第11話

『銀色の翼』が伝説のダンジョンを踏破し、聖剣を持ち帰ったというニュースは、瞬く間にドールンの街を駆け巡った。

そして、その偉業の影に、俺という一人の受付職員の存在があることも、まことしやかに囁かれていた。


「聞いたか? セレスティアたちがダンジョンをクリアできたの、キョウヘイさんのおかげらしいぞ」


「ああ。『仮受理』とかいう判子をポンと押してもらっただけで、あの難攻不落の試練が全部、ただの通路に変わったって話だ」


「なんだそりゃ……。もう魔法とか奇跡とか、そういうレベルじゃねえな」


ギルドの酒場では、毎日のようにそんな会話が交わされている。

その度に、俺への畏敬と、得体の知れないものを見るような視線が、カウンターに突き刺さる。

正直、居心地が悪いことこの上ない。


俺はただ、資格要件に若干の不備があった申請に対し、これまでのギルドへの貢献度を鑑みて、温情的な特例措置を適用したに過ぎないのだ。

役所の窓口だって、杓子定規な対応ばかりではない。時には、住民の事情を汲んで、柔軟な対応をすることもある。

それと同じことだ。


「キョウヘイさん、おはようございます!」


元気なリナの声が、俺を現実へと引き戻す。

彼女の俺を見る目も、最近は尊敬を通り越して、信仰に近い何かを感じる。

少し、いや、かなりやりにくい。


「おはよう、リナさん。今日も一日、定時退勤を目指して頑張ろう」


「はい! キョウヘイさんと一緒なら、どんな困難な業務も乗り越えられます!」


なぜか、俺の目標が全職員の目標みたいになっているが、まあいいだろう。

業務が効率化されるのは、良いことだ。


その日の午前中は、比較的穏やかに過ぎていった。

俺の噂が広まったせいか、無茶な依頼や不備のある申請書を持ち込む冒険者が、明らかに減っていた。

彼らは、カウンターに来る前に、仲間同士で書類を入念にチェックし合うようになっている。

素晴らしいことだ。自主的なコンプライアンス意識の高まりは、組織全体の質の向上に繋がる。


俺は完璧に処理された書類の山を前に、静かな満足感を覚えていた。

この調子なら、今日は定時より少し早く帰れるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いていた、昼下がりのことだった。


ギルドの扉が、静かに開いた。

入ってきたのは、これまでの冒険者たちとは、明らかに雰囲気の違う一行だった。

先頭に立つのは、恰幅のいい、いかにも裕福そうな初老の男。

その身にまとった衣服は、上質な絹でできており、指にはこれ見よがしに宝石のついた指輪がいくつも輝いている。

その後ろには、屈強な傭兵らしき護衛が二人と、秘書のような若い男が控えていた。


ギルド内のざわめきが、ぴたりと止まる。

誰もが、その場違いな一行を、好奇の目で見ていた。

初老の男は、そんな視線など意にも介さず、まっすぐに俺のいるカウンターへと歩み寄ってきた。


「あなたが、キョウヘイ殿ですな?」


その口調は丁寧だが、商人特有の、相手を値踏みするような響きがあった。


「はい、私がキョウヘイですが。どのようなご用件でしょうか」


俺は、いつも通り事務的に応じた。

男は、満足そうに頷くと、芝居がかった口調で話し始めた。


「わたくしは、王都で商会を営んでおります、バルトと申します。以後、お見知りおきを。本日は、キョウヘイ殿の素晴らしいご評判を耳にし、是非ともお力添えをいただきたく、馳せ参じた次第にございます」


また、このパターンか。

俺は内心でため息をついた。

どうやら、俺の噂は、ついに辺境の街を越えて、王都にまで届いてしまったらしい。

面倒なことになる予感しかしない。


「ご用件は、手短にお願いします。見ての通り、業務が立て込んでおりますので」


俺がそう言って、デスクの上の書類の山を示すと、商人のバルトはにこりと笑った。


「これは失礼いたしました。では、単刀直入に申し上げましょう。実は、わたくしどもが所有する鉱山の件で、少々厄介な問題が持ち上がりましてな」


バルトが語り始めた内容は、こうだった。

彼の商会は、最近、ドールンから少し離れた山脈地帯にある、古い鉄鉱山の権利を買い取ったらしい。

その鉱山は、かつては良質な鉄鉱石を産出していたが、三十年ほど前に原因不明の落盤事故が起きて以来、閉鎖されていたという。


「わたくしどもは、最新の技術を投入して、その鉱山を再開発する計画でした。埋蔵量は、まだまだ豊富にあるはず。成功すれば、莫大な利益が見込める……はずだったのです」


バルトは、そこで一度言葉を切り、悔しそうに顔を歪めた。


「しかし、いざ開発を始めようと作業員を派遣したところ、誰も彼もが、原因不明の病にかかってしまったのです。高熱にうなされ、体は衰弱し、中には幻覚を見る者まで……。今では、あの鉱山は『呪われた鉱山』と呼ばれ、誰も近づこうとしません」


なるほど。これもまた、呪いの類か。

しかし、今回の対象は人ではなく、土地や建物、ということになる。

これは、俺の専門分野からすると、少々複雑な案件だ。


俺が腕を組んで黙っていると、バルトは勘違いしたのか、慌てて懐から小さな革袋を取り出した。


「もちろん、ただでとは申しません。こちら、手付金として金貨百枚。もし、この問題を解決していただけた暁には、さらに千枚! いや、二千枚でもお支払いいたしますぞ!」


革袋が、ずしりと重い音を立ててカウンターに置かれる。

ギルド内が、どよめきに包まれた。

金貨百枚といえば、Cランク冒険者の数ヶ月分の稼ぎに相当する。

それが、ただの手付金だというのだから、驚くのも無理はない。


しかし、俺は、その金貨の袋にちらりとも視線を向けなかった。


「申し訳ありませんが、当ギルドでは、そのような不透明な金銭の授受は、一切認めておりません」


「……は?」


バルトは、何を言われたのか分からない、という顔で固まった。


「依頼には、その難易度に応じた、正規の報酬が設定されております。成功報酬という形での、事後的な金額の上乗せや、手付金といった名目での前払いは、癒着や不正の温床となりかねません。全ては、規定の手数料と報酬体系に則って、処理されるべきです」


俺の完璧な役人答弁に、バルトは呆気に取られている。

後ろに控えていた秘書の男が、慌てて耳打ちした。


「だ、旦那様……。どうやらこの方は、金銭では動かないようです……」


「馬鹿な……この世に、金で動かぬ人間など……」


バルトが、信じられないといった表情で俺を見つめている。

その時だった。

今までギルドの隅で、石像のように固まっていた騎士アランが、おもむろに立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。

その顔には、以前のような憔悴の色はなく、代わりに何かを悟ったかのような、奇妙な静けさが漂っていた。


「……やめておけ、商人。その方は、我々と同じ世界の理で動いてはいない」


アランは、静かにそう言った。

その目は、俺をまっすぐに見ていたが、そこにはもはや恐怖や混乱の色はなく、ただ純粋な観測者としての、冷めた光だけがあった。


「アラン様……。あなた様は、王都の……」


バルトは、アランの顔に見覚えがあったらしい。

アランは、そんな彼を一瞥すると、再び俺に向き直った。


「キョウヘイ殿。この案件、あなたはどう処理なさるおつもりか」


その問いは、挑戦的でも、嘲笑的でもなかった。

ただ純粋に、これから目の前で起こるであろう「奇跡」あるいは「事務処理」を、しかと見届けようという、覚悟に満ちていた。


俺は、アランの態度の変化を少しだけ訝しく思ったが、すぐに思考を本題に戻した。


「そうですね。まず、事実関係の整理が必要です」


俺は、バルトに向き直った。


「バルト殿、あなたがお持ちの、その鉱山の権利書を拝見させていただけますか」


「け、権利書……? は、はい、こちらに……」


秘書の男が、慌てて革の鞄から、一枚の古い羊皮紙を取り出した。

俺はそれを受け取り、隅々まで入念にチェックしていく。


(ふむ。土地の所有権は、確かにバルト商会に移転している。登記手続きも、王国法務局の認可印があり、形式上は問題ない。だが……)


俺は、その権利書の、ある一点に気づいた。

羊皮紙の隅に、肉眼ではほとんど見えないほど微かに、しかし、確かに刻まれている、奇妙な紋様。

そして、古代の文字で書かれた、小さな小さな一文。


『この地の富は、山の主への捧げものとすべし。契約を破りし者には、災いがもたらされん』


「……なるほど。そういうことでしたか」


俺は、全てを理解した。


「バルト殿。この土地の所有権は、あなたにある。それは間違いありません。しかし、その土地における『鉱物資源の採掘権』は、あなたにはない」


「な……!? そ、そんな馬鹿な! 土地の所有権があれば、そこから産出されるものも、当然、所有者のものになるはずでは……!」


「一般的には、そうですね。しかし、この土地には、通常の所有権よりも優先される、『古代の契約』が付帯しているようです」


俺は、権利書の隅の紋様を指差した。


「これは、おそらく数百年以上前に、この土地の最初の所有者と、この土地に元々存在していた、何らかの知的生命体……おそらくは、精霊か、あるいは土地神のようなものとの間で交わされた、一種の地役権設定契約でしょう」


俺の口からスラスラと出てくる専門用語に、その場にいた全員が、完全に思考を停止させていた。

秘書の男が、小声でバルトに尋ねる。


「だ、旦那様……。ちえきけん、とは……?」


「わ、わしに聞くな……!」


俺は、そんな彼らを意にも介さず、話を続けた。


「つまり、この土地の所有権と、そこから産出される資源の利用権は、分離されているのです。あなたは、土地を所有してはいるが、そこの資源を採掘する権利はない。にもかかわらず、あなた方は採掘を強行しようとした。これは、明白な契約違反です。鉱山で起きている一連の災厄は、その契約違反に対する、正当なペナルティ、つまり違約金のようなものでしょう」


俺の完璧な法的解釈に、誰も反論することができない。

バルトは、顔面蒼白で、わなわなと震えている。


「そ、そんな……。そんな契約、わたくしは聞いていない! これは詐欺だ! 前の所有者を訴えてやる!」


「無駄でしょうね。おそらく、前の所有者も、その前の所有者も、この契約の存在には気づいていなかった。ただ、『祟られた土地』として、塩漬けにしていただけでしょう。契約書そのものである、この権利書に、これだけ巧妙に隠されているのですから」


絶望に打ちひしがれるバルト。

その時、アランが静かに口を開いた。


「……キョウヘイ殿。ならば、どうすればいい。その『古代の契約』とやらを、破棄することは可能なのか?」


「もちろん、可能です」


俺は、間髪入れずに答えた。


「どんな契約も、それが不当なものであれば、無効を主張することができます。今回のケースは、契約の存在が、現在の所有者に適切に告知されていない。これは、消費者保護の観点から、著しく公平性を欠く、『瑕疵ある契約』と言えます」


俺は、権利書をカウンターに置くと、一枚の新しい紙を取り出し、ペンを走らせた。


【土地付帯権利に関する、契約内容の無効確認申請書】


「この契約は、その締結プロセスに重大な問題があった。よって、契約そのものが、最初から成立していなかったと見なすべきです。つまり……」


俺は、インク壺に親指を浸すと、書き上げたばかりの申請書に、力強くそれを押し付けた。


「この不当な契約は、ギルドの名において、その存在自体を『却下』します」


俺の宣言が、ギルドに響き渡った。


その瞬間、遠く離れた山脈の一角。

『呪われた鉱山』の入り口を覆っていた、不気味でよどんだ空気が、まるで朝霧が晴れるかのように、すうっと消え失せた。

洞窟の奥深くで、何百年もの間、輝き続けていた古代の契約紋様が、光の粒子となって、静かに霧散した。

鉱山に満ちていた、人々を蝕む呪いの力は、その源流を断たれ、完全に無力化されたのだ。


ギルドの中では、バルトが持っていた鉱山の権利書から、あの微細な紋様と古代文字が、まるでインクが蒸発するかのように、綺麗さっぱりと消え失せていた。


「……おお……! 権利書の、呪いの紋様が……!」


秘書の男が、驚愕の声を上げる。

バルトは、腰を抜かしたのか、その場にへたり込んでしまっていた。

アランは、その一部始終を、静かに、ただ静かに見つめていた。

もはや、彼の表情からは、何の感情も読み取ることはできなかった。


「よし。これで、問題の根源は取り除かれました。鉱山の採掘権は、正式にバルト商会のものとなります。おめでとうございます」


俺は、事務的にそう告げた。

そして、壁の時計に目をやる。

時刻は、午後四時五十五分。

完璧だ。


「それでは、本日の業務はこれにて終了です。報酬は、規定通り、Bランク相当の調査依頼として、後日ギルドに納入してください。失礼します」


俺は、呆然と立ち尽くす人々を尻目に、さっさとカウンターを出て、帰路についた。

残されたギルドでは、商人バルトが、俺の去っていった扉に向かって、何度も何度も、土下座するように頭を下げ続けていたという。

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