第十二話:資本主義の牙城

 ガラス張りの自動ドアが、静かに左右へ開く。

 店内には、観葉植物の緑と、清潔なオフィス特有の匂いが満ちていた。壁には、おびただしい数の物件情報が、これでもかと張り出されている。

 俺のくたびれたスーツ姿を一瞥した受付の女性社員は、あからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた。


「いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件でしょうか」


 その声には、マニュアル通りの丁寧さの裏に、「どうせ冷やかしだろう」という色がはっきりと滲んでいる。まあ、無理もない。今の俺の格好は、どう見ても高級物件を探しに来た人間のものではない。せいぜい、ワンルームのアパートでも借りに来た、場末の男だ。


「ああ」


 俺は、そんな彼女の視線を意にも介さず、店の外のショーウィンドウを指さした。


「あれ、見たいんだが」


「あれ、と申しますと……」


 受付の女性は、俺が指さした先を見て、わずかに眉根を寄せた。俺が指していたのは、この店が扱う物件の中でも、最も高額で、最も格式の高い、あのタワーマンションの広告だった。


「お客様、あちらの物件はですね……」


 彼女が何か言い訳がましいことを口にしようとした、その時。

 奥のデスクから、人の良さそうな、しかし、抜け目のなさそうな目をした中年の男が、ゆっくりと立ち上がって、こちらへやってきた。胸には『店長』と書かれたプレートが付いている。


「お客様、大変失礼いたしました。私がご案内させていただきます」


 店長は、俺の全身を値踏みするように眺めながらも、にこやかな笑顔を崩さない。長年の経験で、見かけだけでは判断できない『本物』がいることを、知っているのだろう。


「ああ、分かった」


 俺は、店長に向き直ると、もう一度、広告を指さした。


「あのマンション。一番上の階、ワンフロア全部を買いたいんだが」


「……はい?」


 さすがの店長も、一瞬、何を言われたのか理解できない、という顔をした。隣の受付の女性に至っては、あんぐりと口を開けたまま、完全に固まっている。


「ですから、あのマンションの最上階を、フロアごと購入したい、と。空いてるんだろ?」


「は、はい!もちろん、空いておりますが……お客様、あちらの物件は、分譲価格が……その……」


 店長は、言葉を濁しながら、冷や汗を浮かべている。


「金額なら問題ない。キャッシュで払う」


 俺が、こともなげにそう告げた瞬間。


 店内の空気が、ピシリと凍りついた。


 店長の顔から、営業用の笑顔が完全に消え去り、代わりに、驚愕と、わずかな畏怖のようなものが浮かんでいる。

 彼は、ごくりと喉を鳴らすと、慌てて姿勢を正した。


「……かしこまりました。すぐにご案内の準備をいたします! どうぞ、こちらのお席へ!」


 手のひらを返したような、とは、まさにこのことだろう。


 俺は、店の奥にある、ふかふかのソファが置かれた応接スペースへと通された。さっきまで俺を蔑んでいた受付の女性が、震える手で、やけに高級そうなカップに入ったコーヒーを運んでくる。


 実に、分かりやすい。


 金というものは、これほどまでに、人の態度を容易く変えさせるものなのか。


『ご明察です、マスター。資本主義社会において、資産は絶対的な権力の一つです』


 脳内に響く、エノクの冷静な分析。


「違いないな。せいぜい、利用させてもらうさ」


 俺は、内心でそう呟きながら、出されたコーヒーに、静かに口をつけた。



 不動産屋が用意した黒塗りの高級車は、滑るように都心の道路を進んでいく。

 後部座席で、俺の隣に座った店長は、先ほどからひっきりなしに、あのタワーマンションがいかに素晴らしい物件であるかを、熱っぽく語り続けていた。


「お客様、あちらが、今回ご案内いたします『アークスフィア新宿』でございます!」


 車が、あるビルの前で停車する。

 俺は、窓の外を見上げ、その威容に、わずかに目を見張った。

 天を突くようにそびえ立つ、ガラスと金属で構成された、未来的なデザインの超高層ビル。周囲のどの建物よりも高く、まるで都市の支配者のように、悠然とそこに建っていた。


「さあ、こちらへどうぞ」


 店長に促され、車を降りる。

 エントランスは、まるで高級ホテルのロビーのようだった。磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた、巨大なオブジェのような照明。そして、居住者のために控えている、コンシェルジュと呼ばれるスタッフたち。

 俺たちが足を踏み入れると、一人のコンシェルジュが、深々と頭を下げた。


「お待ちしておりました」


 どうやら、店長が事前に連絡を入れていたらしい。

 俺たちは、居住者用のエレベーターホールへと案内された。そこには、何基ものエレベーターが並んでいたが、俺たちが向かったのは、その一番奥にある、一台だけデザインの違う、特別なエレベーターだった。


「こちらは、最上階のペントハウスへ直通の、プライベートエレベーターでございます」


 店長が、得意げに説明する。

 カードキーをかざすと、重厚な金属の扉が、静かに開いた。

 内部は、絨毯が敷かれ、間接照明で照らされた、贅沢な空間。上昇を始めても、ほとんど揺れを感じない。ただ、耳が、わずかに気圧の変化を捉えているだけだ。


 やがて、チーン、という澄んだ音と共に、エレベーターが停止した。

 扉が開いた先は、もう建物の内部ではなかった。

 だだっ広い、玄関ホールのような空間。そして、その正面の壁は、床から天井まで、一枚の巨大なガラス窓になっており、その向こうには、息を呑むような絶景が広がっていた。


「……ほう」


 俺は、思わず、感嘆の声を漏らした。

 眼下には、東京の街並みが、まるでおもちゃのジオラマのように、どこまでも広がっている。高層ビル群が、ミニチュアのように見えた。遠くには、他の都市の輪郭が、霞んで見えている。


「こちらが、最上階のワンフロア全てを占有する、ペントハウスでございます。広さは、約800平方メートル。間取りは、お客様のお好みで、自由に設計できるよう、現在はスケルトン状態となっております」


 店長の説明も、もはや耳に入ってこない。

 俺は、ゆっくりと、その広大な空間を歩き回った。まだ、壁も何もない、ただのコンクリート打ちっぱなしの空間。だが、そのポテンシャルは、嫌というほど伝わってくる。

 四方の壁は、全てが巨大な窓ガラスになっており、360度、どの方向からも、東京の景色を一望できた。


 この高さ。

 この広さ。

 そして、誰にも邪魔されない、このプライベートな空間。


 俺がこれから築く『城』の土台として、これ以上の場所はないだろう。


『マスター。この建物の構造データをスキャンしました。耐震、耐火性能共に、あなた方の文明の最高基準を満たしています。ですが、我々がこれから行う『改築』の負荷には、到底耐えられません』


 脳内で、エノクが冷静に告げる。


「分かってる。骨組み以外は、全部作り変える。基礎から、な」


 俺は、窓の外の景色を眺めながら、この広大な空間を、どう魔改造してやろうかと、頭の中で構想を練り始めていた。

 物理的な防御はもちろん、魔力的な干渉、電子的な侵入、その全てを完全に遮断する、絶対的な聖域。

 誰にも、何者にも、俺の平穏を脅かすことはできない、難攻不落の要塞。


 俺の口元に、再び、笑みが浮かんだ。

 実に、面白くなってきた。


「気に入った」


 俺は、景色から視線を外し、隣で固唾を飲んで俺の反応を待っていた店長に向き直った。


「ここに決める。契約書を」


「は、はい! ただちに!」


 店長の、裏返った声が、がらんとした空間に、やけに大きく響き渡った。



 契約は、驚くほど、あっさりと終わった。

 不動産屋に戻り、分厚い契約書の束に、いくつかサインをする。住所の欄には、エノクが再構築した情報を書き込んだ。

 そして、最後の支払い手続き。


「それでは、お客様。後日で構いませんので、こちらの口座へ、お振込みを……」


 店長が、振込先の口座情報が書かれた紙を差し出してくる。その額、数十億円。普通の人間なら、一生かかっても目にすることのない金額だ。


 だが、今の俺からすれば、それは『はした金』だ。


「ああ」


 俺は、頷くと、スーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出した。

 そして、店長の目の前で、銀行のアプリを起動させ、振込先情報を入力し、金額を打ち込む。


「……これで、いいか」


 最後に、送金ボタンを、何の感慨もなく、ただの事務作業のようにタップした。

 ピコン、と軽い電子音。

 俺の口座から、数十億という金が、いとも簡単に、不動産屋の口座へと移動した。


「……終わったぞ」

「……か、確認いたしますので、少々お待ちください!」


 店長は、自分のデスクに戻ると、パソコンの画面を食い入るように見つめ始めた。


「……ご、ごにゅうきん、かくにん、できました……」


 彼は、幽霊でも見たかのような顔で、こちらを振り返った。

 もはや、彼の目には、俺という人間が、理解不能の怪物か何かに見えているのかもしれない。


「そうか。じゃあ、鍵をくれ」


「は、はいっ!」


 俺は、店長から、カードキーの束を受け取ると、もう用はないとばかりに、席を立った。

 最後まで、深々と頭を下げ続ける店長と、石像のように固まったままの女性社員に背を向け、俺は、再び、あのタワーマンションへと戻った。


 もう、あの場所は、俺の『城』だ。



 再び、最上階のペントハウスへと戻ってきた。

 今度は、もう誰もいない。この広大な空間は、正真正銘、俺だけのものだ。

 俺は、玄関ホールの中央に立つと、一つ、大きく息を吸い込んだ。


「さて、と」


 ここからが、本番だ。

 俺は、スーツを脱ぎ捨てると、代わりに、あの漆黒の装備一式を身にまとった。滑らかな仮面が、俺の表情を完全に覆い隠す。


「エノク。始めるぞ」


『はい、マスター。これより、この空間の『再定義』を開始します。第一工程、物理的防御層の構築へ移行します』


「ああ」


 俺は、ゆっくりと、コンクリート打ちっぱなしの壁に、右の手のひらを触れさせた。

 ひんやりとした、無機質な感触。


「――変質せよ」


 俺が、強く、そう念じた瞬間。

 俺の手が触れた一点から、黒い波紋のようなものが、壁全体に、バチバチと音を立てながら広がっていく。

 灰色のコンクリートが、まるで墨汁を染み込ませた紙のように、みるみるうちに、漆黒へとその色を変えていく。

 それは、ただの色の変化ではなかった。

 壁を構成する、砂、砂利、セメント、そして鉄筋。その全ての分子構造が、俺の『創造権能』によって、根本から書き換えられていく。


 ゴゴゴゴゴゴ……!


 建物全体が、地響きのような唸りを上げて、微かに振動している。

 コンクリートは、ダイヤモンド以上の硬度と、チタン以上の靭性を併せ持つ、未知の金属繊維の集合体へと、その姿を変えた。

 それは、もはや壁ではない。

 核シェルターですら、赤子の玩具に思えるほどの、絶対的な装甲だ。

 壁だけでなく、床も、天井も、このフロアを支える全ての柱も、例外なく、漆黒の超硬度金属へと変質していく。


「よし。次は、窓だ」


 俺は、次に、この部屋の四方を覆う、巨大なガラス窓へと向き直った。

 指先で、軽くガラスを弾く。キィン、と高く澄んだ音がした。


「これも、作り変える」


 今度は、ただ硬くするだけではない。

 外からは、ただの鏡面のように見え、中の様子は一切窺うことができない。しかし、中からは、今まで通り、クリアに外の景色が見える。

 そして、あらゆる物理的、魔法的な攻撃を完全に透過させ、無効化する、特殊な空間歪曲機能も付与する。


 俺が、再び、権能を発動させると、巨大なガラスが、オーロラのように、七色の光を放ちながら、その性質を変化させていった。


『物理的防御層、構築完了。推定強度は、地上のいかなる兵器でも、傷一つ付けることは不可能です』


「上出来だ」


 俺は、満足げに頷くと、次の工程へと移った。


「第二工程。魔力的防御層を構築する」


 今度は、目に見える変化ではない。

 俺は、この広大なフロアの中心に立つと、両手を広げ、意識を集中させた。

 頭の中に、エノクが提示した、アトランティスの超技術の結晶ともいえる、複雑怪奇な術式を思い描く。


 シュン、という微かな空気の振動。

 俺の足元から、目には見えない力の波紋が広がり、このフロア全体を、卵の殻のように、幾重にも覆っていくのが分かった。

 空間そのものを、この次元から、わずかに『ズラす』ことで、あらゆる魔力的な干渉を、因果のレベルで遮断する、絶対的な結界。

 それは、もはや防御というよりも、このフロアそのものを、独立した一つの小世界へと変貌させるに等しい、神の御業だった。


『魔力的防御層、構築完了。これにより、この空間は、あらゆる魔法、呪い、精神干渉、空間転移、未来予知、過去干渉、その全ての影響を受けません』


「……やりすぎじゃないか?」


 さすがの俺も、エノクの解説に、少しだけ呆れた声を漏らした。


『いいえ、マスター。あなたの平穏を守るためには、『最低限』必要です』


 また、そのセリフか。

 こいつの言う『最低限』のレベルは、どこまでも天井知らずらしい。


「……分かったよ。じゃあ、最後だ。第三工程、電子的防御層」


『はい。外部からの、いかなるハッキング、盗聴、電磁波攻撃、情報的観測を完全にシャットアウトします。同時に、この城の内部に、外部のネットワークから完全に独立した、独自のサーバーと、量子通信ネットワークを構築します』


 俺は、フロアの隅に、サーバーラックのような形状の金属塊を『創造』した。

 その内部では、俺のイメージと、エノクの超絶的な演算能力によって、現代のスーパーコンピューターを遥かに凌駕する、超高性能なAIのコアが、構築されていく。

 バチバチッ、と青白い火花が散り、サーバーが静かな駆動音を立て始めた。


『……電子的防御層、構築完了。これより、この城の管理権限は、全てマスター、及び、私エノクに移行します。外部からの、いかなる物理的、魔力的、電子的な侵入、及び、干渉は、完全に不可能です』


 全ての『改築』が終わった時。

 がらんとしていたコンクリートの空間は、静かで、荘厳で、そして、どこまでも安全な、漆黒の聖域へと、完全に生まれ変わっていた。

 俺は、その中央に、ゆっくりと歩を進めた。

 ひんやりとした、黒い床の感触が、ブーツの底から伝わってくる。


 静かだ。


 あれだけ騒がしかった、地上の喧騒が、嘘のように、何も聞こえない。

 音も、光も、空気の流れさえも、全てが、俺の許可なくして、この空間に立ち入ることはできない。


 俺は、ゆっくりと、変質させた窓のそばへ寄った。

 眼下には、宝石をぶちまけたように、きらめく東京の夜景が広がっている。

 だが、その光景は、もはや、俺がいる世界とは、何の繋がりも持たない、ただの絵画のように見えた。


 手に入れた。


 誰にも、何者にも、決して侵されることのない、俺だけの城。

 絶対的な不可侵領域。


「……ふぅ」


 俺は、仮面の下で、一つ、長い息を吐いた。


『マスター。お疲れ様でした。これで、あなたの望む『自由』のための『城』が、確立されました』


「ああ」


 すっかり真っ黒な格好の俺は、夜景を背に、ゆっくりと振り返った。

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