第十五話:神域の攻略

『サウザンド・アイズ』


 千の目を持つという触れ込みだった肉塊の化け物は、結局のところただの置物だった。

 俺という『存在しない』侵入者の前では、その自慢の邪眼も気色悪い飾りでしかなかったらしい。俺は広間の中央で虚空を睨み続けるそいつを一瞥もせず、エノクが示すナビゲーションラインに従って次の通路へと足を踏み入れた。


 実に、つまらない。

 S級ダンジョンというからには、もう少し歯応えのある仕掛けを期待していたのだが。


『マスター。油断は禁物です。このダンジョンの脅威度は、階層が深くなるにつれて指数関数的に増大します』

「分かってる。だが、今のところはただの散歩だ。退屈であくびが出る」


 俺がそんな軽口を脳内で叩いた、まさにその時だった。

 通路の先の空気が、陽炎のように揺らめいた。今まで俺の周囲にあったひんやりとした空気が、巨大なドライヤーを真正面から突きつけられたかのように、一瞬で灼熱のそれに変わる。


「うおっ、熱っ……!」


 思わず腕で顔を覆う。漆黒のコートが熱気を遮断してくれなければ、眉毛が焦げていたかもしれない。


 通路の壁も床も、様相が一変していた。

 さっきまでの、巨大生物の体内を思わせる有機的な壁は姿を消し、代わりに黒く焼け焦げてひび割れた岩盤が剥き出しになっている。地面のところどころには赤熱した亀裂が走り、そこから噴き出す蒸気が視界を不明瞭にさせていた。


『マスター、ご注意を。これより中層エリアです。環境情報、全面書き換え。気温、摂氏八〇〇度以上。湿度、三パーセント以下。高濃度の硫黄成分を検出』

「八〇〇度……。普通の人間なら、息を吸った瞬間に肺が焼けておしまいだな」

『はい。あなた方の文明における、いかなる耐熱装備もここでは意味を成しません』


 俺が身に着けている『絶影』の装備は、俺のチートスキルで生み出したアトランティス産だ。この程度の熱環境は全く問題ない。だが、足元からじりじりと伝わってくる熱は、精神的にひどく不快だった。

 俺はナビゲーションラインが示す先へと足早に進む。やがて狭い通路が終わり、視界が一気に開けた。


「……はっ。なるほどな」


 俺は目の前に広がる光景に、思わず乾いた笑いを漏らした。


 そこは巨大な地下空洞だった。ドーム状の天井は遥か上方の闇に消えていて、その広さは東京ドームが丸ごと入ってしまいそうなほどだ。

 そして、その広大な空間の大部分を占めているのは、どこまでも広がる燃え盛る溶岩の海だった。

 グツグツと巨大な鍋で何かを煮込んでいるかのような音を立てて、オレンジ色に輝くマグマがゆっくりと対流している。時折、表面が弾けて灼熱の飛沫が火の粉のように宙を舞った。熱と硫黄の匂いが、先ほどの通路とは比較にならないほど濃密に鼻をつく。


 その溶岩の海の向こう岸まで、一本だけ細々とした道が架かっていた。

 黒曜石でできた自然の橋。幅はせいぜい二メートルほどで、手すりも何もないただの岩の道だ。下手に足を踏み外せば、灼熱のスープの中にダイブすることになる。


『中層エリア第一のギミック、『灼熱の回廊』です。あの橋を渡り切る必要があります』

「実に分かりやすい。そして、ひどくありきたりな仕掛けだな」


 俺がそう言って橋に一歩足を踏み出そうとした、その時。


 ボゴンッ!


 俺の目の前、数メートル先の溶岩の表面が大きく盛り上がった。

 そして、そこから人型の何かがぬるりと姿を現す。

 それは、炎そのものだった。

 燃え盛る炎が、まるで意思を持つかのように人の形を成している。姿は常に揺らめいており、実体があるのかないのかさえ判然としない。ただ、頭部にあたる部分だけがひときわ強く輝き、その中に憎悪に満ちた二つの光点が俺を睨みつけていた。


『炎の精霊、『サラマンダー』。物理的な攻撃は一切通用しません。警告!!自然現象であるため、装備のステルス機能が機能せず、こちらが認識されます』


 エノクの解説と同時に、その炎の巨人は腕を振り上げた。すると、その腕からバスケットボール大の火球が、凄まじい速さで俺に向かって放たれる。


「ちっ……!」


 俺はとっさに身を翻してそれを回避した。

 火球は俺がいた場所の背後の壁に直撃し、轟音と共に小規模な爆発を引き起こす。岩盤がドロドロに融解していた。

 一体だけではなかった。

 俺が回避したのを皮切りに、溶岩の海のあちこちから、ボゴン、ボゴンと次々にサラマンダーたちが姿を現し始めた。

 その数、およそ二十体。

 奴らは一斉に、俺に向かって無数の火球を撃ち放ってくる。


 ヒュゴォォォ!


 灼熱の弾丸が俺に降り注ぐ。

 俺は黒曜石の橋の入り口で左右にステップを踏みながら、紙一重でそれをかわし続けた。


 ステルス機能は完全に無効化されていた。

 そして、連中は明確な敵意を持って広範囲を無差別に攻撃し始めている。


「面倒くさいこと、この上ないな!」


 悪態をつきながら、俺は状況を冷静に分析していた。物理攻撃は効かない。水や氷で対抗するのは、この環境では効率が悪すぎる。正攻法はサラマンダーが撃ってくる火球の雨を避けながら橋を駆け抜けることだろう。だが、その先に待ち構えるであろうさらなる面倒事を考えれば、この火の玉どもが飛び交う中で悠長に橋を渡るのは悪手だ。


「……炎には炎を、か。芸がないが、それが一番早い」


 俺は吐き捨てるように言った。だが、俺が創るのは奴らのようなちゃちな焚火ではない。


「奴らの炎がただの『火』だというのなら、俺が創るのは星を焼く『太陽』そのものだ」

『マスター、その行動はリスクが高いと判断します!』


 エノクの制止も聞かず、俺は立ち止まったまま念じた。

 この周囲にある熱エネルギーを味方につけるのだ。


「――燃えろ」


 俺がそう念じた瞬間。

 この灼熱地獄を支配していた熱エネルギーの法則が狂い始めた。

 俺が立っている半径数メートルの足元を除いて、この広大な地下空洞の空間そのものが俺の意思の元に強制的に書き換えられていく。

 眼下に広がる溶岩の海が、その膨大な熱量を奪われ、急速に輝きを失っていく。

 空気中に満ちていた硫黄成分、空間を漂う高濃度の魔力粒子、その全てが俺の『創造権能』によって一つの巨大な現象へと再構築されていくのだ。


 空間が軋む。


 俺の周囲以外の、このフロア全ての空気が白く発光し始めた。それはもはや炎ではない。直視すれば網膜が焼き切れるほどの純白の輝き。この地下空洞そのものが、太陽の中心核と化したかのような凝縮されたプラズマの海へと変貌していく。

 サラマンダーたちの動きがぴたりと止まった。

 熱の権化である奴らですら、自分たちの存在意義を根底から揺るがす圧倒的な熱源の出現に、本能的な恐怖を感じ取っているのだろう。


「――消えろ」


 俺が冷たくそう宣告した瞬間。

 俺の周囲を除く、この空間全体が絶対的なエネルギーの暴力で満たされた。

 熱波に飲み込まれたサラマンダーたちは、悲鳴を上げる間もなかった。自分たちの身体を構成していた炎がより巨大な熱源に飲み込まれ、その存在が消滅する。

 まるで最初から何もなかったかのように、一匹残らずこの空間から消え去ってしまった。


 後に残されたのは、静寂と、超高熱によって白く輝き続ける溶岩の海だけだった。


「……さて、と。道は開けたな」


 邪魔なハエを叩き落とした俺は、何事もなかったかのように黒曜石の橋を渡り始めた。俺が歩を進めるにつれて、足元の空間だけが正常な温度へと戻っていく。

 数十秒後、俺は向こう岸へとたどり着いた。

 その時だった。


 ゴゴゴゴゴゴ……!


 足元が激しく揺れた。

 見れば、俺が立っている向こう岸の、その先の通路を巨大な何かが塞いでいる。

 それはこの橋と同じ、黒曜石でできた巨大なゴーレムだった。

 全長は十メートル以上。ずんぐりむっくりとした人の形をしているが、その身体は磨き上げられた黒い宝石のように鈍い光沢を放っている。関節にあたる部分はなく、まるで一体の岩から削り出された彫像のようだ。

 そのゴーレムが軋むような音を立てながら、ゆっくりとこちらに腕を振り上げた。


『Sランクモンスター、『ガーディアン』。極めて高い物理防御力と自己再生能力を持ちます。通路を完全に塞いでおり、これを突破しない限り先へは進めません』

「……はっ。なるほどな。さっきの炎の精霊は、こいつにたどり着くまでのただの前座ってわけか」


 物理攻撃が効かないサラマンダーの群れを始末した先に待つのは、物理防御の塊のようなゴーレム。

 実に嫌らしい連携だ。

 だが。


「……俺には、関係ない」


 俺は漆黒のコートの裾を翻すと、その巨大な岩の巨人に向かってまっすぐに歩き出した。

 ゴーレムは俺を敵と認識したのか、振り上げた巨大な拳を力任せに地面へと叩きつけてくる。


 ドゴォォォォン!


 凄まじい衝撃と共に地面が砕け、岩の破片が四方八方へと飛び散る。

 俺は、その拳が振り下ろされるのをただの確認作業のように見届けると、その場で右の拳をシンプルにゴーレムの胴体へと叩き込んだ。


 バキィィィィィン!


 ガラスが砕けるような甲高い破壊音。

 俺の拳が触れる。

 その一点から、黒曜石の胴体に蜘蛛の巣状の亀裂が一瞬で広がった。

 次の瞬間には、ゴーレムの上半身が、まるで爆弾でも仕掛けられていたかのように木っ端微塵に砕け散る。


「……ほう。この程度か」


 俺は音もなく腕を振るう。

 後にはただの黒い瓦礫の山が残るだけだ。

 俺がそう思った、その時だった。


 ゴゴゴゴゴ……。


 砕け散ったはずの黒曜石の破片が、まるで意思を持つかのように蠢き始めた。

 破片同士が磁石のように引き寄せられて融合し、再び元のゴーレムの形へと再構築されていく。

 ものの数秒で、ガーディアンは傷一つない状態で俺の前に再びその巨体を現した。


『……マスター。対象の自己再生能力は、我々の予測を遥かに上回っています。破壊された傍から、周囲の黒曜石を取り込み瞬時に再生しているようです』

「……なるほどな。そういうことか」


 俺は、ようやくこの中層エリアの本当の仕掛けを理解した。

 どれだけ壊しても無限に再生する、黒曜石の壁。

 実に面倒くさい。

 そして、時間の無駄だ。


「……付き合うかよ。そんな、くだらないお遊戯に」


 俺は吐き捨てるようにそう言った。

 そして、ゆっくりと後方へと下がる。

 再生したゴーレムは、俺が距離を取ったのを好機と見たのか、再び巨大な拳を振り上げてくる。


 だが、もう遅い。


「エノク」

『はい、マスター』

「この空間に存在する、全ての物質の構成情報をスキャンしろ。溶岩、黒曜石、壁に含まれる未知の希少金属、その全てだ。そして、それらを素材として最高の兵器を『創造』する。設計は任せる」

『……了解しました。これより、この環境下で創造可能な最大・最強の殲滅兵器の設計を開始します』


 俺はゴーレムから十分な距離を取ると、その場に深く腰を落とした。

 そして、両の手のひらを眼下に広がる灼熱の溶岩の海へと突き出す。

 これから行うのはただの武器創造ではない。

 このダンジョンの中層エリアそのものを、俺だけの『兵器』へと作り変える、神の所業にも等しい大創造だ。


「さあ、始めようか」


 俺の頭の中に、エノクが凄まじい速度で構築した、常識外れの兵器設計図が流れ込んできた。


『設計、完了。対要塞用・超電磁加速砲。『レールガン』。創造を開始してください』


 俺の口元が、仮面の下で大きく吊り上がった。


「上等だ」


 俺がそう呟いた瞬間。

 俺の眼下に広がる広大な溶岩の海が、まるで意思を持った生き物のように大きく蠢き始めた。

 グツグツと煮えたぎるマグマが巨大な渦を成し、俺の両手の先に凄まじい勢いで吸い寄せられていく。

 同時に、俺が立っている黒曜石の地面がバリバリと音を立てて亀裂を走らせる。壁や天井からもキラキラと光る金属の粒子が剥離し、光の帯となって俺の元へと集まってきた。

 この空間に存在する全ての『素材』が、俺の『創造権能』という絶対的な命令の元に、その姿を変えていく。


 集まった物質は灼熱の光を放ちながら、一つの形を成していく。

 二本の長大なレール。それを支える頑丈な砲架。そして、後部に設置された巨大なエネルギー増幅装置。

 全長は二十メートル以上。

 もはやそれは個人が携行するような兵器ではない。

 かつての戦艦の主砲にも匹敵する、巨大な鉄の怪物だった。

 バチバチッと青白い放電が砲身の周りを走り、空気を焦がすオゾンの匂いがあたりに立ち込める。


 ガーディアンは、俺が何をしているのか理解できないのだろう。ただ、その本能が目の前で起きている常識を超えた現象に最大級の危険を感じ取っているのか、ただ立ち尽くしたまま動かない。


 いや、動けないのだ。

 再生するための素材である黒曜石そのものが、今、俺の兵器の一部へと作り変えられているのだから。


『レールガン、構築完了。エネルギー充填、開始します』


 エノクの静かな宣言。

 二本のレールの間に空間が変形するほどの凄まじい電力が収束していく。

 そして、その中心に『弾丸』が創造される。

 それはただの鉄の塊ではなかった。

 この空間で最も高密度な金属元素を極限まで圧縮し、物理法則が許容する限界質量を一点に凝縮させた、小さな黒い球体。


『……充填、完了。いつでも、撃てます』

「そうか」


 俺はゆっくりと立ち上がった。

 そして、完成した巨大なレールガンの発射トリガーにそっと指をかける。

 狙いはゴーレムではない。

 そんな、ちっぽけな的ではない。


 俺が狙うのは、あのゴーレムが塞いでいる通路、そのものだ。

 ゴーレムも、道を塞ぐ地形も、全てまとめてこの世から消し飛ばしてやる。


「――掃除、完了だ」


 俺は誰に言うでもなくそう呟くと、何の感慨もなくトリガーを引いた。

 音はなかった。

 ただ、世界から一瞬、色が消えた。

 青白い閃光が全てを白く塗りつぶし、直後、全てを飲み込む絶対的な破壊の力が空間を駆け抜けた。

 超質量の弾丸はガーディアンの巨体に触れた瞬間、その存在を原子レベルで蒸発させた。

 再生する暇さえ与えずに。

 そして、その勢いは止まらない。

 ゴーレムが塞いでいた通路の壁を、まるで熱したナイフでバターを切るようにいとも容易く貫き、その奥の岩盤ごと一直線に消滅させていく。

 轟音は、破壊が全て終わった後から遅れてやってきた。


 ドゴォォォォォォォォン!


 ダンジョン全体が激しく揺れる。

 天井からパラパラと岩の破片が落ちてきた。

 やがて衝撃が収まった時、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 ガーディアンは跡形もなく消え去り、その向こうには直径十メートルの、非の打ちどころのない円形のトンネルが、どこまでもまっすぐに闇の奥へと続いていた。

 壁面は超高熱によってドロドロに融解し、ガラスのようにテラテラと光っている。


「……ふぅ」


 俺は一つ、息をついた。

 目の前でその役目を終えた巨大なレールガンが、サラサラと光の粒子になって消えていく。

 後には、静寂と破壊の爪痕だけが残された。


『……目標の殲滅を確認しました』

「ああ。少し、やりすぎたかもしれんな」


 俺は自らが穿った巨大な風穴を眺めながら、そう呟いた。

 無限に再生する番人も、もういない。

 俺の目の前には、ダンジョンのボス部屋へと続く一本のまっすぐな道だけが続いていた。

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