化する自慢の鱗も、山をも砕く強靭な肉体も、絶対的な質量という宇宙で最も原始的で暴力的な力の前に、あまりにも無力だった。

 頭蓋が砕け、背骨が折れ、内臓が破裂し、その山のような巨体がまるで粘土細工のようにいとも容易く圧し潰されていく。

 断末魔の悲鳴を上げる暇さえなかった。


 杭はドラゴンの巨体を完全に貫通し、さらにこの大聖堂の床をまるで豆腐のように突き破った。そしてその勢いをなおも殺すことなく、ダンジョンの深層へとその身を沈めていった。


 全てが終わったのはほんの数秒間の出来事。

 轟音と地響きは、破壊が完全に完了した後からやってきた。


 ドドドドドドドドゴオオオオオオオオオオオン!


 ダンジョン全体が、もはや地震という言葉では生ぬるい、この星そのものが引き裂かれるかのような終末的な振動に見舞われた。

 立っていることすらままならない。

 天井からはもはや破片などというレベルではない、巨大な岩塊がいくつもいくつも落下してくる。

 だが、その全てが俺の身体に届く直前で不可視の力場に弾かれ、逸れていった。

 やがて長い、長い揺れがゆっくりと収まっていく。


 後には、しんとした墓場のような静寂だけが残された。


 俺はゆっくりと顔を上げた。

 目の前に広がる光景は、もはや先ほどまでの荘厳な大聖堂の面影をどこにも残してはいなかった。

 床は巨大なクレーターのように大きく陥没し、ひび割れている。

 天井には巨大な杭が貫いた、どこまでも続く巨大な風穴がぽっかりと口を開けていた。

 そして、先ほどまでドラゴンがいた場所。

 そこにはただ、巨大な杭の下半身だけが墓標のように突き刺さっているだけだった。

 伝説の竜は、その圧倒的な質量の前に文字通り肉片一つ残さずに圧し潰され、大地の一部と化していた。


 戦闘ですらない。

 ただの作業。

 俺の平穏を侵す害虫の駆除。


「……ふぅ」


 俺は一つ、息をついた。

 漆黒のコートに付着した岩の粉塵を軽く手で払う。


『……ダンジョンボスの殲滅を確認。これに伴い、ダンジョン内部の魔力供給が停止。空間構造の崩壊が始まります』


 エノクが淡々と事後報告を始めた。


「崩壊、ね。つまり、このダンジョンはもうすぐなくなるってことか」

『はい。約一時間後にはこの空間は完全に消滅し、ダンジョンがあった場所は元の空間に戻るでしょう。ダンジョン・ブレイクの脅威は完全に排除されました』

「そうか」


 俺はその言葉に何の感慨も抱かなかった。

 ただ、面倒な仕事が一つ終わった。

 それだけだった。


 俺は破壊の爪痕が残るその惨状に一瞥もくれず、踵を返した。


「さて、と」


 俺の口からこぼれたのは、そんな気の抜けた独り言だった。


「家に帰って、映画の続きでも見るか」


 俺が行った初めての大掃除は、こうして誰に知られることもなく、静かに終わった。

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