第五話:チュートリアル

 俺は、目の前の空間に浮かぶ精密な設計図を、瞬きもせずに見つめていた。

 シンプルなサバイバルナイフと、身体のラインに沿った軽装の革鎧。エノクが提示したそれらは、単なる絵や図面ではなかった。三次元の立体映像として、あらゆる角度からその構造を確認できるだけでなく、材質を構成する分子の配列、刃先に求められる炭素の含有率、革をなめすための最適な薬品の化学式に至るまで、およそ考えうる全ての情報が、膨大なテキストデータとして付随している。

 ブラック企業時代に扱っていた、ペラペラかつ曖昧な見るだけで気が滅入るような仕様書とは、情報の次元が違っていた。これは、一つの『概念』そのものを、分解して再定義したかのような、完全なる設計図だった。


『準備はよろしいですか、マスター』


 エノクの静かな声が、俺を思考の海から引き戻した。


「ああ。問題ない」


 俺は短く答えると、一つ深呼吸をした。

 空気が、うまい。澄み切っていて、わずかにオゾンのような匂いがする。覚醒した五感が、この空間の特異な環境を敏感に感じ取っていた。


「まずは、ナイフからだ」


『それが合理的です。より複雑な構造物である鎧から創造した場合、万が一MPが想定以上に枯渇すれば、武器を創造する前にモンスターと遭遇するリスクが発生します。リスクは、可能な限り排除するべきです』


「違いないな」


 俺は、エノクが提示したナイフの設計図に意識を集中させる。

 全長約三十センチ。刃渡りは十八センチ。ブレードの材質は、炭素鋼をベースに、このダンジョンの壁に含まれる未知の金属元素を微量に配合したもの。グリップ部分は、滑り止め加工を施した硬質ゴム。重心は、ブレードとグリップの接合部、ヒルトのやや刃側。

 石ころを創った時とは、比較にならないほど情報量が多い。

 だが、不思議と頭は混乱しなかった。覚醒した脳が、設計図のデータをまるでスポンジが水を吸うように、高速で吸収し、理解していく。


 いける。


 俺は、両手をゆっくりと胸の前に突き出した。手のひらを向かい合わせ、その間に何もない空間を作る。

 そして、脳裏に焼き付けた設計図を、その空間に投影するように、強くイメージした。


 カチリ、と頭の中で何かのスイッチが入るような感覚があった。

 体内のMPが、細い糸のように引き出され、両手の間の空間へと流れ込んでいく。ステータスウィンドウを直接見ていなくても、自分のエネルギーが消費されていくのが、肌感覚で分かった。それは、不快な感覚ではなかった。むしろ、自分の持てるリソースを、明確な意図を持って行使しているという、不思議な充足感があった。


 俺が作った手のひらの間の空間。その中心に、陽炎のようなものが揺らめき始めた。

 最初は、ぼんやりとした輪郭すらない、ただの光の粒子だった。だが、それが徐々に密度を増し、形を成していく。

 まず、グリップ部分が構築される。黒い硬質ゴム、ざらついた質感が現れる。次に、ヒルト部分の硬質な金属光沢が生まれ、そして最後に、最も重要で、最も精密なイメージを要求されるブレード部分が、空間から押し出されるようにして、その姿を現した。


 シュン、という微かな空気の振動。


 全ての構築が完了した時、そこには、一本のサバイバルナイフが、まるで最初からそこにあったかのように、静かに宙に浮かんでいた。設計図と寸分違わぬ、完璧な形状で。


「……おお」


 我ながら、感탄の声が漏れた。

 俺は、ゆっくりと手を伸ばし、そのナイフのグリップを掴む。

 ひんやりとした、それでいて手にしっくりと馴染む感触。計算され尽くした重量バランスが、腕に心地よい。

 刃先を、親指の爪で軽く弾いてみる。キィン、と高く澄んだ金属音が響いた。ブレードに映る自分の顔は、わずかに高揚しているように見えた。


『素晴らしい出来栄えです、マスター。設計図との誤差は、0.001%以下。現時点でのあなたのスキルレベルを考慮すれば、奇跡的な精度と言えます』


「そりゃどうも」


 俺は、ナイフを軽く振ってみる。ヒュッ、と空気を切り払う鋭い音。

 これが、俺の力。

 これが、『創造権能』。

 たった今、この手で創り出したというのに、まるで長年使い込んだ相棒のように、しっくりと手の中に収まっている。

 ステータスを確認すると、MPが20ほど消費されていた。ナイフ一本で、これか。やはり、石ころとはわけが違う。


『次に、防具の創造へ移行しますか? 休憩を挟みますか?』


「いや、このまま続ける。感覚が鈍らないうちに、やっておきたい」


『了解しました。鎧の創造は、ナイフよりも大規模な物質再構築を必要とします。消費MPも多くなりますので、イメージの維持に、より一層の集中を』


「分かってる」


 俺はナイフをその場に置くと、再び両手を構えた。

 今度のイメージは、革鎧だ。

 胸部、背部、肩、腕、そして脚。それぞれのパーツの形状を、脳内で立体的に組み上げていく。モンスターの牙を通さない強度と、動きを妨げない柔軟性。その二律背反の特性を両立させるための特殊ななめし加工の工程まで、詳細にイメージする。


 ぐん、と先ほどよりも遥かに多くのMPが、身体から引き抜かれていくのが分かった。まるで、蛇口をひねったように、エネルギーが流れ出していく。

 目の前の空間に、再び光の粒子が集まり始める。

 今度は、ナイフの時よりも、構築に時間がかかった。

 革のパーツが一つ、また一つと空間に生成され、それらが糸も見えない力で縫い合わされていく。バックルやベルトの金属部分が、きらりと光を放ちながら形を成していく。

 全ての工程が終わるのに、およそ一分。

 俺の目の前には、一式の黒い革鎧が、ハンガーにでもかかっているかのように、整然と浮かんでいた。


「……はぁ、はぁ……」


 さすがに、少し息が上がる。

 MPを35消費。合計で55。残りのMPには、まだまだ余裕がある。

 俺は、創造した革鎧を手に取った。しなやかで、それでいて頑丈そうな質感。鼻を近づけると、新品の革製品特有の良い匂いがした。

 俺は、着ていた薄汚れた服を脱ぎ捨てると、その鎧を身に着けてみた。驚くほど、身体にぴったりとフィットする。まるで、俺の身体を採寸して作られたオーダーメイド品のようだ。手足を動かしてみても、窮屈な感じは一切ない。


「どうだ?」


『完璧です、マスター。これで、最低限の生存基盤は整いました』


 武器と、防具。

 この何もない空間で、俺は自らの力だけで、生きるための術を手に入れた。

 それは、誰かに与えられたものではない。俺が、俺自身の意思で、創り出したものだ。

 その事実が、凍りついていた俺の心を、少しずつ温めていくようだった。


 確かな手応え。

 俺は、床に置いたナイフを拾い上げ、腰のベルトに差し込んだ。


「さて、と。チュートリアルは、これで終わりか?」


 俺がそう尋ねた、まさにその時だった。


 グォルルルルル……!


 不意に、部屋の奥の通路から、獣の唸り声のようなものが響いてきた。

 地を這うような、低い威嚇音。それは、間違いなく敵意に満ちていた。


「……噂をすれば、か」


 俺は、腰のナイフの柄に、そっと手をかけた。

 エノクが、警告を発する。


『マスター、前方より魔力反応。一体です。識別コード、照合開始……完了。対象は『クリスタル・ウルフ』。この階層の固有種です』


「クリスタル・ウルフ?」


 通路の暗がりから、ゆっくりと姿を現したのは、その名の通り、狼の形をしたモンスターだった。

 だが、その身体は、毛皮ではなく、無数の青白い水晶の結晶で覆われていた 。体長は二メートルほど。四肢は太く、鋭い爪もまた、水晶でできている。そして、らんらんと輝くその両目は、燃えるような赤い光をたたえていた。

 ゴブリンやオークといった、これまで俺が相手にしてきたモンスターとは、明らかに成り立ちが違う。生き物というよりは、動く鉱物、といった印象だ。


『クリスタル・ウルフ。全身が極めて硬い水晶で構成されており、物理的な攻撃はほとんど通用しません 。敏捷性に優れ、水晶の爪による引き裂き攻撃を得意とします』


「物理攻撃が、通用しない……?」


 おいおい、いきなりハードモードかよ。

 せっかくナイフを創ったっていうのに、役に立たないのか?


『ご安心ください。弱点は存在します』


 エノクは、俺の焦りなどお構いなしに、冷静な分析を続ける。


『対象の弱点は、二つ。一つは、喉元にある赤いコア 。そこが、この個体の魔力を制御する中枢です。コアを破壊すれば、活動を停止します。そして、もう一つの弱点は、その水晶の身体そのものです』


「どういうことだ?」


『水晶は、特定の周波数の振動に弱いという特性があります 。マスターが創造したナイフの材質には、あの未知の金属元素が含まれています。そのナイフでクリスタル・ウルフの身体を打撃すれば、共振現象を引き起こし、一時的に身体の結合を弛緩させることが可能です』


「……つまり、ナイフで殴って、怯んだ隙に、喉のコアを突け、と。そういうことか」


『ご明察です。成功確率は、87.4%。マスターの現在の身体能力ならば、十分に対応可能です』


 87.4%。

 高いのか、低いのか、よく分からない数字だ。

 だが、やるしかない。


「分かった。やってやるよ」


 俺は、ベルトからナイフを引き抜いた。

 クリスタル・ウルフは、こちらを威嚇するように、唸り声を上げている。赤い双眸が、獲物である俺を、じっと捉えていた。


 一瞬の静寂。


 先に動いたのは、狼の方だった。

 ガギンッ!と水晶の爪で床を蹴り、弾丸のような速さで、一直線に俺へと突進してくる。


「速っ……!」


 目で追うのがやっとの速度。

 だが、俺の身体は、思考よりも先に反応していた。

 最適化された身体能力が、俺の意思を超えて、最適な回避行動を取る。

 最小限の動きで、狼の突進をひらりとかわす。鼻先を、風圧がかすめていった。


『ナイス回避です、マスター。次は、カウンターを』


「言われなくても!」


 体勢を崩した狼が、方向転換しようともがいている。その隙を、俺は見逃さなかった。

 踏み込み、ナイフの腹の部分で、狼の脇腹を、力任せに殴りつけた。


 キィィィン!


 鈍い打撃音ではなく、金属同士がぶつかったような、甲高い不協和音が響き渡った。

 ナイフを伝わって、腕に強烈な痺れが走る。

 だが、効果はあった。

 殴られた部分の水晶が、わずかに光を失い、その結合が緩んでいるのが、覚醒した視力にはっきりと見えた。


 グルル……!?


 狼が、驚いたようにたたらを踏む。動きが、明らかに鈍くなった。


「今だ!」


 俺は、さらに踏み込み、がら空きになった喉元へと、ナイフの切っ先を突き立てた。

 狙うは、赤く明滅するコア。

 グズリ、と生々しい感触が手に伝わった。硬い水晶を貫き、その奥にある柔らかい中枢を、ナイフが捉える。


 ギャインッ!


 狼が、断末魔の悲鳴を上げた。

 次の瞬間、赤いコアがまばゆい光を放ち、パリン、とガラスが砕けるような音を立てて、粉々に砕け散った。

 すると、狼の身体を構成していた全ての水晶が、連鎖反応を起こすように、その輝きを失っていく。そして、まるで砂の城が崩れるように、ガラガラと音を立てて、その場に崩れ落ちた。


 後には、ただの青白い水晶の欠片の山と、手のひらサイズの赤い石が一つ、残されただけだった。


「……はぁ、はぁ……」


 戦闘は、ほんの十数秒。

 だが、その密度は、これまでの人生で経験したどんなことよりも、濃かった。

 アドレナリンが、全身を駆け巡っている。これが、本物の戦闘。これが、命のやり取り。


『戦闘、終了。マスターの完全勝利です。素晴らしい初陣でした』


 エノクの賞賛の声が、やけに遠くに聞こえた。

 その時、俺の視界に、半透明のウィンドウがポップアップした。


『クリスタル・ウルフを討伐しました。経験値1500を獲得』

『累計経験値が規定値に達しました。レベルが1から10に上がりました!』


「……レベルアップ?」


 俺は、慌てて自分のステータスを確認する。


 ====================

 名前:ヨシダ リュウ

 レベル:10

 HP:1500/1500

 MP:5000/5000

 スキル:創造権能

 ====================


 HPもMPも、一気に10倍に跳ね上がっている。身体の奥底から、新たな力が静かに湧き上がってくるのを感じた。


「おい、エノク。たった一体倒しただけで、レベルが9も上がるのか?」


『ご明察です。この最下層のモンスターは、一体一体が、あなた方の文明で観測されている低ランクダンジョンのボスに匹敵する経験値を有しているのです』


「……面白い」


 俺は、水晶の山の前に膝をつき、そこに残された赤い石を拾い上げた。ひんやりとしていて、微かに温かい。


「これが、コアか」


『はい。それは『魔石』と呼ばれる、高純度の魔力結晶です。あなた方の文明では、高値で取引される希少な資源です』


「魔石……」


 初めて、自分の手で手に入れた、戦利品。

 それは、日当二千円とは比べ物にならない、確かな価値と、達成感を持っていた。


 俺は、ふと、崩れ落ちた水晶の欠片に目をやった。


「なあ、エノク。この水晶の欠片は、何かに使えるか?」


『……解析します。……完了。この水晶は、極めて高い硬度と、魔力伝導性を持っています。マスターが現在装備している革鎧に組み込むことで、防御力を飛躍的に向上させることが可能です』


 その言葉に、俺の口元が、再び弧を描いた。


「そうか。……そうか!」


 俺は、立ち上がった。

 疲れなど、どこかへ吹き飛んでいた。


 武器を創り、敵を倒す。レベルが上がり、さらに強くなる。

 敵の素材を手に入れ、さらに強力な装備を創る。

 なんて、分かりやすい。

 なんて、面白い。


 あのクソみたいな企業で、罵倒を浴びせられ、意味も分からずやらされていた単純作業とは、全く違う。ここには、自分の成長と明確な結果がある。


 俺は、その場に散らばった水晶の欠片を、両手でかき集めた。


「よし、エノク。次のチュートリアルだ。この水晶で最高の鎧を創るぞ」


『了解いたしました、マスター』

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