第十話:帰還

 アトランティスが遺した最後の試練、『キメラ』との死闘を終え、俺はゆっくりと開かれたゲートの向こう側へと歩を進めた。

 MPの枯渇によって、身体の芯が空っぽになったような奇妙な浮遊感が付きまとう。


 一歩踏み出すごとに、足元がぐにゃりと揺らめくような錯覚さえ覚えた。


 だが、それでも俺の足は止まらない。


 ゲートの向こうから差し込む、青白い光。それは、最下層で俺を照らし続けていたあの無機質な光とは、明らかに波長の違う、どこか温かみを帯びた光だった。


 闘技場と地上を繋ぐ通路は、驚くほど短かった。なだらかな上り坂を数十メートルも進むと、光は急速にその強さを増し、やがて俺の全身を包み込んだ。

 思わず目を細める。

 光に慣れた目が再び視界を取り戻した時、俺はそこに立ち尽くしていた。


「……ああ」


 乾いた唇から、自分でも驚くほど穏やかな声が漏れた。


 そこは、洞窟の出口だった。


 ごつごつとした岩肌に囲まれた、小さな横穴。


 その向こう側には、どこまでも広がる深い森と、抜けるように青い空が広がっていた。


 生暖かい風が、俺の頬をそっとかすめていく。土の匂い、草いきれの匂い、そして雨上がりの湿った空気の匂い。それらが混然一体となって、俺の肺を満たしていく。

 最下層の、あの金属じみた澄み切った空気とは全く違う、生命の息吹に満ちた匂いだ。


 ザワザワと木々が葉を揺らす音。遠くで聞こえる、知らない鳥のさえずり。


 何もかもが、懐かしい。

 何もかもが、もう二度と手に入れることができないと思っていた、当たり前の日常の風景だった。


『マスター。周辺環境のデータ照合が完了しました。ここは、あなた方の文明で言うところの、日本の富士山麓に広がる原生林、その深部であると推定されます』


 傍らに浮かぶエノクが、いつも通りの平坦な声で分析結果を告げる。


「富士の樹海、か。ダンジョンの出口としては、随分とまた、業の深い場所に出たもんだな」


 俺は、自嘲気味にそう呟くと、洞窟から最後の一歩を踏み出した。

 足元で、ふかふかの腐葉土が、俺のブーツを優しく受け止める。岩と金属ではない、柔らかな大地の感触。そのあまりに自然な感触が、俺が本当に地上へ戻ってきたのだという実感を、じわじわと心に広げていった。

 俺は、身にまとっていた漆黒のコートのフードを外し、仮面をゆっくりと剥がした。久しぶりに素顔を晒した肌を、木漏れ日が優しく撫でる。


 空を見上げる。雲一つない、完璧な蒼穹。

 奈落に落ちてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。


 キメラとの戦闘で、俺はMPのほぼ全てを使い果たしたはずだ。あの後、どれくらい回復したのか。そして、あの壮絶な戦闘経験は、俺をどれだけ成長させたのか。俺は、自分の力の現在地を、正確に把握しておく必要があった。

 頭の中で、強く念じる。


『ステータス』


 俺の意志に応え、目の前に半透明のウィンドウがすっと音もなく現れた。

 そこに表示された文字列を見て、俺は、わずかに目を見開いた。


====================

名前:ヨシダ リュウ

レベル:???

HP:∞

MP:∞

スキル:創造権能

====================


「……は?」


 思わず、間の抜けた声が出た。

 レベルが、クエスチョンマークの羅列になっている。測定不能、ということか。

 そして、HPとMPに至っては、無限を示す記号『∞』が表示されているだけ。

 まるで、システムの限界を超えてしまったバグデータを見ているかのようだ。


「おい、エノク。これは、どういうことだ? 表示がおかしくなってるぞ」


『いいえ、マスター。システムは正常に作動しています。それが、現在のあなたの、正確な状態です』


 エノクは、淡々と告げた。


『キメラとの戦闘、及び、理論兵器『G.O.D』の創造と行使。それによって得られた経験値は、この世界のダンジョンシステムが想定する上限値を、遥かに超えました。その結果、レベルという指標では、あなたの力を測定することが不可能になったのです』


「測定不能……」


『はい。HPとMPに関しても同様です。あなたの精神力と生命力は、もはや有限の数値で表現できる次元にはありません。あなたは、この星の環境と、あなたの周囲に存在するあらゆるエネルギーと、半ば同化している状態にあります。理論上、あなたが意識を保っている限り、あなたの力が尽きることはありません』


「……マジかよ」


 もはや、乾いた笑いしか出てこない。

 レベルアップで強くなった、というような、生易しい話ではなかった。俺という存在の規格そのものが、この世界のルールから、完全に逸脱してしまったらしい。

 絶対的な力。

 その言葉の意味を、俺は今、本当の意味で理解したのかもしれない。

 俺は、そっとウィンドウを閉じると、一つ、大きく深呼吸をした。森の空気が、やけにうまく感じられる。


「……まあ、いい。力が強くなる分には、文句はないさ」


 俺は、早々に思考を切り替えた。

 規格外の力だろうが、測定不能のステータスだろうが、俺は俺だ。やるべきことは、何も変わらない。

 俺は、エノクに次の質問を投げかけた。


「それより、大事なことを聞く。今日は、何月何日だ?」


 俺が奈落に落ちたあの日から、どれくらいの時が流れたのか。体感では、数週間といったところだが、時間の感覚が歪んでいた自覚はある。


『はい。現在の正確な日時を、公的な電波時計の情報を元に算出します。……算出、完了。本日は、西暦2025年9月11日。木曜日。時刻は、午後2時47分です』


「……は?」


 今度こそ、俺は、本気で固まった。

 くがつ、じゅういちにち?

 俺が、あのブラック企業をクビになったのは、確か、6月の初めだったはずだ。そして、『ブラッディ・ファング』に拾われてから、一月近くは、奴隷のような生活を送っていた。

 つまり、俺が奈落に落ちたのは、7月の頭頃。


 それが9月?

 計算が合わない。


「おい、エノク。俺は、最下層で、どれくらい眠ってたんだ? 拠点を作って、ベッドで寝たのは、一晩だけのはずだが……」


『マスターが最下層で過ごされた時間は、地上時間にして、およそ60時間。三日も経っていません』


「じゃあ、なんで……!」


『時間の流れの差異です、マスター』


 エノクは、俺の混乱を予期していたかのように、即座に答えた。


『ダンジョンは、異次元に繋がる空間です。階層が深くなればなるほど、我々の次元との時間の流れに、ズレが生じます。特に、最下層は、アトランティスの超技術によって、時間の流動性が極端に操作されているエリアです。最下層での一日が、地上では一ヶ月に相当する。そうお考えください』


「……そんな、馬鹿な」


 つまり、俺が奈落にいた、あのわずか数日の間に、地上では、二ヶ月以上もの時間が、過ぎ去ってしまっていたというのか。

 愕然とした。

 浦島太郎の物語を、地で行くことになるとは。

 俺は、呆然と、その場に立ち尽くした。


 二ヶ月。


 それは、何かを取り戻すには長すぎるが、何かを始めるには、十分すぎる時間だ。


「……そうか。もう、そんなに経ってたのか」


 しばらくして、俺の口から漏れたのは、意外なほど、落ち着いた声だった。

 驚きはしたが、絶望はしていなかった。

 むしろ、心のどこかで、これで良かったのかもしれない、とすら思っていた。


 二ヶ月。


 それだけの時間があれば、吉田リュウという、しがないサラリーマン崩れの、ハズレスキル持ちのFランク探索者が、ダンジョンで行方不明になったという事実の痕跡は、もはや消えてしまっていることだろう。

 ギルドのデータベースからも、俺の登録情報は、とっくに抹消されているはずだ。探索者がダンジョンで行方不明になった場合、一ヶ月が経過した時点で、死亡扱いとなり、登録が抹消されるのが、この世界のルールだったはずだからな。


 吉田リュウは、もういない。


 この世のどこにも、存在しない。

 社会的に、完全に死んだ人間。


 その事実が、俺の心を、不思議なほど軽くした。

 それは、過去のしがらみから、完全に解放されたという、何よりの証明だったからだ。

 ブラック企業の吉田リュウも、奴隷荷物持ちの吉田リュウも、もういない。

 今の俺は、何者でもない。

 ただの、圧倒的な力を持った、名もなき個人。


 ただの『リュウ』として生きていけるのだ。


「……フッ」


 自然と、口元に笑みが浮かんだ。


「最高じゃないか」


 俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。


 過去との繋がりは、完全に断ち切られた。

 俺の存在を知る者は、この世界に、もう誰もいない。

 いや、一人だけいるか。

 この、やかましい光の球体だけは。


『マスター? 何か、面白いことでも?』


「いや、別に。ただ、新しい人生の始まりにしちゃ、上出来すぎる滑り出しだと思っただけだ」


 俺は、そう言って、再び、漆黒の仮面とフードを身に着けた。

 吉田リュウは死んだ。

 これからは、この正体不明の姿こそが、俺の本当の姿だ。


 さて、と。


 俺は、森の向こう、遠くにかすんで見える、文明の気配へと、視線を向けた。

 これから、何をしようか。

 やるべきことは、山ほどある。

 まずは、この圧倒的な力を、誰にも気づかれずに、有効活用するための基礎作りからだ。

 そのためには、金がいる。

 誰にも頭を下げず、誰にも媚びを売らず、自分の好きなように生きていくための多額の資金が。


「エノク。街へ行くぞ。一番近くて、一番大きな街はどこだ?」


『はい。この地点から南東へ約30キロ。日本国の首都・東京です。私のナビゲートとあなたの能力があれば、徒歩でも数時間で到着可能です』


「東京、か。いいな」


 かつて俺が、満員電車に揺られ、死んだ魚のような目をして通っていた、あの忌まわしい街。


 俺は、東京の方角へ向かって、ゆっくりと歩き出した。

 一歩、また一歩と、腐葉土の絨毯を踏みしめる。


 過去のしがらみという、重い足枷が外れた今、俺を止めるものは、もう何もなかった。

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