第1章-1:恋愛市場価値の損益計算
「お疲れさまでした。海斗さん、お時間少しよろしいですか?」
定時を過ぎた営業部のオフィスで、優理の声が聞こえた。
海斗は、企画書の最終チェックから顔を上げ、腕時計に目をやる。
午後7時半。
残業の常態化している部署でも、さすがに人の数はまばらだった。
「ああ、優理。大丈夫だよ」
海斗は、彼女が自分を呼びかける声に、少しだけ胸がざわついた。
それは、ごく最近、二人が奇妙な『契約』を結んだからだ。
もちろん、社内の誰も知らない、二人だけの秘密の契約を。
「今日の定例会議、私の部屋でいいですか? 先日提案した案件、海斗さんの意見も聞きたくて」
「ああ、いいよ。ちょうど腹も減ったし、何か簡単なものでも作ろうか」
「承知しました。では、後ほど」
優理は、完璧な笑顔でそう答え、手元の資料をまとめ始めた。
その一連の動作に一切の無駄がない。
彼女は、26歳という若さながら、営業部で常にトップの成績を収めている。
海外留学経験があり、経済やビジネスに対する深い知識を持つ。彼女との会話は、いつも心地よく、そして、どこか緊張感があった。
海斗と優理の関係は、ほんの数ヶ月前、偶然の出来事から始まった。
それは、とある取引先の接待ゴルフでのこと。
得意先の上司に、無理やり「いい子がいるから」と、マッチングアプリの利用を勧められた。
海斗は、失恋後、何度か試してはいたが、課金してもマッチングすらままならず、すでに諦めかけていた。
そのアプリの画面を見せた瞬間、向かいの席にいた優理が、信じられないほど冷ややかな目でスマホ画面を覗き込んできた。
「…海斗さん、それ、効率悪すぎませんか」
「え、どういうこと?」
「そのアプリ、男性の平均年収を公表しているでしょう。
あなたの年齢だと、その年収じゃ、トップ層の男性たちに埋もれて、まずプロフィールすら見てもらえません。
あなたのスペックは悪くないのに、市場価値を最大限に活かせていない」
優理の言葉に、海斗はぐうの音も出なかった。
彼女の指摘は、あまりにも的確だったからだ。
海斗は、20代は同棲していた彼女がいたが、年収で負けて破局した過去がある。
失恋後は仕事に打ち込み、今の部署に異動して主任に昇進した。
恋愛よりも仕事を選んだ結果、いつの間にか「市場価値」という数値で、自分の立ち位置が判断されるようになっていた。
そして、優理もまた、過去の恋愛で裏切られた経験から、恋愛に疲れ果てていたという。
その日の夜、二人は会社の帰りに飲みに行った。
お互いの恋愛観について語り合ううちに、共通の結論に至った。
「恋愛は、非効率で、リスクが高すぎる」
海斗は、年収という「数値」で敗北を喫した。
優理は、信頼という「非契約的な要素」で裏切られた。
彼らが求めていたのは、恋愛が約束する不確実な幸福ではなく、予測可能で、コントロール可能な人間関係だった。
「だったら、恋愛を排除して、互いの利益を最大化する契約を結びませんか?」
優理は、真剣な顔でそう提案した。
「契約?」
「はい。私たちは、世間のいう『お一人様』が享受できないサービスを互いに提供し合う。例えば、恋人がいることによる社会的信用や、住宅手当のような経済的なメリット。それに、性的な欲求不満の解消も含まれます」
優理の言葉に、海斗は一瞬たじろいだ。
しかし、彼女の口調は、まるで新しいプロジェクトを提案するかのようだった。
「その代わり、相互独占を厳格に守る。もちろん、すべて書面で、明確に定義します。感情は一切排除して、純粋なビジネスパートナーシップとして」
その夜、二人は一つの結論に達した。
「恋愛市場価値がゼロになった私たちにとって、この契約こそが、人生の損益分岐点を最大化する、唯一の道だ」
そして、数日後、優理は海斗に一つの文書を渡した。
それは、後に二人の人生を大きく変えることになる『疑似恋人契約書』のドラフトだった。
そこには、第1条の「目的と基本原則」から始まり、「独占関係」「プール金」といった、二人の関係を定義する恐るべき条項が、まるで法律文書のように、厳格に記されていた。
契約の目的は、明確だった。
『自身のキャリアの最大化を企図する』
そして、
『お一人様への攻撃から身を守る』
同時に、
『性的な欲求不満の解消としての相互独占契約を結ぶ』
その全てを、この一枚の契約書で実現しようとしていた。
海斗と優理は、お互いに、恋愛市場という戦場から撤退した者同士、互いの傷を理解し、共感した。
しかし、彼らはその傷を癒すために愛を選ばなかった。
傷を二度と負わないために、完璧な防御策を選んだのだ。
これが、彼らの物語の始まりだった。
そして、この契約が、彼らの人生をどこへ導くのか。
それは、まだ誰も知らない。
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