第十三話:高い城から
全ての改築作業を終えた俺の城は、静寂そのものだった。
あれだけ耳障りだった地上の喧騒は、嘘のように掻き消えている。車のクラクションも、けたたましいサイレンも、雑踏のざわめきも、何も聞こえない。この漆黒の空間は、音という概念そのものを拒絶しているかのようだ。
俺は、自ら『創造』した、黒い本革の巨大なソファに、身体を深く沈み込ませていた。ズブリ、と柔らかなクッションが俺の体重を受け止め、全身の力が抜けていく。手には、先ほど淹れたばかりの、深く香るコーヒー。その温かさが、指先からじんわりと伝わってくる。
目の前には、壁一面を覆い尽くす、巨大な窓。
その向こうには、熱病に浮かされたみたいに点滅を繰り返す、東京の光の海がどこまでも広がっていた。それはまるで、巨大な電子回路の基板を真上から眺めているように見えた。
二ヶ月前。
あの光の一つ一つの中で、俺は歯を食いしばって生きていた。満員電車に押し込まれ、理不尽な上司に頭を下げ、たった数枚の紙幣のために、魂をすり減らしていた。あの頃の俺が、この光景を見たら、一体何を思うだろうか。
嫉妬か、絶望か、それとも、ただ呆然とするだけか。
まあ、どうでもいいことだ。
過去の俺は、もういない。今の俺は、あの光の海を遥か下に見下ろし、コーヒーをすすっている。それが、今の俺の立ち位置であり、紛れもない事実だった。
「マスター。生活基盤が確立されました。これより、次のフェーズへ移行しますか?」
俺の脳内に、姿を消したエノクの、いつも通りの平坦な声が響いた。こいつは、俺が感傷に浸ることを許さないらしい。まあ、その方が、俺の性には合っているが。
「次のフェーズ、ね。そうだな」
俺は、カップに残っていたコーヒーを、一気に飲み干した。苦みが、思考をクリアにする。
「この生活は、気に入った。誰にも邪魔されず、自分の好きなように時間を過ごせる。最高だ。だが、この平穏は、放っておけばいつか壊される。そうだろ?」
『ご明察です。世界は常に流動しています。予測不可能な事象は、いずれ必ず、マスターの領域を脅かすでしょう』
「だよな。だから、ルールを決めることにした」
俺は、空になったカップをテーブルに置くと、ソファに深くもたれかかったまま、天井を仰いだ。漆黒の天井には、俺の姿はおろか、何も映り込んではいない。
「俺には、世界を救う気も、人類を導く気も、これっぽっちもない。そんなものは、暇な奴がやればいい。俺が守りたいのは、ただ一つ。この、俺だけの平穏な日常だけだ」
『はい。そのように認識しています』
「だから、俺は、こう決めた。『俺の平穏を脅かす可能性のある面倒事は、芽のうちに、徹底的に、誰にも知られずに摘み取る』。これが、俺の行動指針だ」
正義感でも、使命感でもない。
ただの、害虫駆除。庭の雑草抜き。
俺の快適な生活空間を汚す可能性のあるゴミを、前もって掃除しておくだけの話だ。
『極めて合理的です、マスター。その行動指針に基づき、今後の活動規範を再構築します』
「ああ、頼む。それで、その『掃除』をする時の、俺の呼び名が必要になるな。いつまでも『俺』じゃ、しまりが悪い」
漆黒の装備を身にまとった、正体不明の存在。
そいつに、ふさわしい名前。
「……影のように現れ、誰にも気づかれずに、全てを終わらせて去る。そうだ、『絶影』。俺のコードネームは、今日からそうしよう」
『ゼツエイ。……登録しました。これより、マスターの対外活動用の識別コードを、『絶影』とします』
「よし。それで、その『絶影』が活動するためには、情報が必要だ。面倒事の『芽』がどこにあるのか、事前に知る必要がある。そのための『目』と『耳』を、この城に創る」
俺は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
そして、窓とは反対側の、だだっ広い漆黒の壁の前に立つ。
「エノク。ここに、全球モニタリングシステムを構築する。この星の、ありとあらゆる情報を、リアルタイムで収集、分析、表示できる、俺だけの監視網だ。お前が、その管制を担え」
『了解しました。アトランティスの情報収集技術と、私の演算能力を統合し、最高のシステムを構築します』
俺は、壁に向かって、右手を突き出した。
再び、『創造権能』を発動させる。
壁の表面が、水面のように揺らめき、その漆黒の色が、内側から発光するような、深い蒼色へと変わっていく。
それは、ただのディスプレイではなかった。壁そのものが、情報の表示媒体として機能する、巨大な表示装置へと化していく。
壁の中央に、青白い光で描かれた、巨大な地球のホログラムが浮かび上がった。その周囲を、無数の衛星が、光の尾を引きながら旋回している。
『――全球モニタリングシステム、起動。世界中の軍事衛星、公的機関のサーバー、通信傍受システム、そして、インターネット網、その全てへのアクセスを開始します』
エノクの宣言と共に、壁一面に、おびただしい数のウィンドウが、滝のように流れ始めた。
株価の変動、各国のニュース速報、気象データ、SNSのタイムライン、果ては、軍の暗号通信に至るまで、この星で生み出される全ての情報が、膨大な光の奔流となって、俺の目の前を通り過ぎていく。
常人なら、見ただけで発狂するような情報量だ。だが、今の俺の脳は、その全てを、ただの景色として、冷静に処理していた。
「……これが、神の視点ってやつか」
俺は、自嘲気味に呟きながら、再びソファへと戻った。
目の前の壁に映し出される、世界の縮図。それを眺めながら、俺は、また新しいコーヒーを淹れる。
まるで、巨大な水槽で、熱帯魚の群れを眺めているような気分だった。
『情報のフィルタリングを開始。マスターの定めた行動指針、『平穏を脅かす可能性のある面倒事』に該当する蓋然性の高い事象を、優先的に抽出します』
エノクの言葉と共に、無秩序に流れていた情報の滝が、いくつかの太い流れへと整理されていく。
『紛争・テロ』『経済危機』『大規模災害』『パンデミック』。
そして、ひときわ大きく表示された項目。
『ダンジョン関連脅威』
ウィンドウが、次々と開いては消えていく。
『北米大陸、B級ダンジョン『コボルト鉱山』にて、大規模なスタンピード発生の兆候。死傷者予測、約300名』
「……俺の平穏には関係ないな」
『ユーラシア連合、国家備蓄用の魔石が、テロリストグループによって強奪されました。核兵器への転用が懸念されます』
「それも、向こうの国の問題だ。こっちに火の粉が飛んでくるまでは、静観だな」
『南洋上にて、未確認の超巨大モンスター出現。複数の艦隊が交戦するも、撃破に失敗。目標は、日本列島へ向けて進行中』
「……それは、少し面倒だな。だが、自衛隊と、日本のランカーどもに任せておけばいい。俺が出るまでもない」
俺は、コーヒーをすすりながら、世界の危機を、まるで他人事のように、次々と切り捨てていく。
エノクは、俺の判断に、何の意見も挟まない。ただ、淡々と、新たな情報を提示し続けるだけだ。
このシステムが稼働し始めてから、数時間が経過した。
俺は、ソファの上で、退屈しのぎに、ネットで話題の映画をストリーミング再生し始めた。壁の片隅に、映画のスクリーンをウィンドウ表示させ、世界の危機情報と並べて鑑賞する。なんとも、シュールな光景だ。
映画が、ちょうど中盤に差し掛かった、その時だった。
ピコン、ピコン、ピコン!
今まで聞いたことのない、甲高い警告音が、静かな室内に鳴り響いた。
壁の中央、巨大な地球儀のホログラム。その日本列島の上空が、禍々しい赤色で、激しく点滅を始めた。
同時に、全てのウィンドウの上を上書きするように、一つの巨大なウィンドウが、壁の中央に、デカデカと表示される。
『緊急警報:カテゴリーS。脅威レベル、最大』
「……なんだ?」
俺は、見ていた映画を一時停止し、ソファから身を起こした。
ウィンドウに、詳細な情報が、高速で表示されていく。
『観測地点:日本・東京・新宿区』
『対象:S級ダンジョン『新宿三丁目ダンジョン』』
『事象:内部魔力濃度、臨界点へ向けて急上昇中。空間座標の固定が不安定化。ダンジョン・ブレイク発生の蓋然性、99.98%』
『予測時刻:12時間以内』
ダンジョン・ブレイク。
その言葉の意味を、俺は知っていた。アトランティスのアーカイブで、嫌というほど、その悲惨な記録を見せられたからだ。
「おい、エノク。ダンジョン・ブレイクってのは、確か……」
『はい。ダンジョンと、我々の現実世界の境界が破壊され、内部のモンスターが、無差別に現実世界へ溢れ出す、最悪の災害です。過去の事例によれば、S級ダンジョンのブレイクが発生した場合、その周辺都市は、例外なく、一夜にして壊滅しています』
エノクの、どこまでも平坦な声が、事の重大さを、逆に際立たせていた。
「関東一帯が壊滅か……ま、俺の知ったことじゃない」
俺は、吐き捨てるように、そう言った。
「誰が死のうが、街が一つ消えようが、俺には関係ない。俺は、もう、あの世界の人間じゃない」
『感情的反応と判断します。ですが、マスター。論理的に思考してください』
エノクの声が、俺の自己中心的な独白を、容赦なく遮った。
『東京が壊滅した場合、その混乱は、国家機能全体に、瞬く間に波及します。交通網は麻痺し、物流は停止。金融システムはクラッシュし、政府機能も失われるでしょう。それは、近代国家の死を意味します』
「……それが、どうした」
『マスターが築き上げた、その莫大な資産も、国家という裏付けがなければ、ただの電子データと化します。あなたがこれから享受しようとしている、快適で自由な生活の基盤、その全てが、根底から覆るのです。あなたの平穏もまた、保証されません』
「…………」
ぐうの音も出なかった。
そうだ。こいつの言う通りだ。
俺が、どれだけ金を持っていようと、どれだけ強大な力を持っていようと、この社会システムの上で生きている以上、その崩壊から、逃れることはできない。
コンビニで、好きなものを買うこともできなくなる。ネットで、映画配信を見ることもできなくなる。俺が望んだ、ささやかで、それでいて絶対的な自由は、このちっぽけな島国が、かろうじて平穏を保っているという、薄氷の上でしか、成り立たない。
「……ちっ」
俺は、盛大に舌打ちをした。
なんて、面倒くさい。
なんて、腹立たしい。
自ら定めた、たった一つのルール。
『俺の平穏を脅かす可能性のある面倒事を、芽のうちに摘み取る』
そのルールが、巨大なブーメランとなって、俺の後頭部に、クリーンヒットした。
新宿三丁目ダンジョンのブレイク。
それは、今、この瞬間に、俺の平穏を脅かす、最大級の『面倒事』だった。
ソファの背もたれに、ぐったりと体重を預ける。
壁のウィンドウでは、新宿ダンジョンの魔力濃度を示すグラフが、赤い線を、じりじりと、破滅の閾値へと伸ばし続けている。
やるしかないのか。
この俺が。
あの、忌まわしい社会のために。
いや、違う。
社会のためじゃない。
誰かのためでもない。
ただ、俺が、明日も、このソファで、くだらない映画を見ながら、うまいコーヒーを飲むために。
ただ、それだけのために。
「……はぁ」
俺は、今世紀最大ともいえる、深いため息をついた。
そして、ゆっくりと、重い腰を上げた。
「仕方ない」
その声は、自分でも驚くほど、静かで、冷え切っていた。
「掃除の時間だ」
俺は、着ていた部屋着を、光の粒子に変えて消し去ると、代わりに、あの漆黒の装備一式を、その身に呼び出した。
シルクのように滑らかなロングコート。音を吸収する特殊なブーツ。そして、何の感情も映さない、能面のような黒い仮面。
最後に、フードを深く被り、俺は、再び『絶影』となった。
壁のモニターに表示された、新宿ダンジョンの構造図を、俺は、冷たい視線で見下ろす。
日本政府ですら、攻略を諦めたという、最難関のS級ダンジョン。
内部は、無数のトラップと、神話級のモンスターで満ちているという。
「さて、エノク」
俺は、巨大な窓の前に立ち、眼下に広がる、まだ何も知らずに輝き続ける、新宿の街を見下ろした。
「初仕事だ。手際よく、終わらせるぞ」
『了解しました、マスター。これより、『絶影』の初任務を開始します』
俺の平穏なスローライフを邪魔する、害虫の駆除が始まろうとしていた。
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