第二話:地獄への片道切符
『新規登録でお待ちの吉田リュウ様。1番カウンターまでお越しください』
無機質なアナウンスが、俺の名前を呼び出した。
びくりと全身が強張る。周囲の探索者たちの視線が、一斉にこちらに突き刺さったような錯覚を覚える。もちろん誰も俺のことなど気にしていない。彼らにとって新人が一人増えようが減ろうが、知ったことではないのだ。
分かっている。分かっているが足が動かない。ソファに根が生えたように、身体が言うことを聞かなかった。
もう一度アナウンスが繰り返される。今度は少しだけ語気が強まったように聞こえた。
俺は腹をくくり、油の切れた機械のようにぎこちなく立ち上がった。一歩、また一歩と処刑台へ向かう罪人のような足取りで、1番カウンターへ進む。
カウンターの向こう側では、先ほどとは別の若い男性職員が待っていた。人の良さそうな笑顔を浮かべているが、その目は全く笑っていない。マニュアル通りの貼り付けたような営業スマイルだ。
「お待たせいたしました、吉田様ですね。スキル検査の結果が出ましたのでご説明します」
彼はそう言うと手元の端末を操作した。ピッという電子音と共に、カウンターの上に設置されたディスプレイに俺の情報が表示される。
名前、年齢、そして。
『スキル:アイテムボックス』
その文字列を俺は瞬きもせずに見つめた。
「おめでとうございます。無事スキルが発現いたしました。吉田様のスキルは『アイテムボックス』です。これは任意のアイテムを異空間に収納、また取り出すことができる非常に便利なスキルですよ」
男性職員がにこやかに説明してくれる。
アイテムボックス。
物を出し入れするだけの収納スキル。
俺はそのスキルの詳細について、SNSやまとめサイトで調べていたので知っていた。戦闘能力は皆無。攻撃もできなければ防御もできない。探索者にとっては数あるスキルの中でも最も価値が低いとされる、いわゆる『ハズレスキル』の一つだ。
その現実に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
ああ、そうか。やっぱりそうだよな。
俺なんかに都合のいい奇跡が起こるはずがない。人生一発逆転なんてしょせんは夢物語。現実はどこまでいっても非情で、残酷だ。
全身から急速に力が抜けていく。灰色だった視界がさらに色を失い、モノクロームに変わっていくようだった。
「あの……これって……」
「はい?」
「戦闘とかには全く使えない、ですよね……?」
かすれた声で尋ねると、職員は困ったように眉を八の字にした。その表情が雄弁に答えを物語っている。
「ええ、まあ……直接的な戦闘には向きませんね。ですがパーティーの後方支援、特に荷物持ちとしては大変重宝されます。探索者としての活躍の仕方は一つではありませんから」
フォローのつもりで言っているのだろうが、その言葉は俺の心を抉るだけだった。
荷物持ち。
つまり、倉庫番。ブラック企業で使い潰された俺に、神様とやらが与えた次の役割はそれらしい。どこまで行っても俺は誰かのための歯車でいろということか。
「……そうですか」
俺はそれ以上何も言えなかった。
職員はそんな俺の様子を気にも留めず、事務的に手続きを進めていく。
「それではこちらの探索者カードを発行します。これが吉田様の身分証となりますので、紛失しないようご注意ください。ランクは新規登録ですのでFからとなります。依頼の受注やダンジョンへの入場には、必ずこのカードが必要になりますので」
彼はそう言って一枚のプラスチックカードをカウンター越しに手渡してきた。受け取ったカードには俺の写真と名前、そして最低ランクを示す『F』の文字が刻まれている。
これが俺の新しい人生のスタート地点。
それは底辺からの再出発ですらなかった。ただ場所を変えただけの同じ底辺だった。
一通りの説明が終わり、俺は力なくカウンターを離れた。ロビーの喧騒が再び現実のものとして耳に流れ込んでくる。
俺はこれからどうすればいい?
荷物持ちとしてどこかのパーティーに拾ってもらう? また誰かにこき使われ、搾取される日々が始まるのか。
考えただけで吐き気がした。
しかし俺にはもう、それ以外の選択肢がない。なけなしの金はここに来るまでの交通費と登録料でほとんど消えてしまった。今日からどうやって生きていくのかさえ分からない状態なのだ。
俺はロビーの隅にある依頼掲示板へと、重い足を引きずった。巨大なディスプレイには様々な依頼が滝のように流れて表示されている。
『Fランク依頼:スライム討伐(3匹)。報酬:1500円』
『Eランク依頼:ゴブリンの巣の調査。報酬:5000円』
『Dランク依頼:オークの牙の納品(5本)。報酬:12000円』
どれも今の俺には単独で達成不可能なものばかりだ。戦闘能力ゼロの俺が一人でダンジョンに入れば、最初のスライムにすら殺されるだろう。
やはりパーティーに入るしかない。
俺は掲示板の隣にある『パーティーメンバー募集』の欄に目を移した。そこには何枚もの電子メモが張り出されている。
『急募! Dランクパーティー「赤き獅子」。前衛のタンク職を募集します。我々と共に高みを目指しませんか?』
『ヒーラーさん募集! 当方アタッカー2名のEランクパーティーです。一緒に楽しくダンジョン攻略しましょう!』
どの募集も戦闘に関わるスキルを持つ探索者を求めている。アイテムボックスなんていう荷物持ちスキルを募集しているパーティーなど、どこにもない。
数日間、俺はギルドに通い続けた。
朝から晩まで募集掲示板の前で立ち尽くし、自分を拾ってくれるパーティーが現れるのを待った。時には勇気を振り絞って、メンバーを探している様子のパーティーに声をかけてみたこともあった。
「あの、すみません。俺、アイテムボックス持ちなんですけど、荷物持ちとして雇ってもらえませんか?」
だが返ってくる反応は決まって冷ややかだった。
「アイテムボックス? いらねえよ。荷物なら自分たちで持てる」
「ハズレスキルか。悪いけどウチは少数精鋭でやってるんでね」
「うーん、ごめんね。一人分の分け前を払ってまで荷物持ちを雇う余裕はないかなあ」
誰もが俺を一瞥すると、興味を失ったように去っていく。彼らの目に映るのは何の役にも立たない無能な新人。その視線が俺の心を少しずつ削り取っていった。
所持金は完全に底をついた。
アパートの家賃ももう払えない。食事はここ数日、水道水だけ。空腹はとっくに通り越し、もはや何も感じなくなっていた。
もう、終わりだ。
ギルドの床に座り込み、壁に寄りかかりながら俺はぼんやりと天井を眺めていた。意識が遠のいていく。このままここで餓死するのも悪くないかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。
その時だった。
「おい、アンタ」
不意に頭上から不躾な声が降ってきた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには三人の男女が立っていた。俺を見下ろすその目は獲物を品定めするような、不快な光をたたえている。
中心に立つのは筋肉質な身体をこれ見よがしに晒した大柄な男。安物の金属鎧がその威圧感をさらに増している。両脇には蛇のように細い目をした痩せた男と、気だるげな表情でガムを噛んでいる女が控えていた。
見るからにまともな連中ではない。ギルドのロビーでよく見かける素行の悪い探索者たちだ。
「アンタ、アイテムボックス持ちなんだってな」
リーダー格の大男が顎をしゃくりながら言った。その口調には隠そうともしない侮蔑がにじんでいる。
「……そうですけど」
「ちょうどよかった。俺らのパーティーで荷物持ちを探してたところだ。どうだ、一緒に来ないか?」
その言葉に俺は耳を疑った。
パーティーへの誘い?
この絶望的な状況で?
一瞬、目の前に蜘蛛の糸が垂らされたような気がした。だがすぐにその考えを打ち消す。こいつらの澱んだ目を見れば分かる。善意からの誘いであるはずがない。
「……条件は」
「日当二千円だ。ダンジョンで得たドロップアイテムの分配はなし。それでいいなら雇ってやる」
日当、二千円。
東京の最低賃金で2時間も働けば稼げる金額。命がけの仕事の対価としては冗談にもならない。それは搾取という言葉ですら生ぬるい、あまりに理不尽な条件だった。
断るべきだ。こんな連中と組んでもろくなことにはならない。
頭ではそう判断している。今さらコンビニでバイトでも始めた方がよほどマシな生活ができるだろう。
だが。
もうそんな気力もなかった。履歴書を書き、面接官に頭を下げ、また社会の歯車に戻る。考えただけで思考が停止する。一度探索者という非日常に足を踏み入れてしまった今、もう後戻りはできなかった。たとえその道が地獄に続いていようとも。
ぐぅ、と腹の虫が鳴った。
俺の身体は正直だった。このままでは死ぬ。生きるためにはどんな屈辱的な条件でも飲むしかない。考えることをやめた頭で、ただ生存本能だけが俺に決断を迫っていた。
「……分かりました」
俺は床から絞り出すような声で答えた。
「よろしくお願いします」
「けっ、威勢のねえ野郎だな」
大男は心底つまらなそうに吐き捨てると、「行くぞ」と仲間たちに声をかけた。
こうして俺は『ブラッディ・ファング』と名乗るDランクパーティーの専属荷物持ちになった。
それは新たな地獄の始まりだった。
◇
俺の仕事は文字通り『荷物持ち』だった。
ダンジョンに入る前に彼らの装備や大量のポーション、食料などを俺のアイテムボックスに詰め込む。そしてダンジョン内では彼らが倒したモンスターの素材やドロップアイテムを、ひたすら回収して収納していく。
「おい、そこのゴブリンの死体、さっさと片付けろ!」
「ポーションだ! 早く出せ、ノロマ!」
「ちっ、使えねえな。アイテムボックスしか能がねえくせに」
彼らは俺を名前で呼ぶことはなかった。俺は彼らにとって人間ですらない。ただの便利な道具。歩く収納箱。
暴力も日常茶飯事だった。
少しでも動きが遅ければリーダーの男に殴られ、蹴られた。アイテムの出し入れを間違えれば痩せた男に舌打ちされ、女には嘲笑を浴びせられる。
かつて勤めていたブラック企業。そこでの日々が生々しく蘇る。
理不尽な暴力。人格を否定するような罵声。そして圧倒的な力関係による搾取。
何も変わらない。場所が変わっただけで俺の置かれている状況は寸分違わず同じだった。
ダンジョンから帰還すれば彼らはその日の収穫を換金し、居酒屋へと消えていく。俺はそこで日当の二千円札を一枚、まるで恵んでもらうかのように受け取るだけ。
その金でスーパーで見切り品になった百円の菓子パンを二つ買う。それが俺の一日の全ての食事だった。どこか人工的な甘さのパンを、アパートの埃っぽい床で水道水で流し込む。そんな日々が何か月も続いた。
俺の心は日に日にすり減っていった。感情はとうに麻痺し、もはや怒りも悲しみも感じない。ただプログラムされた機械のように、言われたことを淡々とこなすだけ。
そんなある日。
いつものように俺たちは低ランクのダンジョンに潜っていた。その日の目標は、この階層のボスであるホブゴブリンが稀に落とすという、そこそこ高値で売れる魔石だった。
モンスターが数体うろつく小部屋で、リーダーの男が一体のゴブリンが持つ古びた布製の鞄に目を留めた。
「おい、待て!」
リーダーの一声でパーティーの足が止まる。ゴブリンは慌てて逃げ出したが、痩せた男が放った矢にあっけなく貫かれ絶命した。
リーダーがゴブリンの死体に駆け寄り、その手から鞄を奪い取る。
「ちっ、なんだこりゃ。ただのボロい鞄か……ん?」
リーダーは鞄の内側に何か紋様が描かれていることに気づき、試しに近くに転がっていた石ころを入れてみた。すると石ころは鞄の中にすっと吸い込まれるように消え、鞄の形状は全く変わらなかった。
「おい……これ、もしかして『収納の鞄』か!?」
痩せた男が興奮したように叫んだ。
『収納の鞄』
ダンジョンで見つかる、アイテムを収納できる魔法の道具だ。
「まじかよ!ツイてるぜ!」
「やったじゃん、リーダー!」
三人は思わぬ拾い物に歓声を上げた。俺だけがその光景を冷めた気持ちで見ていた。
その鞄は高性能らしく、その日の収穫物を全て入れてもまだ余裕があるようだった。
その小さな鞄は、『俺』という存在を不要にするには十分な価値を持っていた。
リーダーの男がちらりと俺に視線を向け、にやりと下卑た笑みを浮かべた。
「なあ、お前ら。こいつ、もういらなくねえか?」
「どういうことだよ、リーダー?」
痩せた男がいぶかしげに尋ねる。リーダーは鞄をポンポンと叩きながら言った。
「この鞄、すげえ量が入るぜ。これさえあればこいつはもう用済みだ」
「ああ、なるほどな!これさえあればあいつのスキルはいらねえってわけか!」
「そういうことだ。毎日二千円払うのも、正直馬鹿らしくなってたとこだ」
女が甲高い声で笑った。
「ウケる!もうこいつに二千円も払わなくていいじゃん! ラッキー!」
背筋が凍るような感覚がした。
こいつらは正気じゃない。
たかが日当二千円を惜しむために俺を切り捨てる。それだけならまだいい。だがリーダーの目はもっと昏い色をしていた。
「どうせなら最後に一仕事してもらおうじゃねえか」
リーダーは俺を顎でしゃくった。
「こいつを囮にしてこの部屋のモンスターを引きつけてもらう。その隙に俺たちはボス部屋までずらかる。この使えねぇ野郎を最後の最後で『有効活用』してやるんだよ。最高だろ?」
「ははっ、リーダー、冴えてるぜ!」
彼らにとって俺の命は、二千円以下の価値しかなかったのだ。
「ま、待ってください……!そんな……」
俺は必死に命乞いをしようとした。
だがリーダーの男が俺の胸ぐらを掴み上げる。巨体にいとも簡単に持ち上げられた。
「ごちゃごちゃうるせえな、使えねぇゴミ野郎が。こっちは金出してんだよ。せめて、最後までしっかり役立てよ」
彼はそう言うと、俺の意思とは関係なくアイテムボックスの中身を彼の足元にぶちまけさせた。
これまで集めた大量のモンスターの素材。高価な魔石。そして俺のなけなしの私物だった一枚の探索者カード。
彼らはその中から価値のありそうなものだけを素早く『収納の鞄』に詰め込むと、残りを蹴散らした。
「じゃあな、使えねえ荷物持ち。せいぜい達者で暮らせよ! まあ、もう無理だろうがな!」
リーダーの男は高らかに笑うと、俺の身体を部屋の中央へと力任せに突き飛ばした。
「うわあああああっ!」
数メートル先の床に叩きつけられ、息が詰まる。
俺の目には部屋の出口へと走り去っていく三人の背中と、物音に気づいて一斉にこちらに殺到してくるおびただしい数のモンスターの姿が映っていた。
ああ、ここで死ぬのか。
ブラック企業から逃げ出した先で待っていた結末が、これか。
理不尽だ。
あまりに理不尽すぎる。
せめて、あいつらだけでも道連れに……。
そんな叶うはずもない呪いの言葉を心の中で叫んだ。
その瞬間だった。
俺が倒れ伏している地面。その空間がまばゆい光を満ちていった。視界の端では、これまでに見たこともないような文字の羅列が明滅していた。
「え……?」
モンスターに食われる衝撃を覚悟していた俺の身体は、その強烈な光にすっぽりと飲み込まれていった。
まるで白い光に存在を上書きされていくような感覚。
モンスターたちの驚いたような鳴き声と、遠ざかっていく裏切り者たちの姿を最後に、俺の意識はぷつりと途絶えた。
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