ブラック企業で心折れた俺は、ダンジョン最底層で覚醒する ~スローライフを目指して、復讐ついでに世界を救う~

速水静香

第一章:社会の底辺

第一話:失業と探索者登録

 人生が音を立てて終わるなんて、安っぽいドラマの中だけの話だと思っていた。


 現実はもっと静かで、事務的で、そしてどうしようもなく無慈悲だ。


 会社のドアに張り出された一枚の紙。A4サイズのコピー用紙に、黒々とした明朝体で印刷された文字の羅列。俺の数年間をゴミ箱に叩き込むには、それで十分すぎた。


『事業停止のお知らせ』


 その日、俺はいつもと同じ時間に家を出た。くたびれたスーツに身を通し、ろくに磨いてもいない革靴を履く。満員電車の息苦しい空気にも慣れた。つり革を握る人々の、生気のない瞳にももう何も感じない。駅のホームから会社までの道のり。雑居ビルのくすんだ壁。全てが昨日までと何も変わらない、退屈な日常の風景だった。


 そう、あの紙切れを目にするまでは。


「……は?」


 誰かが漏らした、間の抜けた声。


 それが自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。


 オフィスの入った雑居ビルの前には、既に見慣れた顔が十数人、立ち尽くしていた。皆、一様にビルの入り口、正確にはそのガラス扉に貼られた告知文に視線を固定している。


「おい……これ、マジかよ」


「事業停止って……倒産ってことか?」


「昨日まで普通に仕事してたじゃねえか!」


「給料は……?」


 あちこちから上がる、動揺と怒りが入り混じった声。その喧騒が、やけに遠くに聞こえる。まるで別の世界の出来事のようすら感じられる。


 俺は人垣をかき分ける気力もなく、その場で立ちすくんだまま、張り紙の文字をぼんやりと目で追った。


『関係者各位。誠に勝手ながら、弊社は、本日をもちまして一切の事業を停止いたしました。長年のご厚情に……』


 紋切り型の、まるで心のこもっていない文章。その下に、代表取締役の名前と、見慣れない法律事務所の連絡先が記されている。いわゆる『夜逃げ』というやつだろう。備品の持ち出しを防ぐためか、入り口には真新しいチェーンと南京錠までかかっている。ご丁寧にどうも。


 怒りは、不思議と湧いてこなかった。


 ああ、やっぱりか。


 そんな、ひどく冷めた感想だけが、頭の中に浮かんで沈んでいく。


 安すぎる給料。月百時間を超えるのが当たり前の残業。パワハラとセクハラが日常的に飛び交う、淀んだ空気。およそ最近の日本企業とは思えない、絵に描いたようなブラック企業だった。いつかこうなるだろうという予感は、ずっと前からあった。ただ、その『いつか』が今日だったというだけのことだ。


 ガックリと膝から崩れ落ちる女性社員。スマホを取り出し、誰かに怒鳴り散らしている営業部のエース。頭を抱えてうずくまる、俺の直属の上司。


 誰も彼もが、突然突きつけられた現実を受け入れられずにいる。


 俺は、そんな同僚たちの姿を他人事のように眺めていた。彼らと同じように嘆いたり、怒ったりするだけのエネルギーが、もう自分には残っていない。長年の過重労働は、俺から人間らしい感情をすっかり抜き去ってしまっていた。


 ふと、一人の若手社員と目が合った。彼は泣きそうな顔で、俺に何かを求めてくる。同意か、慰めか、あるいは次の行動の指針か。


 俺は何も言わず、ただ静かに踵を返した。


 もう、どうでもいい。


 この会社も、ここにいる連中も、俺の人生も。


 アスファルトの灰色が、やけに目に染みた。俺は来た道をとぼとぼと引き返す。背後で誰かが俺の名前を呼んだような気がしたが、振り返ることはしなかった。



 六畳一間、風呂なしトイレ共同のアパート。そこが俺の根城であり、墓場だった。


 ドアを開けると、カビとホコリの匂いがむわりと鼻をつく。スーパーで買った弁当の容器が積み重なり、脱ぎっぱなしの服が小さな山を作っている。昨日までなら、この光景にうんざりしながらも、シャワーを浴びて仕事へ行く準備を始めていた。


 だが、今日は違う。


 俺はスーツの上着を脱ぎ捨てることもせず、そのままベッドに倒れ込んだ。ギシリ、とスプリングが悲鳴を上げる。天井の木目が、じっとこちらを見下ろしている。


 これから、どうする?


 問いかけたところで、答えなどあるはずもない。


 手元のスマートフォンで銀行口座の残高を確かめる。表示された数字は、あまりに心もとなかった。家賃を払えば、すぐに底をつく。一ヶ月も生きてはいけないだろう。


 再就職?


 考えただけで、胃がキリキリと痛む。また履歴書を書いて、面接を受けて、どこかの会社に所属する。また理不尽な上司に頭を下げ、意味のない仕事に時間を奪われる。


 冗談じゃない。


 もううんざりだ。誰かのために働くなんて、組織の歯車になるなんて、二度とごめんだ。歯車は、すり減れば捨てられる。俺が、この数年間で学んだ唯一の真実だった。


 そんな思考と無気力が、しつこく身体に絡みついてくる。


 俺はベッドから起き上がることさえできず、ただひたすらに時間を浪費した。


 窓の外がオレンジ色に染まり、やがて濃紺になり、そしてまた白んでいく。腹が減ったという感覚すらなかった。喉が渇けば、かろうじて起き上がって水道水を飲む。トイレと水の飲料。それだけが、俺が生きていることを証明する唯一の行動だった。


 何日そうしていたのか、もうよく分からない。


 部屋のカレンダーの日付は、とっくに意味を失っていた。


 ある時、不意にスマートフォンの画面が光った。惰性で指を動かし、ネットニュースを開く。社会の動向なんて、今の俺には何の興味もない。ただ、何か文字を読んでいないと、自分がこのまま永遠に消えてしまいそうな気がした。



『ダンジョン出現から10年。探索者市場、過去最大の好景気』


 ダンジョン。探索者。


 もちろん、知識としては知っている。テレビやネットで、毎日のように関連ニュースが流れているからだ。トップランカーと呼ばれる探索者たちは、スポーツ選手や芸能人以上の人気と富を手にしている。


『未経験からでも始められる! 探索者になるための3ステップ』

『驚愕! 元ニートが探索者になって年収1億!』

『スキル次第で人生一発逆転! あなたもギルドへGO!』


 画面には、胡散臭い広告のような見出しがずらりと並ぶ。どれもこれも、情報弱者をカモにするための煽り文句にしか見えない。


 だが、そんな華やかな世界の裏側はどうなっているんだ?


 ふと、そんな疑問が頭をよぎった。俺は検索窓に、無機質な指で文字を打ち込む。


『探索者 現実』


 検索ボタンをタップした瞬間、俺のスマートフォンの画面は、あるSNSのタイムラインに切り替わった。そこに表示されたのは、きらびやかな成功譚とは似ても似つかない、どす黒い現実。現役の探索者を名乗る無数のアカウントから、短い言葉に乗せられた本音が、滝のように流れ落ちていた。それは、成功者たちの足元に積み上げられた、無数の屍たちの声だった。


『探索者の9割は年収200万以下のワーキングプア。夢見んな』

『実質、死と隣り合わせの非正規労働者。労災なんて当然ない』

『成功できるのは宝くじに当たるようなもん。メディアはそういう奴しか取り上げないだけ』

『今日ダンジョンで死んだ人間の数、なんてニュースでは絶対言わないよな』

『Dランク以下のダンジョンでゴブリン狩って日銭稼ぐのが関の山。装備代とポーション代で赤字になるヤツばっかだぞ』


 スクロールする指が、思わず止まる。


 そうだ。当たり前の話だ。誰もが成功できる世界なんて、あるはずがない。光が強ければ、その分、濃い影ができる。俺たちが目にする成功者は、何千、何万という敗者の骸の上に立つ、ほんの一握りの例外なのだ。


 結局、どこも同じか。


 会社という組織に搾取されるか、ダンジョンというシステムに命を削られるか。選べるのは、どの歯車になるか、という違いだけ。


 俺は、嘲るように鼻を鳴らした。


 だが。


 俺は、ゆっくりとベッドから身体を起こした。


 部屋の隅に置かれた、安物の姿見。そこに映っていたのは、死人のような顔色をした、痩せた男だった。落ち窪んだ目。伸び放題の無精髭。光のない瞳。


 このまま、ここで朽ち果てるのを待つのか?


 家賃が払えなくなり、アパートを追い出され、路上で誰にも知られずに死んでいく。それが、今の俺に約束された未来。


 それとも。


 9割9分9厘が屍となる、地獄のような賭場に、この身を投じてみるか。


 タイムラインの書き込みを思い出す。日銭稼ぎ。ワーキングプア。だが、それは今の俺と何が違う? ブラック企業で働いていた頃と、何も変わりはしない。


 だとしたら、万に一つ、億に一つでも、そこから抜け出せる可能性があるだけ、マシなんじゃないか?


 どうせ失うものなんてもう何もない。


 俺の心の中で、何かがカチリと音を立てた。それは希望なんていう綺麗なものじゃない。もっと黒くて、ドロリとした、自暴自棄と紙一重の何かだった。


 俺は立ち上がると、数日ぶりにシャワーを浴びた。冷たい水が、こびりついた無気力をわずかに洗い流していく。クローゼットの奥から、一番マシな普段着を引っ張り出す。


 財布から、なけなしの紙幣を数枚抜き取る。


 行く先は、一つしかない。


 探索者ギルド。日本支部。



 電車を乗り継ぎ、都心の一等地にあるその建物に着いた時には、すっかり昼を回っていた。


 目の前にそびえ立つのは、ガラスと鉄骨でできた、近未来的な高層ビル。周囲のどの建物よりも高く、威圧的ですらある。ここが、現代の冒険者たちの拠点、探索者ギルドか。


 入り口の自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。


 内部は、まるで高級ホテルのロビーのようだった。磨き上げられた大理石の床。高い天井から吊るされた、巨大なシャンデリアのような照明。そして、行き交う人々の熱気。


 重厚な鎧に身を固め、仲間と談笑する大男たち。最新鋭の装備に身を包み、自信に満ちあふれた表情で闊歩する若者たち。彼らは、俺がネットニュースで見た『成功者』そのものだった。その身から発する雰囲気が、俺のような日陰の人間とは明らかに違っていた。


 だが、俺の目は、ロビーの隅の方でうごめく、別の種類の人間たちも捉えていた。


 依頼が張り出されている巨大なディスプレイの前で、深いため息をつく男。彼の着ている革鎧は擦り切れ、剣の刃はボロボロにこぼれている。依頼を受けるだけの金もないのか、それとも受けられる依頼がないのか。


 隅のソファでは、若いパーティーが深刻な顔で言い争っていた。


「だから、ポーション代がもうないんだって!」

「じゃあどうすんだよ! この依頼を逃したら、今月の家賃が……」


 壁にもたれかかり、虚ろな目で床の一点を見つめている者もいる。昨日までの仲間を、ダンジョンで失ってきたのかもしれない。


 光と、影。


 成功と、挫折。


 この場所は、その二つが何の隔てもなく同居する、残酷な縮図だった。SNSで見た情報は、紛れもない事実だったのだ。


 完全に、場違いだ。


 踵を返して、今すぐここから逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。


 だが、俺は奥歯をぐっと噛み締めて、その衝動を抑え込んだ。もう、後戻りはできない。ここで逃げたら、俺の人生は本当に、ただ朽ちていくだけだ。


 俺は、ロビーを横切り、総合受付と書かれたカウンターへと向かった。ずらりと並んだカウンターには、それぞれ番号が振られている。その中の一つ、『新規登録』と表示された窓口へと、震える足で進んだ。


「あの……」


 声をかけると、受付の女性が顔を上げた。きっちりと糊のきいた制服に身を包んだ、いかにも仕事ができそうな人だった。彼女は俺の貧相な身なりを一瞥したが、特に表情を変えることなく、事務的な口調で言った。


「はい。ご用件は」


「えっと、探索者の登録を……」


「新規登録ですね。では、こちらのタブレットに必要事項をご記入ください」


 彼女はそう言って、カウンターに備え付けられていた電子端末を俺の方へ向けた。画面には、氏名、年齢、住所といった個人情報を入力するフォームが表示されている。


 俺は、言われるがままに、一つ一つ項目を埋めていく。指先が、わずかにこわばる。


 全ての入力が終わると、女性は慣れた手つきで端末を操作した。


「吉田リュウ様ですね。ご本人確認のため、身分証のご提示をお願いします」


 財布から運転免許証を取り出し、差し出す。彼女は免許証の情報を手元の端末に読み込ませると、すぐに返してくれた。


「ありがとうございます。確認が取れました。それでは次に、スキル適性検査を行いますので、あちらの3番検査室へお進みください」


 彼女が指し示した先には、半透明のガラスで仕切られた個室がいくつか並んでいた。


「検査……」


「はい。探索者登録には、スキルの発現が必須となります。万が一、スキルが発現しなかった場合、登録はできませんので、あらかじめご了承ください」


 淡々とした、マニュアル通りの説明。


 だが、その言葉は、俺にとって死刑宣告にも等しい重みを持っていた。


 ここで、全てが決まる。


 俺の人生の最後の賭けが、今、始まろうとしていた。


 俺は、ごくりと唾を飲み込む。


「……分かりました」


 そう答えるのが、精一杯だった。


 促されるままに3番検査室へ向かう。数メートルの距離が、ひどく遠く感じられた。


 すりガラスのドアを開けると、中は殺風景な白い部屋だった。中央に椅子が一つと、その向かいに、人間の頭くらいの大きさの黒い球体が宙に浮いている。


「椅子にお座りになって、球体に両手をかざしてください」


 部屋のスピーカーから、先ほどの受付の女性とは別に、落ち着いた男性の声が流れた。俺は言われた通りに椅子に腰かけ、目の前の黒い球体に、おそるおそる両手を伸ばす。


 ひんやりとした感触を想像していたが、何も感じない。ただ、自分の手がそこにあるだけだ。


「それでは、検査を開始します。リラックスしてください」


 その声と同時に、黒い球体が淡い光を放ち始めた。ブーン、という低い機械音が部屋に満ちる。


 どうなる? 何が起こるんだ?


 身体に何か変化があるわけではない。ただ、頭の中が、直接スキャンされているような、不快な感覚があった。


 頼む。


 何でもいい。


 どんなクズみたいなスキルでもいいから。


 どうか、発現してくれ。


 俺は、祈るように目を閉じた。


 長いような、短いような時間が過ぎる。


 やがて、機械音が止み、球体の光が消えた。


「はい、検査は終了です。お疲れ様でした。ロビーでお待ちください。結果が出ましたら、お呼び出しいたします」


 スピーカーからの声に促され、俺はふらつく足取りで検査室を出た。ロビーの隅にある待合用のソファに、どさりと身体を預ける。


 もう、俺にできることは何もない。


 あとは、結果を待つだけだ。


 周囲の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。


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