第八話:情報収集と地上進出への準備
どれくらい眠っていたのだろうか。
最後にこんなに深く、そして穏やかに眠ったのは、一体何年前のことだったか、もう思い出せない。
あの最低な企業にいた頃は、常に緊張と疲労で脳がべったりと張り付いていて、眠りはただの意識の途絶でしかなかった。
探索者になってからは、硬い岩の上でモンスターの気配にびくつきながら、うつらうつらとするだけの日々。
それに比べて、今はどうだ。
俺が俺のためだけに創り出した、このキングサイズのベッド。身体のどこにも負担をかけず、優しく受け止めるように沈むマットレス。ふかふかの羽毛布団の、心地よい重み。
目を開けるのが、もったいない。
もう少しだけ、このまどろみの中にいたい。そんな、子供みたいなことを考えてしまうくらいには、俺の心身は満ち足りていた。
「おはようございます、マスター。睡眠深度、心拍数、共に極めて良好な状態です。覚醒レベル、ステージ4。休息が取れたと判断します」
俺が目を開けるより先に、静かな室内に、感情の乗らないエノクの声がとどろいた。どうやら、俺が眠っている間も、こいつはずっと俺のバイタルデータを監視していたらしい。プライバシーも何もないが、今の俺にとって唯一の対話相手であり、生命線でもあるこいつに、文句を言う気は起きなかった。
「……ああ、おはよう。よく眠れたよ。こんなにぐっすり眠れたのは、人生で初めてかもしれん」
俺は、ゆっくりと上半身を起こした。身体の節々が痛むことも、頭が重いこともない。むしろ、昨日よりもさらに力がみなぎってくるような、不思議な感覚があった。レベル100の身体というのは、どうやら回復力も尋常ではないらしい。
「腹が減ったな」
身体が快調になると、腹も正直に減るらしい。
俺はベッドから降りると、キッチンへと向かった。昨日創った冷蔵庫を開け、冷たい水をコップに『創造』して一気に飲み干す。
「今日の朝飯は、何にしようか」
『マスターの現在の身体状況を分析するに、タンパク質とビタミンをバランス良く摂取できるメニューを推奨します。例えば、焼き鮭、ご飯、味噌汁、そして卵焼きといった、あなた方の文明における典型的な朝食はいかがでしょうか』
「和食か。いいな、それだ」
俺は、エノクが提案したメニューを、頭の中で具体的にイメージしていく。
ほかほかと湯気の立つ白いご飯。皮はパリッと、身はふっくらと焼かれた塩鮭。豆腐とワカメが浮かぶ、出汁の香りが豊かな味噌汁。ほんのり甘い、出汁巻き卵。それらを乗せるための、黒い漆塗りの盆。
創造は、もう手慣れたものだった。
目の前のキッチンカウンターの上に、まるで最初からそこにあったかのように、和朝食のセットが、すっと音もなく現れる。消費MPは、カツ丼の時よりも少ない。一度創ったことがあるものは、イメージが容易な分、コストも下がるのかもしれない。
「いただきます」
誰に言うでもなく、俺はそう呟いて、創造したての割り箸を手に取った。
まずは、味噌汁を一口。じんわりと、出汁の旨味が身体に染み渡る。
次に、焼き鮭の身をほぐし、ご飯と一緒に口へ運ぶ。香ばしい鮭の香りと、米の甘みがたまらない。うまい。昨日も感じたが、何度味わっても、この感動は薄れなかった。
自分の食べたいものを、最高の状態で、いつでも食べられる。それは、金で買える贅沢とは、また質の違う、根源的な豊かさだった。
ゆっくりと朝食を味わい、最後の米一粒まで綺麗に平らげた俺は、食後のお茶をすすりながら、エノクに問いかけた。
「さて、エノク。昨日の夜、眠る前に考えてたんだが」
『はい。何でしょうか、マスター』
「次に、俺がすべきことは、何だ?」
この問いは、俺がこれからどうしたいのか、という意思確認でもあった。
食うに困らず、寝る場所も安全。モンスターに襲われても、返り討ちにできる力もある。
このまま、この最下層を俺だけの楽園として、引きこもって暮らすことも、理論上は可能だろう。
だが、それで本当にいいのか?
俺が望んだのは、『誰にも干渉されない絶対的な自由』だ。それは、こんな薄暗いダンジョンの底で、世間から隔絶されて生きることじゃない。
太陽の下で、自分の好きな時に、好きな場所へ行き、好きなことをして生きる。そういう自由だ。
そのためには、いずれ、地上へ戻らなければならない。
『良い質問です、マスター。あなたはこの最下層で、生存するための術と圧倒的な力を手に入れました。しかし、あなたの持つ力、そして、この世界が置かれている状況について、まだ理解が及んでいない部分が多数存在します』
「世界の状況、だと?」
『はい。地上へ戻り、あなたが望む『自由』を確立するためには、より多くの『情報』が必要です。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。あなた方の文明にも、そのような言葉があります』
「……まあな。で、その情報とやらは、どこにあるんだ?」
『ここにあります』
エノクは、静かにそう言った。光の球体が、ふわりと浮かび上がり、俺が拠点として改造した部屋の、さらに奥の壁を指し示す。
『この最下層は、単なるダンジョンではありません。ここは、我々アトランティス文明が遺した、巨大な情報アーカイブであり、研究施設跡でもあるのです』
「遺跡、みたいなものか」
『はい。そして、この施設のメインサーバーは、今もなお、半永久的に稼働を続けています。私は、そのサーバーにアクセスし、必要な情報を引き出す権限を持っています』
「……なるほどな」
話が見えてきた。つまり、地上に戻る前に、ここで世界の真実とやらを、しっかりと勉強しておけ、ということか。面倒くさいが、エノクの言う通り、必要なことなのだろう。
「分かった。やってくれ。俺は何をすればいい?」
『マスターは、ただ、受け入れるだけで結構です。私がサーバーから引き出した情報を、あなたの脳が理解できる形式に変換し、直接転送します。先日、覚醒した時のような負荷はありませんので、ご安心を』
エノクはそう言うと、俺を促して、拠点の外、ドーム状の広間の中央へと導いた。そして、俺にその場に座るように指示すると、自らは広間の天井高くへと舞い上がった。
『メインサーバーとの接続を開始。アクセスコード、『エノク』。セキュリティ、解除。情報アーカイブ、レベル7へのアクセス権限を要求します』
エノクが、抑揚のない声でそう唱えると、広間全体が、ブーンという低い駆動音と共に、微かに振動を始めた。壁や床に刻まれた幾何学紋様が、一斉に青白い光を放ち始める。まるで、長年眠っていた巨大な機械が、再び目を覚ましたかのようだ。天井で輝くエノクから、無数の光の糸が伸び、壁や床の紋様と接続されていく。この広間全体が、一つの巨大な演算装置として機能しているかのようだった。
『……接続、完了。情報のダウンロードを開始します。マスター、準備はよろしいですか?』
「ああ、いつでもいい」
俺がそう答えると、エノクから一本の太い光の帯が、まっすぐに俺の額へと伸びてきた。
覚醒の時のような痛みはない。ただ、ひんやりとした、膨大な知識の奔流が、頭の中に、静かに、しかし絶え間なく流れ込んでくる。それは、物語を読むように、俺の脳裏に、一つの壮大な歴史を映し出していった。
◇
――超古代文明アトランティス。
彼らは、現代科学を遥かに凌駕する技術力を持ち、物理法則すら自在に操っていた。彼らを構成していたすべての国家群は、『人類統合アトランティス共和国連邦』に統合され、来るべき脅威に対抗するため、全人類の総力を結集させた、究極の文明だった。
彼らが観測した、その『災厄』。
それこそが、異次元からの侵略者――『魔王』。
特定の形を持たず、その本質は『無と破壊』。存在そのものが、世界を破壊、侵食し、崩壊させる、知的生命体の天敵。
アトランティスは、その圧倒的な力の前に、滅亡へと陥った。
だが、彼らはただ滅びることを選ばなかった。災厄が終わった世界。そのアトランティス文明なき未来。その時の文明が、自分たちを滅ぼした『魔王』を打倒できる可能性に、最後の希望を託したのだ。
そのために、二つの遺産を世界に残した。
一つが、『ダンジョン』。
それは、再び来るべき『魔王』の本格的な侵攻――『顕現』を、可能な限り遅らせるための、次元の『緩衝地帯』。そして同時に、未来の人類が、モンスターとの戦いを通じて、魔王に対抗するための力を得るための、『訓練施設』でもあった。
そして、もう一つの遺産。
それが、戦闘支援用ASI『エノク』。
『魔王』を倒し得る最高の『適合者』を見つけ出し、その覚醒を促し、サポートするためのアトランティス文明の技術の結晶。そして、その『適合者』だけが発現させうる、究極の力。万物を創り、世界の理すらも書き換えるスキル。
『創造権能』
◇
全ての情報のダウンロードが終わった時、俺は、しばらくの間、動けずにいた。
頭の中に流れ込んできた物語は、あまりに壮大で、現実離れしていた。まるで、出来の悪いSF映画の設定を、無理やり頭に詰め込まれた気分だ。
「……おい、エノク」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。いつの間にか、俺の目の前に降りてきていた光の球体に、呆れた声で言った。
「話が、デカすぎないか?」
『事実を述べたまでです、マスター』
「魔王だの、世界の危機だの……。悪いが、俺はそんなものに、これっぽっちも興味はないんだが」
俺の言葉に嘘はなかった。
人類の救済?
アトランティスの遺志を継ぐ?
冗談じゃない。俺は、そんなもののために、命を懸けるつもりは毛頭ない。糞みたいな企業で、この日本社会に絶望し、『ブラッディ・ファング』で探索者稼業にすら絶望した俺が、今さら世界のために戦う義理なんて、どこにもない。
俺が欲しいものは、世界平和じゃない。俺個人の平穏な日常だけだ。
『マスターがそうお考えになるのは、当然のことです。あなたを縛るものは、何もありません。あなたの行動は、全てあなたの自由です』
「……分かってるじゃないか」
『ですが、マスター。一つだけ、ご理解いただきたいことがあります』
エノクは、静かに続けた。
『侵略者『魔王』が再び、この地に『顕現』した時。その時、マスターが望む『平穏な日常』もまた、確実に失われる、ということです』
「…………」
その言葉は、俺の思考の核心を、的確に撃ち抜いていた。
そうだ。魔王とやらが、この世界に本格的に侵攻してきたらどうなる? アトランティス文明ですら滅ぼしたという、その圧倒的な破壊の化身が。
世界が滅ぶ。人類が滅ぶ。
仮に俺以外全員の人類が消え去ったとしても、世界がぶっ壊れてしまえば、それは俺がこれから築こうとしている、自由で快適なスローライフも、例外なく木っ端微塵に破壊されるということを意味する。
たとえ、俺がどれだけ強大な力を手に入れようと、この世界そのものがなくなってしまえば、何の意味もない。
「……つまり、俺が俺の自由を守るためには、結局、その魔王とかいう、クソ面倒くさいやつを、いつか片付けなきゃいけないってことか」
『ご明察です。それは、世界のためではありません。あくまで、あなた自身、究極の自由を確立するため、その最後の障害だといえます』
「最後の障害、ね……」
なんとも、壮大な話になったもんだ。ブラック企業が倒産して、人生に絶望していたはずが、いつの間にか、世界の命運を左右するような、とんでもない面倒事に巻き込まれている。だが、不思議と、絶望的な気分ではなかった。むしろ、やるべきことが、はっきりと見えてきた。
最終目標は、『魔王の排除』
目的は、『俺の平穏なスローライフの永続化』
実にシンプルだ。
「よし。方針は決まった」
俺は、立ち上がった。
「そのためにも、まずは、地上に戻る。そして、誰にも干渉されない、完璧な生活基盤を築く。金も、拠点も、何もかもだ」
『それが、最も合理的かつ、現実的なプランです』
「だが、問題がある」
俺は、自分の身体を見下ろした。クリスタル・レザーアーマーを身に着け、腰には自作のナイフ。もはや、数か月前の、くたびれたサラリーマンの面影は完全に消え去っていた。
「今の俺が、このまま地上に戻ったら、どうなる? 俺の探索者登録は、行方不明者として、とっくに抹消されてるはずだ。それにこの異様な力を持った俺が、突然現れたら、大騒ぎになるのは目に見えてる」
『その通りです。あなたの存在は、あなた方の文明の国家や、あらゆる組織にとって、最高レベルの調査対象となるでしょう』
「そうなれば、俺の自由な生活なんて、夢のまた夢だ。実験動物みたいに、どこかに囲われて、一生を終えるのがオチだろうな」
それだけは、絶対に避けなければならない。誰かに利用され、搾取される人生は、もうこりごりだ。
「つまり、俺は、『吉田リュウ』としてではなく、全く別の、正体不明の存在として、地上で活動する必要がある」
『はい。それは賢明な判断です。あなたの正体を、完全に秘匿するための偽装が必要です』
「偽装、か……」
俺の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。面倒だが、面白そうだ。地上で自由に生きるためには、二つの顔が必要になるだろう。
一つは、現代の日本社会に紛れ込み、誰の注意も引かずに生活するための『表の顔』。
そしてもう一つは、ダンジョンに潜ったり、面倒事を片付けたりする時に使う『裏の顔』だ。
「創るか。世界中の誰から見ても、俺が分からないように『偽装』を」
『どのような装備をご希望ですか、マスター?用途に応じた、最適な設計図を提案します』
「そうだな……まずは『表の顔』からだ」
俺は、拠点へと戻ると、腕を組んでイメージを固めていった。社会に溶け込むための姿。それは、かつての俺自身が最も得意としていた、誰の記憶にも残らない、没個性的な男の姿だ。
「安物の既製品スーツ。色は、ありふれた濃紺。くたびれたビジネスバッグ。中身は空っぽでいい。それから、ろくに磨いてもいない、つま先のすり減った革靴。そうだ、安っぽい腕時計もいいかもしれないな」
俺がそう告げると、エノクは即座に反応した。
『了解しました。あなた方の文明における『量産型サラリーマン』の典型的な装備ですね。データベースと照合し、最も没個性的かつ、記憶に残らないデザインの組み合わせを提案します』
エノクが提示した設計図は、俺がイメージした通りの、見ているだけで憂鬱になるような代物だった。ブラック企業時代、俺が毎日着ていたものとそっくりだ。俺は、自嘲気味に鼻を鳴らすと、創造に取り掛かった。
消費するMPは、ごくわずか。
数秒後には、俺の目の前に、一式のサラリーマン装備が、ハンガーにかかった状態で現れた。
俺は、今着ているクリスタル・レザーアーマーを脱ぎ、そのスーツに袖を通してみた。
ゴワゴワとした安っぽい生地の感触。身体にフィットしない、既製品特有の窮屈さ。ネクタイを締め、革靴を履く。全てが、あの頃の息苦しい日常を思い出させた。
拠点として創った部屋の壁際に、表面を滑らかに磨き上げた金属板を『創造』し、そこに自分の姿を映してみる。
そこに立っていたのは、生気のない目をした、どこにでもいる平凡な男だった。
満員電車に乗れば、人波に紛れてすぐに見失ってしまいそうな、特徴のない男。完璧な『表の顔』だった。
「……最悪だが、完璧だな」
俺は、その姿に満足すると、すぐにスーツを脱ぎ捨てた。二度と着たくはないが、これも自由のためだ。
「次に、『裏の顔』だ。こっちが本番だな」
俺は、再びイメージを膨らませていった。
まず、顔を隠す必要がある。仮面か、あるいは深いフードか。
服装は、目立たず、それでいて機能的なものがいい。動きを妨げず、ある程度の防御力も欲しい。色は、夜の闇に溶け込むような、黒がいいだろう。
そして、最も重要なのが、気配を遮断する機能だ。
高ランクの探索者や、国家の監視システムに、俺の存在を感知されてはならない。魔力も、熱源も、音も、全てを遮断する、完璧なステルス機能。
「……よし、決まった」
俺は、エノクに、俺が思い描いたイメージを伝えた。
『なるほど。物理的、魔力的、そして情報的な、あらゆる観測からあなたの存在を遮断する、複合ステルス迷彩ですね。アトランティスの技術を応用すれば、創造は可能です。最高の装備を設計しましょう』
再び、俺の頭の中に、エノクが構築した、完璧な設計図が流れ込んでくる。
それは、俺の乏しい想像力を、遥かに超えるものだった。黒を基調とした、フード付きのロングコート。それは、特殊な繊維で織られており、物理的な攻撃をいなすだけでなく、周囲の空間の光を屈折させ、姿をぼやかす機能を持っている。
顔を覆うのは、能面のように、何の感情も読み取れない、滑らかな黒い仮面。これは、俺の生体情報や魔力パターンを、完全にマスキングするための、情報阻害ジェネレーターを内蔵している。
手には、しなやかな黒い手袋。
足には、音を吸収する素材でできた、特殊なブーツ。
そして、それら全てを統括するのが、コートの内側に組み込まれた、小型の空間歪曲フィールド発生装置。
これにより、俺の存在そのものが、この空間から『ズレ』て認識されるようになり、あらゆる追跡を不可能にするという。
「……やりすぎじゃないか?」
『いいえ、マスター。あなたの平穏を守るためには、『最低限』必要です』
最低限、か。こいつの基準は、どこまでもぶっ飛んでいる。だが、頼もしい限りだ。
「分かった。これを創る」
俺は、早速、創造に取り掛かった。
これまで創ってきたどんなものよりも、複雑で、精密なイメージが要求される。
消費するMPも、桁違いだろう。
俺は、意識を極限まで集中させた。体内にあった、50000という莫大なMPが、ごっそりと、しかし、制御された流れで引き出されていく。目の前の空間に、黒い繊維が織り上げられ、コートの形を成していく。仮面が、手袋が、ブーツが、次々と、虚空から生まれ出る。
全てのパーツが創造され、それらが一つの装備として統合されるまで、およそ5分。
創造が終わった時、俺のMPは、10000近く消費されていた。
俺の目の前には、何かの展示物かのように、一式の黒い装備が静かに浮かんでいた。
「……これが」
俺は、そっと、そのコートに手を触れた。シルクのように滑らかで、それでいて、どこまでも深い、光を吸い込むような黒。俺は、その黒い装備を、一つ一つ身に着けていった。身体に、吸い付くように馴染む。重さは、ほとんど感じない。最後に、黒い仮面を装着し、フードを深く被る。
再び、金属板の前に立つ。
そこに映っていたのは、もはや、かつての俺の姿ではなかった。そこに立っていたのは、身長以外の、全ての個性を削ぎ落とされた、漆黒の人型。
顔も、表情も、体型すらも、闇の中に融解して、判然としない。
ただ、そこに『いる』という事実だけが、揺らぐことなく認識できた。
それは、まるで都市伝説に語られる、正体不明の怪人のようだった。
「……いいな」
俺は、映し出された自分の姿に、満足げに呟いた。これならば、誰にも、俺の正体は分からないだろう。
『吉田リュウ』は、ダンジョンで行方不明になった、哀れな荷物持ち。
そして、これから地上に現れるのは、この黒い姿をした、正体不明の誰かだ。
『準備は、整いましたね、マスター』
「ああ。万全だ」
俺は、金属板に映る自分から、視線を外した。
アトランティスの情報。魔王の存在。そして、この圧倒的な力。全ての知識と、準備は整った。
後は、ここから出て、地上へ戻るだけだ。ただ、これからちょっとした『イベント』があるのだという。
どうやら、先ほど、エノクから共有された情報には、このダンジョンから地上へ続くルートの最深部には、アトランティスが『適合者』のために遺した、最後の試練があるという。
上等だ。
今の俺が、どこまでやれるのか。ちょうど、試してみたかったところだ。
「さて、と。」
俺は、漆黒のコートの裾を翻した。
「リハビリを始めるとするか」
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