9話:ごめんね、なんて、まだ素直に言えないけど。


 木の幹に背中を預け、ふたり、無言のまましゃがみ込む。

 密着する体温と、肩越しに感じる息遣い。

 あれだけ言い合ったのに、今はそれしかなかった。



 ポンチョの上から容赦なく降る雨が、ぱしぱしと音を立てている。

 しばらく沈黙が続いたあと、菜摘がぽつりと呟いた。


「……本当に、仲悪くなるかと思った」

「……仲良かったの?」

 自分でも、少しだけ意地悪な言い方だと思った。


 でも菜摘は、ふっと笑った。

「そっか。じゃあ今から、ちょっと仲良くなる?」

 何気ない言葉だったのに、なぜか涙が出そうになった。

 寒さのせいにして、私は小さく咳払いをした。


「……くっつくな、濡れる」

「もう濡れてるし」

 菜摘が笑って、さらに体を寄せてくる。


 ポンチョの中、肩と肩、腕と腕がぴったりとくっついていた。

 そのぬくもりは、本当にわずかだけど、でも確かにあった。


 私たちは、雨の音に包まれながら、しばらくそのまま、何も言わずに過ごした。

 まるで、何かが少しだけほぐれていくように。

 まるで、もう一度「ふたりで登る」って、言い直すみたいに。



 しばらくして、雨脚がすこしだけ緩んだ。


 ポンチョに当たる水音が、耳にやさしくなっていく。

 空気も、さっきよりいくぶん軽い。


 菜摘が静かに立ち上がった。

 私も、それにつられるようにゆっくり腰を上げる。


「……行こっか。たぶん、さっきの分岐まで戻れば、看板あったよ」

 泥だらけのズボンを手で軽く払ってから、菜摘が前を向く。

 言い争っていたときと同じ声なのに、不思議と、もう責める響きはなかった。


「……うん」

 私は小さく返事をして、歩き出す。


 ぐしゃり、と足元が水を吸う音。

 雨が土を打つ音。

 その隙間に、菜摘の足音がかすかに混ざっている。



 ふたりとも、もうあまり喋らなかった。

 でも、それが妙に心地よかった。


 道はぬかるんでいたし、雨で靴の中までびしょ濡れだったけれど――

 言いようのない静けさが、私たちの間をやさしく満たしていた。



 やがて、さっき見た分岐が見えてきた。

 見慣れた看板の文字が、雨に滲んで読みにくい。


「……ここだったね」

 菜摘がぽつりと言った。


 私は無言で頷いて、看板の矢印を確認した。

「登山口→」の文字。


 この先が、スタート地点へ戻る道。

 そして今、私たちは――



 戻っている。

 それだけのことなのに、妙に重たかった足が、少しだけ軽くなったように感じた。

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