辺境食堂のスキル錬成記

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話「追放と最初の一皿」

 目を開けると、石造りの天井があった。濁った灯りがいくつも、皿のような金具の中で揺れている。鼻に入るのは、古い羊毛と香草の匂い。床は磨かれた石で、冷たさが靴底から脛へと這い上がってくる。

 ざわめき。自分の他にも十数人、年齢も服装もばらばらの人間が並んでいた。スーツ姿の男、学生服の少年、エプロンを着けたままの女性――。隣の男が自分の腕をつねりながら、小さく呟く。


「……夢じゃ、ないのか?」


 広間の奥、玉座のように高い椅子がある。その前に立つ白髭の老人が、杖で床を二度叩いた。

「異界よりの来訪者よ。ようこそ我が王都へ。これより、汝らの加護と適性を鑑定する」

 老人の声は驚くほどよく通った。言葉は不思議と理解できる。耳の奥で何かがゆっくりと回転し、意味を寄せ集めて形にしてゆく感覚。

 俺――カイは、最後に覚えている場面を思い出そうとした。終電間際の駅、眠気で視界が滲み、階段を踏み外して……そこから先は暗い。息が詰まる。深呼吸。肺に入った空気は乾いていて、金属のような味がした。


 列は一人ずつ進み、広間の中央に据えられた水晶へと導かれていく。水晶は人の背丈ほどもあり、内部にゆっくり流れる霧のような光が見えた。

「剣聖の素質あり!」

「回復術師、希少な祝福だ!」

 歓声とどよめき。人々は、自分の番が来るまで落ち着かない指で袖をいじる。順番が近づくほど、胸の鼓動がうるさくなる。並ぶ者の視線の矢じりが、前の者、そして次に来る俺の背中を刺す。


 やがて、老人が目を細めて俺を見た。

「名は」

「……カイ、です」

「よい。手を」

 水晶に触れた瞬間、指先から冷たさが骨まで染みて、頭の中に無数の細い糸が引き込まれる感覚が走った。糸は脳のどこかに結び目を作って、ぱちん、と小さな音を立てる。水晶の内側で光が瞬き、文字が浮かび上がった。


 老人はそれを読み上げる。

「――調理。調合。交易。……以上」

「以上?」

 思わず復唱した声が情けないほど軽かった。広間の空気が、少し笑った。

「戦えない、ってことか」

「いや、働き者ではあるのだろう」

「勇者の列からは外そう。次」

 玉座に座る男――王と思しき人物が、退屈そうに片手を払った。落ちた埃のように、俺の立つ場所から意味が削り取られていく。


「待ってください。役に立てます。料理や調合が――」

「余は戦を前にしている。求むは剣と魔法だ。台所の腕では魔王は倒せぬ」

 王の声は冷ややかで、確信に満ちていた。

 俺は口を閉じた。確かに、その通りかもしれない。だが、胸に残る引っかかりは消えない。これだけで本当に「無用」と決められるのか、と。


 その日のうちに、俺は城門の外へ放り出された。支給されたのは粗末な外套と、掌に収まるほどの銅貨だけ。門番の「気の毒に」という視線が、逆に痛かった。

 日が傾く。石畳に影が長く伸びて、城の影は町全体を覆い始める。

 俺は歩いた。何かを考える前に、足が勝手に前へ動いていた。歩きながら、掌に残る水晶の冷たさを思い出す。調理・調合・交易。地味だ。だが、俺が今まで生きてきた手触りに近い。ブラック企業の現場で、細い段取りと、においと、時間の火加減だけは、毎日捨てずに持ち帰ってきた気がする。


 城下を抜け、街道に出ると、両側には色を失った畑が広がった。風が土の上を走るたび、細かい砂が目に刺さる。遠くにひと塊の森が見え、道はそこへ細く続いている。

 空腹が、背骨の中に爪を立てた。腹の内側がきゅうと痛む。何か食べなければ。財布の銅貨では、宿の粗末なスープすら怪しい。


 日暮れの手前、小さな集落に辿り着いた。十数軒ほどの家は低く、屋根は干草で覆われ、壁は土と藁で塗り固められている。扉の隙間から漏れる灯りは弱く、子どもたちは痩せていて、目だけが大きかった。

「旅の方? 悪いけど、今は食わせる余裕がないんだよ」

 家々を回って宿を乞うと、皆、同じような申し訳なさそうな顔で首を振った。

「少しでいい。水と、焚き火が使えれば」

「井戸は村の真ん中さ。焚き火は……あんたが薪を拾えるなら、誰も文句は言わないよ」

 村長らしき老人が、顎で森を示す。

「森は、危ないか?」

「出るのさ。ちいさな牙と赤い目の連中がね。畑を荒らし、子どもを脅かす。兵士を呼ぶ金もない」

 老人の肩は細く、布の下で骨が浮いていた。彼らも限界なのだ。


 俺は頷き、森へ向かった。空は茜から鈍い群青へと変わり、木々の黒が重く重なって行く。足元の枝が折れるたび、小さな獣の気配が散っては止まる。

 息を潜めて耳を澄ませる。葉脈の擦れる音の裏に、土を掻く軽い爪の音。目を凝らすと、茂みの陰で赤い目が二つ、揺れた。

 石を一つ拾い、重みを確かめる。投げる。鈍い音。短い悲鳴。茂みが裂け、兎ほどの大きさの獣が転がり出た。体毛は灰色で、背に黒い斑点、口には鋭い牙――村の人間が「小鬼兎」と呼んでいた魔物だ。

 胸の奥で、さっきの水晶の冷気が戻ってくる。調理。調合。俺はナイフを取り出し、躊躇なく皮を剥いだ。膝の上に板を置き、内臓を分け、食べられる部位と避ける部位を峻別する。血のにおいが温かい。

 森の縁で薪を集め、井戸端の共同炉に火を起こした。村人の視線がぼんやりと集まってくる。「何をするんだろう」という距離と、「何でもいいから奇跡が起きてほしい」という祈りの距離の中間くらいに、彼らは立っていた。


 鍋は――ない。だが、井戸の脇に大きな鉄の釜が据え付けられている。すすで真っ黒だが、内側は使い込まれて滑らかだ。村の女が言った。

「それは収穫のときに使う共同釜だよ。今は空っぽさ」

「使わせてもらっていいか」

「……うん」

 釜に水を張り、火にかける。沸騰までの時間が、空腹の胃袋に永遠のように長い淀みを作る。

 森から持ち帰ったのは小鬼兎の肉だけではない。見慣れない葉を数種、採ってきた。葉の縁が白く、茎が紫がかったソウゲ。丸い葉に微かな樟脳の匂いがこもるコグサ。そして、根に苦みの強いヤマニガ。

 村の老婆が眉をひそめる。

「ソウゲは、毒になるよ」

「加熱して最初の煮汁を捨てれば、強い成分は抜ける。コグサで香りを立てて、ヤマニガで味を締める。俺の“感覚”がそう言ってる」

 “感覚”と口にした時、自分でもおかしな気持ちになった。言葉にすると頼りないが、確かなものが背中を押している。水晶の糸が、また一つ音を立てた気がした。


 湯が踊り始めた。まずソウゲを放り込む。青臭い香りが強く立ち上がる。しばらく煮て、湯を捨てる。釜の底に残る緑の泡がしゅう、と弾けて消えた。再び水を張り、今度は小鬼兎の骨と肉を入れる。

 火。泡が縁に集まり、灰色のアクが花のように咲く。丁寧にすくう。アクは苦みの塊だ。ここを怠ると全てが台無しになる。

 香りが変わる。肉の甘い匂いが立ち上がり、そこにコグサのすっとした涼しさが背骨を通して入ってくる。ヤマニガは砕いて布に包み、しばらく沈める。

 味見をした。舌の付け根がじんわりと温かくなり、胃の奥に火が灯る。「いける」と体が言った。


「少し多めに作る。子どもから先に」

 椀を配る。最初の一口を、老人に勧めた。

 老人は恐る恐る口をつけ、目を見開いた。

「……指が、痛くない」

 老人の手は節くれだっていて、長年の関節痛が癖になっているようだった。彼は指を握ったり開いたりして、信じられないという顔で笑った。

 次々と椀が空く。頬に色が戻ってゆく。涙ぐむ者もいた。鍋の湯気は夜の冷気に混じり、村の広場に白い雲をいくつも浮かべる。

 その光景を見ながら、俺の頭の中に、言葉にならないが確かな“式”のようなものが組み上がっていくのを感じていた。調理の線と、調合の点群、それから交易の矢印。線と点と矢印が、鍋の中で、村の空で、衰弱した身体の中で、正しい位置を見つけて合流する。


「おまえさん、名前は?」

「カイ」

「カイ。……明日も、やってくれるかい」

 村長の声は、期待を怖がる声だった。期待は裏切られる痛みを前借りする。だから、彼らは長い間、期待という行為を節約して生きてきたのだ。

 俺は火の先を見つめた。薪はちろちろと音を立て、炭が赤く呼吸をしている。

「明日もやる。できれば畑を見せてほしい。土と水。それから、森で採れる草のことも教えてほしい。もっと良くできるはずだ」

「良く?」

「うん。腹を満たすだけじゃない。働ける体にする。眠れる夜にする。傷の癒える速さを上げる。料理と調合で、村を“強く”できる」

 自分で言って、胸の奥が熱くなった。俺が言った? 本当に? けれど、俺の口の内側には、確かな味が残っている。できる。やれる。鍋の湯気に、そんな手触りが含まれている。


 その夜、村の空には雲が薄くかかり、星の数は少なかった。俺は共同小屋の隅に寝床を借り、外套を丸めて枕にした。梁の影が壁を斜めに切り、遠くで犬が一度だけ吠えた。

 目を閉じると、今日一日の音が戻ってくる。水晶の冷たさ。王の乾いた声。森の葉擦れ。鍋の泡の弾ける音。子どもの笑い。

 胸が静かに上下するたび、どこかで新しい歯車が噛み合う音がした。それは、俺がこの世界で初めて手に入れた“リズム”だった。


 翌朝。水は針のように冷たく、指先がじんじんと痺れる。顔を洗い、井戸の縁に手を置いて空を仰ぐ。雲は高く、鳥は低く鳴いた。

 村長が来た。痩せた頬に、昨夜よりも少しだけ血の色が戻っている。

「畑を見に行こう。おまえさんの言う通り、土と水を」

「助かる」

 畑は村の外れ、川の曲がり角に広がっていた。土は表層が固く、爪先で削るとすぐに石交じりの層が顔を出す。

「去年、長い雨が続いた。その後に干ばつ。根が息をできなくなったのさ」

 村長がしゃがみ込み、乾いた塊を崩した。

 俺は掌で土を揉み、鼻に近づける。匂いは弱く、疲れている。

「コグサは畑の外縁に植え直した方がいい。根が浅いから、土の匂いを連れ戻せる。ソウゲは森の縁から少しずつ移植して、毒抜きの知恵を子どもに教える。ヤマニガは乾かして粉にして、冬に備えておく。……“交易”は、町へ行くだけじゃない。村の中で、場所から場所へ、時から時へ、ものと手を渡すことだ」

 自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出た。頭の中の矢印が、土の上に白い線を引く。

 村長は目を細めて頷いた。

「わかった。やってみよう。だが、金はない。道具も少ない」

「じゃあ、まずは鍋から始めよう。今日の昼は、昨日よりもう少し大きく作る。働ける者は森へ。コグサと、木の実と、木の皮を少し。木の皮はスープの濁りを沈める。……皆で鍋を囲む。そこから始めよう」

 村長は笑い、とてもゆっくりと、俺の肩に手を置いた。

「おまえさん、王の城で何を言われた」

「無用だと」

「なら、ここでは有用にしてやろう」

 その言い方が、温かかった。言葉の奥で、長い年月の痛みが柔らかく折りたたまれているのがわかった。


 昼。鍋は昨日の二倍の量を満たし、香りは広場いっぱいに流れた。子どもらが列を作り、女たちは笑いながら叱り、男たちは斧を肩に担いで戻ってくる。

 そこへ、異質な蹄の音が混じった。

 見れば、薄汚れた革鎧に身を包んだ男が三人、馬で村へ入ってくる。腕には古い紋章。槍の穂先は研がれているが、眼は飢えた狼のようだった。

 一人が顎をしゃくって、鍋を見た。

「いい匂いだな。税の取り立てだ。鍋ごと寄越しな」

 広場の空気が凍る。子どもが一人、椀を抱えたまま固まった。

 俺は鍋の前に立ち、軽く首を振った。

「これは村の“食料”だ。払うべき税があるなら、干し肉にして明日渡す。今は、皆が食べる」

 男は笑った。笑いは、刃物が鞘から出る前に金属が擦れる音に似ている。

「誰に口を利いている?」

 槍の穂先がほんの少し、こちらへ傾く。

 村長が震える声で言った。

「カイ、やめなさい。彼らは――」

「大丈夫」

 俺は鍋の蓋を開け、柄杓でスープをすくい、最前の男へ差し出した。

「飲んでみてくれ。長く旅をしている味だ。腹に入れれば、話も柔らかくなる」

 男は一瞬、訝しんだが、柄杓の縁に舌を近づけた。熱が驚きを誘い、次に味が舌を抱き込む。

 目が変わった。

 彼は無言で三口ほど飲み、柄杓を返した。

「……明日だ。干し肉で払え。量は、鍋一つ分。遅れたら、倍にする」

 踵を返し、仲間に合図をして馬の腹を蹴る。蹄の音は埃と共に去り、広場に溜まっていた息が一つに吐き出された。

 村長が肩を落とし、笑うのか泣くのか決めかねた顔で言う。

「命拾いした。スープで命拾いだ」

「スープは武器じゃないよ。……でも、人を殺す武器の前で、人を繋ぎ止めるために掲げてもいい」

 自分でも驚くほど、静かな声だった。


 その日の夕暮れ、鍋は空になり、子どもたちは久しぶりに走った。男たちは森で手際よく枝を組んで乾燥棚を作り、女たちは肉と草を紐で結んで吊るした。

 俺は火の番をしながら、空の色が藍に変わっていくのを見た。

 遠い王都で「無用」と断じられた手が、ここでは柄杓を握っている。柄杓の重みは、仕事の重みだった。言い訳も、証明も、ここではいらない。うまいか、まずいか。元気になるか、ならないか。それだけだ。


 夜、共同小屋で横になる前に、村長が干し草の匂いを連れて訪ねてきた。

「明日、村の端の空き家を掃除しよう。そこをおまえさんの店にしたらいい」

「店?」

「名前も要るな。看板も。村の外からも人が来る。……そうでなきゃ、税を払えない」

 俺は笑った。

「看板、か。じゃあ――《辺境食堂》でどうだろう。飾り気はないけれど、迷いようがない」

 村長は満足げに頷いた。

「いい名だ。迷子を呼び止める名だ」

 扉が閉まる。小屋の中は静かで、茅葺の隙間から星の光が針のように落ちていた。

 目を閉じる。明日の手順を頭の中で並べる。朝一番に湯を沸かし、昨日より薄く切った骨を焼いて香りを出し、コグサの茎は叩いて繊維を割り、ヤマニガは砕きすぎない。干し肉の仕上がりを見て、取り立てに来た連中には約束の量より少し多めに渡す。余裕を見せることが、次の余裕を呼ぶ。

 胸の奥で、再び小さな音が鳴る。調理と調合と交易。三つの歯車が、かちりとかみ合った音だ。

 眠りに落ちる直前、ふと、自分に言い聞かせる。

 ――料理一皿が、国を揺らす。

 大袈裟かもしれない。けれど、その大袈裟さを灯りにして、明日へ歩いてみよう。ここは王都ではない。**《辺境食堂》**の最初の夜だ。

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