第三章:伝説の始まり

第十一話:自由への逃走

 富士の樹海、なんて言葉から想像するジメジメした空気は、そこにはまるでない。


 どこまでも続く木々の緑は生命力に満ちていて、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。

 俺の規格外の身体能力をもってすれば、この程度の森を抜けるのは、近所の公園を散歩するのと大して変わらなかった。


『マスター。これより市街地へ進入します。人口密集地域では、不特定多数の監視システムが稼働しています』


 俺の脳内に、相棒の事務的な声が響く。

 今、エノクはその姿を不可視化しており、俺にしか認識できないようにしていた。超常的な現象をまき散らして、面倒事を増やす趣味はない。


「ステルス機能は使えないのか?」


『物理的な観測は遮断できますが、社会に溶け込むには、存在を物理的に消すより、その存在を社会的に認識させない方が合理的です』


「……違いない。ただ、俺たちの能力は、誰にも知られるわけにはいかない」


『了解いたしました』


 俺は森の最後の木陰で足を止め、漆黒の装備を光の粒子に変えて消し去ると、代わりに『表の顔』の装備一式を『創造』した。


 ゴワゴワとした安物のスーツ。中身の入っていないビジネスバッグ。そしてつま先のすり減った革靴。


 かつての吉田リュウは、二ヶ月前にこの世から消えた。

 これからあの街に足を踏み入れるのは、彼によく似た、誰の記憶にも残らない、ありふれた男の一人となっていた。


 最後の一歩を踏み出す。


 ブーツの底が、アスファルトの硬い感触を拾った。


 時刻は、既に夕暮れに差し掛かっていた。

 生暖かい排気の匂い、遠くで鳴り響くサイレンの音、家路を急ぐ人々のざわめき。五感に流れ込んでくる情報の奔流が、最下層の静寂に慣れた身体には少しだけ刺激が強かった。


 俺は、ごく自然に人々の流れに合流し、駅へと向かう。周囲の誰も、俺という存在に注意を払う様子はない。


 どこにでもいるサラリーマン。この存在へと無関心さこそが、今の俺にとっては最高の隠れ蓑だった。


 電車に乗る。夕方の帰宅ラッシュが始まっており、車内は息が詰まるほどの混雑だった。かつてはこの時間に電車に乗ることすら叶わなかった、そんな状況も、今はただの鉄の箱に人が詰め込まれているとしか感じられない。


 吊り革を握る人々の、一日の労働で生気を吸い取られたような瞳。


 二ヶ月前。俺は常に、その瞳をしていた。


 だが今は違う。

 俺は、彼らと同じ世界にいながら、全く別の異世界にいるのだ。


「おいエノク、ここは懐かしいどころか、反吐が出るだけだな」


 脳内で、やかましい相棒にだけ聞こえるように毒づく。


『感情的反応と分析します。ですがマスター、この大都市特有の『無関心』こそが、我々の活動における最高のカモフラージュです』


「違いない。せいぜい利用させてもらうさ」


 新宿駅で降り、地上に出る。明かりが灯り始めた巨大なビル群が、夜空を狭く切り取っていた。


「それで、最初のステップはどうする? 金がなきゃ、何も始まらないぞ」


 雑踏に紛れながら、脳内でエノクに問いかける。


『ごもっともです、マスター。あなたの望む『絶対的な自由』を確立するためには、まず、経済的な自立が不可欠です。それも、一生遊んで暮らせるレベルの、圧倒的な資産が必要だと推測されます』


「違いないな。で、どうやって稼ぐ? まさかコンビニ強盗でもあるまいし」


『より効率的かつ低リスクな方法を提案します。最下層の資源を利用し、あなた方の文明で最も価値ある貴金属の一つ、『オリハルコン』を創造し、売却します』


 エノクの提案に、俺は思わず鼻で笑った。


「正気か? オリハルコンなんて、ダンジョンから、それこそ砂金一粒レベルでしか採れない代物だぞ。その流通は国家が完全に管理している。そんなものを市場に出してみろ。持ち込んだ瞬間に、俺は世界の最重要指名手配犯だ。考えただけでも面倒くさい」


『正規ルートは使用しません。裏社会のネットワークを利用します。あなた方の文明のセキュリティは、私にとってはザルのようなものです。いかなるファイアウォールも、意味を成しません』


「なるほどな。裏の連中と取引か。だが、量をどうごまかす? それに、肝心の俺の身分はどうするんだ。戸籍も口座も、行方不明者として抹消されてるはずだ。この世界に『吉田リュウ』はもういない人間だぞ」


『その懸念は不要です。ゼロから架空の個人情報を創り出すのは、いかに私でもリスクが伴います。ですが、『既に存在し、そして社会的に死亡した』人間のデータを再利用するのは容易いことです』


「……どういうことだ?」


『1925年9月15日。あなたと同姓同名の『吉田リュウ』という男性が、死亡しています。当時としては珍しく身寄りのない人物でした。そのため、現在において、彼が存在したと思われる物的痕跡は存在しないに等しいと判断しました。私は、日本国の行政データベースにアクセスし、彼の死亡記録、出生情報などから、住民票、税務情報、銀行口座に至るまで、全てのデータを矛盾なく書き換え、あなたの情報とリンクさせました。現在のあなたは、法的に何ら問題なく、この社会に存在する『吉田リュウ』です』


「……お前、とんでもないことサラッと言うな。まあいい、その計画でいこう」


 俺は、大通りから一本外れたカフェに入り、窓際の席に座った。コーヒーを一口すすると、テーブルの下で、誰にも気づかれずに一台のスマートフォンを『創造』した。

 その見た目はどこにでもある機種だが、中身はエノクがアトランティスの技術で構築した、絶対に追跡不可能な魔改造品だ。エノクが闇市場の最も深い階層へアクセスし、10人のブローカーとの交渉が始まった。


 提示する品は、全て同じ。『純度99.9%のオリハルコンのインゴット』。ただし、それぞれのブローカーには、エノクが作り上げたもっともらしい偽の来歴と分析データが添えられていた。


『これは、先日、紛争地帯に出現したダンジョンから発見されたもの』

『これは、某国の政治家が、資産隠しのために代々受け継いできた物品』


 相手は、オリハルコンという単語に、最初はプロとしての強い警戒を示した。


 なにせ、国家レベルで厳しく管理される希少なダンジョン産出物資だ。下手に手を出せば、痛い目だけでは済まない。だが、エノクが提示した非の打ちどころがない分析データと、いかにもありそうな偽の来歴は、彼らの強欲さを激しく刺激した。これは危険極まりない取引だ。しかし、成功すれば一生遊んで暮らせるだけの利益が転がり込んでくる。チャットの文面から、リスクとリターンを天秤にかけ、最終的に欲望に身を委ねた老獪な商人たちの息遣いが伝わってくるようだった。


『交渉成立。全ての取引が、合意に至りました』


 俺はカフェを出ると、深夜になるのを待った。眠らない街の喧騒の中、俺は誰に気づかれることもなく、エノクが指定した10箇所の受け渡し場所へと向かう。


 ブローカーとの取引は多岐に渡った。ある時は深夜の公園。そこにある砂場に、小さな桐箱に収めたインゴットをそっと埋めてから、軍手を落とす。

 また別の取引は、古びた雑居ビルの集合郵便受け。他のチラシに紛れ込ませるように、厳重に梱包されたインゴットを押し込む。


 全ては、完璧な非対面での受け渡しだった。


 全ての設置を終え、空が白み始めた頃。俺は、最初に利用したカフェに戻っていた。

 午前6時。手の中のスマートフォン。その画面にインストールされた、匿名暗号資産ウォレットのアプリに、最初の着金通知が表示された。


 ピコン、と軽い電子音。

 画面に表示された数字を見て、俺は、思わず目を疑った。

 ゼロが、やけに多い。


『最初の取引、成功です。日本円にして、約130億円が送金されました』


「ひゃくさんじゅう、おく……」


 たった一つの小さな金属塊が、だ。

 ブラック企業で、俺が一生どころか、一億回生まれ変わっても稼げないような金額。それが、こんなにもあっさりと。


『計算は正確です。これはまだ序の口です、マスター』


 驚きは、まだ始まったばかりだった。

 ピコン、ピコン、と、立て続けに通知が鳴り響く。


『二番目の取引、成功。150億円が送金されました』

『三番目の取引、成功。120億円が送金されました』

『四番目の……』


 もはや、金額を確認するのも、馬鹿らしくなってくる。スマートフォンの画面に表示される数字の桁が、天文学的な勢いで、膨れ上がっていく。

 最終的に、10件全ての取引が完了した時、ウォレットの残高を示す数字は、俺の貧しい想像力を、遥かに超えていた。


『全ての取引、完了。総額、1350億円。これより世界中のサーバーを経由する多重資金洗浄を開始し、金の出所を完全に分からなくした上で、マスターの口座へ送金します。このプロセスを追跡することは、現代のいかなる技術をもってしても不可能です』


 5分後。


『送金、完了しました。マスター、ご確認ください』


 エノクに促され、俺は、震える指で、スマートフォンの銀行アプリを開いた。かつて、毎月の給料日に、雀の涙ほどの金額が振り込まれるのを、ため息混じりに確認していた、あのアプリだ。

 残高照会のボタンを、タップする。

 そして。


 画面に、俺の普通預金口座の残高が、表示された。


『¥135,000,000,000』


 ゼロが、いくつあるのか、一瞬では、分からなかった。

 いち、じゅう、ひゃく、せん……。

 千三百五十億。


 俺は、スマートフォンの画面を、ただ、じっと見つめていた。

 何の感情も、湧いてこなかった。

 喜びも、興奮も、驚きも、ない。

 ただ、ひどく、静かな気持ちだった。


 ああ、終わったんだな。


 そう思った。


 金のために、誰かに頭を下げる人生。

 理不尽な命令に、歯を食いしばって耐える日々。

 たった二千円のために、命と尊厳を売り渡すような、惨めな生活。


 過去の自分という亡霊が、この無機質な数字の重みで完全に圧し潰され、塵になって消えていくような感覚。


 その全てが、今、この瞬間、完全に終わった。


 俺は、ゆっくりとアプリを閉じた。

 そして、手の中のスマートフォンを、光の粒子に変えて、跡形もなく、完全に消去した。


 カフェを出ると、外は、すっかり朝の通勤ラッシュが始まっていた。

 スーツ姿の男女が、昨日までの俺と同じように、死んだ魚のような目をして、駅へと吸い込まれていく。

 俺は、その流れに逆らうように、ゆっくりと、大通りを歩き始めた。


 誰も俺の正体に気づかない。

 誰も、俺が、この国でも有数の資産家になったことなど、知る由もない。

 彼らには彼らの地獄がある。


 俺は、俺の楽園を創る。ただ、それだけだ。


 圧倒的な力と、無限の資産。

 そして、誰にも知られない、完全な匿名性。

 俺が望んだ、自由のため、その最初のピースは、全て揃った。


 俺は、ふと、足を止めた。

 目の前には、不動産屋のショーウィンドウ。そこに張り出された、高級タワーマンションの広告が、朝日に照らされて、キラキラと輝いていた。

 都心一等地、最上階、ペントハウス。家賃の欄には、俺がブラック企業で稼いでいた年収が、霞んで見えるような数字が並んでいた。


「さて、と」


 俺の口元に 生まれ落ちて以来、初めてともいえるかもしれない。

 そんな心からの笑みが浮かんだ。


「次は、城を探すか」

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