4話:私の心の天気予報、万年曇りのち時々雨。


 放課後。校舎裏、あの貼り紙の前。

 今日も、ここは静かだった。

 人気のない廊下の隅、風化して黄色く染まった「新入部員募集中」の文字が、風に揺れてかすかに音を立てている。

 その前で、私はひとり突っ立っていた。


 ――顧問、どうしよう。



 昼休み、担任にそれとなく聞いてみたが、生徒指導と進路指導で手が回らないと、やんわり断られた。その事実だけが、ずしりと重く肩にのしかかる。

 勢いで「やる」なんて言ったものの、この最初のハードルすら越えられないのかもしれない。

 そんな弱音が頭をもたげ始めた、その時だった。


「秋穂ーっ!」


 大きな声とともに、階段の向こうから全く迷いのない足取りがやってきた。

 手を振りながら近づいてくる、人懐っこい顔。菜摘だ。

 彼女は私の顔を見るなり、開口一番、笑顔で言った。

「で、担任の先生、どーだった?」


「……だめだった。他のことで忙しいって」

「そっかー」

 菜摘はあっけらかんと言い、壁にもたれる。

 その反応の軽さに、私の不安が馬鹿みたいに思えてくる。


「じゃ、次いこ、次!」

 彼女はそう言うと、私の腕をぐいっと掴んだ。

「え、ちょっ、どこに」

「職員室!悩んでる暇ないって。善は急げ!」


 有無を言わさず、菜摘は歩き出す。私はその勢いに引きずられるしかなかった。

 廊下を歩きながら、私は慌てて声を上げる。


「待って、誰にお願いするか決めてない!」

「歩きながら考えればいいじゃん! 体育の先生とか? ほら、鬼塚先生とか」

「ぜったい無理! あの人、昼休みにバスケ部の一年怒鳴ってた。怖い」

「あー、確かに。じゃあ、地理の西田先生は? なんか、ヒゲが登山家っぽいし」


 その雑すぎる理由に、もはや突っ込む気力も起きない。

 でも、こうして私の手を引いて、強引にでも前に進ませてくれる菜摘の存在が、今は不思議と頼もしかった。

 私一人なら、きっと「明日でいいや」と先延ばしにして、結局何もできなかっただろう。


「……西田先生なら、たぶん話くらいは聞いてくれる、かも」

「でしょ!? よし、決まり!」



 話しているうちに、私たちはもう職員室の前にたどり着いていた。

 何度来ても、この空間には独特の圧がある。

 静かだけど騒がしい。落ち着いてるけど落ち着かない。

 私にとって職員室とは、「呼び出される場所」であって、「自分から入る場所」じゃない。


 案の定、足が止まった。


「……ほんとに、ここ入るの?」

 気づけば声に出していた。


「え、何その顔。今さら帰る気?」

 菜摘は笑っていた。

 片手でノックの準備すらしている。

 逃げ道なんて初めから存在しないらしい。


「いや、そうじゃなくて……」

「大丈夫だって。ダメでもともと。でしょ?」

 その一言が、妙に胸に刺さる。


「……うん」


 納得してないけど、反論できなかった。

 私は、菜摘のノック音に引っ張られるように、無理やり職員室の扉をくぐった。


 空気が一変する。

 コーヒーとチョークの混ざった匂い。重く積まれた書類の山。

 大人たちの世界――そんな感じがした。


「あの、西田先生って……」

「あ、あそこ。地図広げて独りごとブツブツ言ってる人」

 本当にブツブツ言ってた。


 菜摘がずんずん歩いていく。

 私はその背中を追うだけで精一杯だった。

「すみませーん、西田先生。あの、ちょっとだけお時間いいですか?」


「……ん?」


 西田先生は、地図から顔を上げると、私たちを見た。

 無精ひげにメガネ、チェック柄のシャツ。やたらリアルな“山の人”感があった。


「えっと……その、お願いがあって……」

 声が小さくなっていく私の代わりに、菜摘が一歩踏み出す。


「私たち、山岳部を復活させようと思ってるんです。で、顧問の先生を探してて……西田先生に、お願いできたらって」

 まっすぐな視線。まっすぐな言葉。

 隣で聞いててこっちが恥ずかしくなるくらい、真正面の勝負だった。


 沈黙。

 西田先生は、腕を組んだまま、こちらをじっと見ていた。


「……山、好きなの?」

 その問いに、ふたりして一瞬止まる。


 菜摘が口を開こうとしたのを、なぜか私が制した。

 ここで菜摘に「大好きです!」なんて言ってほしくなかった。

 私たちの始まりは、嘘であってはいけない。なぜか、そんな衝動に駆られた。


「……正直、全然。登ったことも、興味も、なかった。でも……」

 言いながら、自分でも驚いた。

 出てきた言葉が、嘘じゃなかった。


「でも、今はちょっとだけ――登ってみたいと思ってます」

 西田先生は、しばらく私を見つめていた。

 まるで、目の前の私を通して、どこか遠い昔の誰かを見ているような、そんな目だった。

 そして、ふっと面白そうに笑った。


「……じゃあ、いいよ。顧問、やってやる」

 西田先生のその言葉に、私も菜摘も一瞬きょとんとした。


 あっさりすぎる。拍子抜けするくらい。

 けれど、すぐにその後が続いた。


「ただし、条件がひとつある」

 来た。こういうの、ドラマとかでよく見るやつ。


「君たちふたりで、裏山を登ってこい。途中で引き返さず、ちゃんと頂上までな。今の時期なら二時間もあれば登れる」


「……裏山?」

 菜摘が首をかしげる。私は喉が一瞬で乾いた。


「そう、学校の裏。登山道はある。道に迷うことはないよ。あの山を登れるくらいの気持ちがなければ、山岳部なんてやる資格なし。違うか?」

 正論すぎて、反論の余地がない。

 けれど、別の問題があった。


「……でも、今日って金曜で。入部届の〆切、今週中ですよね?」

 私が恐る恐る訊ねると、西田先生は、ああ、という顔で腕時計を見た。


「まあ、週明けに処理するだろうし、月曜の朝一で出すってことにしとけば問題ないさ。書類上の話は、俺がなんとかしてやる。……その代わり」

 ここで一呼吸。


「雨でも、登ってこいよ」

 目の奥が笑ってなかった。


「えっ」

 菜摘が小さく声を漏らす。

 私の頭の中にも、音を立てて現実が落ちてくる。


 今週末の天気予報――たしか、土日とも雨だった。


「マジで……」

 菜摘が苦笑いのような表情を浮かべる。

 私にいたっては、完全に言葉を失っていた。


 西田先生はおかまいなしに続ける。

「山ってのはな、晴れてる日ばかりじゃない。むしろ、しんどいのは悪天候のときだ。そのへんの運動部と違って、山岳部は遊びで済まされない。命かかってるからな」

 妙にリアルな響きがあった。

 この人、本当に登ってきた人だ。


「まあ、無理ならやめとけ。誰も強制しないよ。そういうもんだ」

 そう言って、もう一度私たちを見た。

 まるで「本気かどうか」を測るような目だった。



 職員室を出たあと、菜摘が「あっはは……やること、増えちゃったね」と笑った。

 明らかに焦っていたが、それでも「やろう」という前提でいる。


 私はと言えば、思考が止まっていた。

 雨の中、山に登る自分の姿を想像して、ただ無言になっていた。


 でも。

 それでも、ここで「やっぱ無理」とは言いたくなかった。

 言ってしまったら、たぶんこの話は本当に終わる。

 そしてきっと私は、また何もやらなかった自分に戻る。


 ……登るしか、ないか。

 たった二人で。

 雨の中。

 この、妙な勢いだけで始まった部活の、最初の活動として。



 こうして、山岳部結成の条件は、

「雨の週末・裏山登頂」という、なかなかにバカみたいなミッションへと姿を変えた。

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