第十四話:新宿三丁目ダンジョン

 俺の城。その巨大な窓から見下ろす新宿の街は、巨大な電子基板に無数のLEDをぶちまけたかのように、ただキラキラと輝いている。あの光の奔流の下で、今まさに未曾有の大災害が起きようとしていることなど、誰も知らない。


 呑気なものだ。


 そして、その呑気な日常が、俺がこれから守ろうとしているモノでもある、という事実が、ひどく皮肉っぽく感じられた。


「行くぞ、エノク」


 俺の呟きに、脳内だけに存在する相棒が、平坦な合成音声で応じる。


『はい、マスター。転移座標、設定完了。目標、新宿三丁目ダンジョン、ゲート前半径500メートル圏内の任意の裏路地。実行しますか?』


「ああ。さっさと終わらせて、見逃した映画の続きを見る」


『了解しました。空間転移、実行』


 その言葉と共に、俺の視界がぐにゃりとゼリーのように揺れた。次の瞬間、俺はタワーマンションの最上階から、アスファルトと生ゴミの匂いが立ち込める、薄暗い路地裏へと立っていた。


 ほんの数秒。


 これが、俺のチートスキル。もはや、物理的な距離に意味はない。


 路地裏から大通りへ一歩踏み出すと、途端にけたたましいサイレンの音と、人々の怒号が鼓膜を叩いた。ダンジョンの方角に繋がる大通りは、警察車両によって完全に封鎖されている。その向こう側には、おびただしい数の探索者や、野次馬、そして報道陣がごった返しており、巨大な蟻塚をひっくり返したような、無秩序なカオスが広がっていた。


「うわ、何だよこれ……」

「ダンジョンから、赤い光が漏れてるぞ!」

「ギルドの公式発表はまだか!」


 誰もが、不安と興奮が入り混じった顔で、一つの方向を見つめている。

 その視線の先。高層ビル群の谷間に、まるで異界への裂け目のように、そのダンジョンは口を開けていた。


 S級ダンジョン『新宿三丁目ダンジョン』。


 その入り口は、普段は青白い光を静かに放っているだけだが、今は違う。まるで、巨大な心臓がドクドクと脈打つように、禍々しい赤黒い光が、明滅を繰り返している。その光に合わせて、ビリビリと空気が震えているのが、肌で感じられた。


『内部の魔力圧が、外部にまで漏出しています。ブレイクの前兆現象としては、末期的症状です』


「違いないな。見ただけで胸クソ悪くなる光景だ」


 俺は、フードを目深に被り直し、その喧騒を他人事のように眺めていた。

 封鎖線の最前線では、いかにも高ランクといった風情の、きらびやかな装備に身を包んだ探索者たちが、何やら深刻な顔で話し込んでいる。彼らは、今の日本におけるトップランカーたちなのだろう。メディアで顔を見たことがあるような連中も、ちらほらと混じっている。


「くそっ、どうなってるんだ! 結界が、昨日よりもさらに強力になってやがる!」

「これじゃあ、近づくことすらできんぞ!」

「解析班! まだ突破口は見つからないのか!」


 彼らの焦燥に満ちた声が、風に乗ってここまで聞こえてくる。

 どうやら、ダンジョンの入り口に発生したという、厄介なギミックに、手を焼いているらしい。


「エノク。例の『警報装置』、改めて詳細を教えろ」


『はい。対象は、極めて広範囲に展開された、魔力感知式の防衛システムです。侵入者の魔力に反応し、無制限に警報を発報。同時に、ダンジョン内部の構造を、リアルタイムで変化させ、侵入者を孤立、排除します。あなた方の文明の技術では、魔力を完全遮断することは不可能です。故に、日本のトップランカーたちも、この第一関門を突破できずにいるのです』


「なるほどな。玄関のチャイムがうるさすぎて、家に入れない、と。実に、間抜けな話だ」


 俺は、彼らの無力さを鼻で笑った。


 魔力を隠す? 遮断する? 


 発想が、根本的に間違っている。

 そもそも、『存在』がそこにあるから、感知されるのだ。

 ならば、答えは一つしかない。


「最初から、そこに『無かった』ことにすればいい」


『ご明察です、マスター。それが、このギミックを突破する、唯一にして、最善の解答です』


「そのためには、今のこの装備じゃ、まだ足りない。少し、手を加える必要があるな」


 俺は、喧騒から離れ、再び人気のない路地裏へと戻った。そして、ビルの壁を駆け上がり、月明かりが差し込む屋上へと、音もなく降り立つ。

 眼下には、未だ混乱の渦中にある新宿の街。そして、その中心で、破滅の時を待つ、赤い腫瘍。


「エノク。設計を頼む。今の俺の『絶影』装備をベースに、俺のスキルである、空間歪曲を応用した、完全ステルス機能を追加する。俺という存在の『情報』そのものを、この空間から一時的に切り離す。そういうイメージだ」


『了解しました。理論上は可能です。マスターの『創造権能』ならば、それを実現できるでしょう。設計データ、構築開始。……完了。脳内へ転送します』


 エノクの返答と共に、俺の頭の中に、あまりに複雑で、そしてあまりに美しい、新たな設計図が流れ込んできた。

 それは、ただ姿を消すための技術ではなかった。

 俺という個体を構成する、全ての物理情報、魔力情報、因果情報。その全てを、高次元の膜で覆い、この三次元世界から、一時的に『存在しない』ものとして定義し直す。

 もはや、それは魔法や科学というよりも、哲学の領域に近い、神の御業だった。


「面白い。やってやろうじゃないか」


 俺は、両手を胸の前に突き出した。

 身にまとった漆黒のロングコートが、風もないのに、バサリと大きく翻る。

 そして、俺は、自らの存在を、この世界から、消し去るための『創造』を開始した。


 シュン、という微かな空気の振動。


 俺の身体の周囲の空間が、まるで陽炎のように、わずかに揺らめき始めた。

 ロングコートの表面に、目には見えない、幾何学的な紋様が、光の速さで刻まれていく。それは、空間そのものを折り畳み、縫い合わせるための、超高密度の術式だった。

 仮面の内側では、情報阻害ジェネレーターが、新たな機能を追加され、静かに再起動する。

 ブーツの底には、俺が歩くことで生じる、僅かな地面の振動すらも、完全に吸収し、無効化するフィールドが形成されていく。


 全ての改変が終わるのに、かかった時間は、わずか10秒。


 俺のMPが、ごくわずかに消費される。無限の力を持つ俺にとって、それは、もはや誤差にも等しいコストだった。

 創造が終わった時、俺の姿に、見た目上の変化は、何もなかった。


 だが、俺自身には、はっきりと分かった。


 世界との間に、一枚、薄くて、それでいて絶対に破れない膜が、挟まったような感覚。

 周囲の音が、少しだけ遠くに聞こえる。

 空気の匂いが、希薄になった気がする。

 俺は、今、ここに立っていながら、同時に、どこにもいない存在となった。


『ステルス機能、正常に作動しています。現在のマスターは、いかなる物理的、魔力的センサーにも、感知されることはありません』


「ああ。よく分かる。世界から、一本線を引かれたみたいだ」


 俺は、屋上の縁に立つと、躊躇なく、そこから眼下の闇へと、身を投げた。

 数十メートルの高さ。普通なら、地面に叩きつけられて、トマトのように潰れるのがオチだ。

 だが、俺の身体は、重力に引かれながらも、まるで羽毛のように、ゆっくりと、そして音もなく、地面に降り立った。

 着地の衝撃は、皆無だった。


「よし。行くか」


 俺は、再び、あの喧騒の中心地へと、歩き出した。

 今度は、誰に遠慮する必要もない。俺は、封鎖線の真ん中を、堂々と突っ切っていく。

 警備にあたっている警官たちの、すぐ脇を通り過ぎる。彼らは、俺の存在に、全く気づかない。

 トップランカーたちが、必死の形相で睨みつけている、その目の前を、横切る。彼らの鋭い感覚も、俺という『無』を捉えることはできない。

 ただ、俺が通り過ぎた瞬間、何人かが、訝しげな顔で、自分の首筋をさすった。


「……ん? なんだ、今の悪寒は……」

「どうした?」

「いや……何でもない」


 そんな、些細なやり取りが聞こえてきたが、彼らがその原因に思い至ることは、永遠にないだろう。

 俺は、誰にも気づかれることなく、ダンジョンの入り口、あの赤黒い光を放つ、巨大なゲートの前に、たどり着いた。

 ゲートの前には、まるで透明な壁でもあるかのように、魔力のオーラが、激しく渦を巻いていた。これが、あの魔力感知式の防衛システムか。


 俺は、その魔力の壁に向かって、何のためらいもなく、一歩、足を踏み入れた。


 触れた瞬間、魔力の壁が、まるで意思を持っているかのように、俺を避け、左右に分かれた。


 けたたましく鳴り響くはずの警報は、沈黙を保ったまま。

 複雑怪奇に変化するはずのダンジョンの構造も、静まり返っている。


 俺は、振り返ることなく、ゲートの奥、ダンジョンの胎内へと、その身を沈めていった。



 ダンジョンの内部は、外から見た赤黒い光とは裏腹に、不気味なほど、静かで、そして青白い光に満たされていた。

 床も、壁も、天井も、まるで巨大な生物の体内を思わせる、なまめかしい曲線を描いた、未知の物質で構成されている。


 それは、石のようでもあり、金属のようでもあり、そして、どこか有機的な印象も受けた。

 足元は、わずかに弾力があり、一歩踏み出すごとに、ブニ、と湿った音がする。空気は、ひんやりとしていて、濃いオゾンの匂いと、微かな腐臭が混じり合ったような、不快な匂いがした。


「……趣味の悪い内装だな」


 俺は、仮面の下で、顔をしかめた。


『はい。高濃度の魔力によって、空間そのものが、半生命体化しているようです。ブレイクが近いダンジョンによく見られる現象です』


「気味が悪いことこの上ないな」


 通路は、一本道ではなかった。まるで蟻の巣のように、無数に枝分かれし、複雑な迷路を形成している。

 だが、今の俺に、迷うという概念はない。


『エノク。ボス部屋までの、最短ルートを割り出せ』


『了解。ダンジョン全体の構造をスキャンし、最適ルートを算出します。……完了。マスターの視界に、ナビゲーションラインを表示します』


 俺の仮面の内側、視界の隅に、青白い光の矢印が、すっと浮かび上がった。

 俺は、その矢印が示す方向へ、黙々と歩を進める。

 しばらく進むと、最初の広間に出た。広さは、体育館ほどだろうか。

 そして、そこには、最初の『番人』がいた。


 うねうねと蠢く、数十本の触手を持った、巨大な肉塊。

 それは、広間の中央に鎮座し、まるで呼吸でもするかのように、ゆっくりと膨張と収縮を繰り返している。

 その表面には、無数の目が、ぎょろぎょろと、あらゆる方向を監視していた。


『Aランクモンスター、『サウザンド・アイズ』。その視界に入ったものを、石化させる邪眼を持ちます。注意してください』


 エノクの警告。

 だが、そのモンスターは、俺が広間に入ってきたというのに、全く反応を示さない。

 無数の目は、ただ、虚空を見つめているだけだ。


「……なるほどな」


 俺は、そのモンスターのすぐ脇を、何事もなかったかのように、通り過ぎていく。

 俺の存在は、『無』だ。

 たとえ、千の目があろうと、万の目があろうと、『存在しない』ものを見ることはできない。


 最初の関門は、こうして、何の戦闘も起こらずに、終わった。


 伝説の始まり?

 不可視の侵入者?


 そんな大層なものじゃない。

 これは、ただの面倒な害虫駆除。


 俺は、誰にも知られることなく、このダンジョンの最深部へと、ただ、静かに歩を進めていく。


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