第7話

暗闇の茂みから現れたのは、一匹の黒い狼だった。俺が今まで森で見てきた狼よりも、一回りも二回りも大きい。その全身からは不気味なオーラのようなものが立ち上り、爛々と輝く二つの赤い瞳が、俺たちを獲物として捉えていた。


「……っ!」


カイとミナが、息を飲むのが分かった。俺は二人を背中にかばい、手斧を強く握りしめる。こいつは、ただの狼じゃない。魔物だ。


「ケン……あれ、だめ。こわい匂いがする」


ミナが震える声で俺の服の裾を掴む。彼女の優れた嗅覚が、目の前の魔物が放つ危険な気配を敏感に感じ取っているのだろう。


俺は冷静に相手を観察する。距離は約十メートル。いつでも飛びかかってこれる間合いだ。ランタンの明かりに照らされたその姿は、筋肉質で、鋭い牙と爪が鈍く光っている。


(勝てない……)


直感的にそう思った。手斧一本で立ち向かっても、返り討ちに遭うのが関の山だ。だが、ここで逃げても追いつかれるだけ。何か、何か方法はないか。


俺は必死に頭を働かせる。俺の武器は、戦闘能力じゃない。知識と、この二人の力だ。


「カイ、ミナ。よく聞いてくれ。俺が合図をしたら、二人で一緒に、あいつに向かって石を投げるんだ。狙いは、目だ。当たらなくてもいい。とにかく、あいつの注意をこっちに引きつけるんだ」


「う、うん……」


「わかった……!」


俺の真剣な声に、二人も覚悟を決めたようだ。それぞれ、足元に転がっていた手頃な大きさの石を拾い上げる。


「いいか、俺が合図するまで、絶対に投げるなよ」


俺はそう言うと、ゆっくりとバックパックを地面に下ろした。そして、中から一本のロープを取り出す。キャンプで使う、ごく普通の麻のロープだ。


魔物の狼は、俺たちの動きを警戒しているのか、すぐには飛びかかってこない。低い唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。


俺はロープの端に、簡単な輪っかを作った。投げ縄だ。西部劇で見るような、本格的なものじゃない。だが、これで十分だ。


「ケン、来るよ!」


カイの鋭い声が響く。狼が、地面を蹴った。凄まじい速さで、一直線にこちらへ突進してくる。


「今だ!投げろ!」


俺の合図と同時に、カイとミナが力一杯、石を投げつけた。子供の力だ。石は狼まで届かなかったが、その注意を引くには十分だった。


狼は一瞬だけ、飛んできた石の方へ視線を向ける。その、ほんの一瞬の隙。俺は見逃さなかった。


俺は狼の頭上を狙い、ロープの輪を投げた。輪は、俺がイメージした通りの軌道を描き、狼の首に、見事にかかった。


「グルアア!?」


狼は驚いて、急ブレーキをかける。俺はすかさずロープのもう一方の端を、近くにあった大木に素早く巻き付けた。これも、キャンプで覚えたもやい結びだ。これなら、そう簡単には解けない。


首輪をつけられた狼は、パニックに陥っていた。ロープを引きちぎろうと、めちゃくちゃに暴れ回る。大木が、ミシミシと嫌な音を立てた。


「まずい、このままじゃ木が折られるか、ロープが切れるかだ……!」


時間稼ぎはできた。だが、これだけでは倒せない。何か、とどめを刺す方法はないか。


俺は周囲を見渡し、一つの可能性に思い至った。この辺りは、地面がぬかるんでいる。そして、俺たちのすぐ隣には、切り立った崖があった。


「二人とも、こっちだ!急げ!」


俺はカイとミナの手を引き、崖の方へと走った。狼は、俺たちを追いかけようとするが、ロープが邪魔で身動きが取れない。


俺たちは崖の縁に立つ。下は、それほど深くはないが、泥が溜まった沼地のようになっている。


「カイ、ミナ。今度は、あの狼の足元にある地面に、石を投げるんだ。できるだけ、たくさん」


「うん!」


状況は分からないだろうが、二人は俺の指示に素直に従ってくれた。俺も加わり、三人で狼の足元めがけて、必死に石を投げ続ける。


石が何度も叩きつけられたことで、ぬかるんでいた地面が、さらに緩くなっていく。そして、狼が暴れたことで、その緩みはさらに大きくなった。


やがて、狼の足元の地面が、限界を迎えた。


ガラガラという音と共に、狼が立っていた地面が、崖下へと崩落していく。


「グルオオオオオオッ!」


狼は最後の悲鳴を上げ、ロープに繋がれたまま、崖下の泥沼へと飲み込まれていった。しばらく、もがくような音が聞こえていたが、それもやがて聞こえなくなった。


静寂が、森に戻ってきた。


俺たちは、しばらくの間、呆然と崖下を見下ろしていた。


「……終わった、のか?」


「うん……静かになった」


俺は、その場にへなへなと座り込んだ。心臓が、まだバクバクと音を立てている。


「やったな、二人とも。俺たちの勝ちだ」


俺がそう言うと、カイとミナは顔を見合わせ、そして、わっと泣き出した。


「うわあああん!怖かったよお!」


「ケン、死んじゃうかと思った……!」


無理もない。あんな恐ろしい体験をしたんだ。俺だって、泣きたいくらいだった。


俺は二人の小さな体を、力一杯抱きしめた。


「よく頑張った。本当に、よくやった。お前たちのおかげで、助かったんだ。ありがとう」


俺の腕の中で、二人はしばらく泣きじゃくっていた。俺は、その背中を優しくさすり続ける。


ようやく二人が泣き止んだ頃には、月が空高く昇っていた。


「さあ、帰ろう。街に帰って、温かいスープでも飲もう」


俺の言葉に、二人はこくりと頷いた。


俺たちは慎重に崖を下り、狼が落ちた場所を確認した。狼は、完全に泥の中に沈んでしまったようだ。危険はもうないだろう。


俺たちは、採集した月光草の入った袋をしっかりと抱え、シダーブルクへの帰路についた。ランタンの明かりが、俺たちの足元を頼りなく照らしている。


行きよりも、帰り道の方が、ずっと足取りは軽かった。三人で力を合わせ、困難を乗り越えた。その事実が、俺たちに大きな自信を与えてくれていた。


街の門が見えてきた時、俺たちは心からほっとした。門番に挨拶をし、宿屋『木漏れ日亭』へと向かう。


「おお、おかえり!無事だったか!」


ゴードンさんが、心配そうな顔で俺たちを出迎えてくれた。


「ええ、なんとか。依頼も、無事に達成できました」


「そうか、そりゃあ良かった!サラミのスープを作っておいたぞ。冷えた体を温めな」


マーサさんが、温かいスープを三人分、用意してくれた。その優しさが、心に染みる。


俺たちは、夢中でスープを飲んだ。生きている。その実感が、じわじわと体中に広がっていった。


その夜、俺たちは三人で一つのベッドに川の字になって眠った。カイもミナも、俺の腕にしがみついて、離れようとしなかった。


俺も、この温かいぬくもりを、手放したくないと強く思った。


翌朝、俺たちは冒険者ギルドへと向かった。依頼達成の報告をするためだ。


ギルドに入ると、昨日とは少しだけ雰囲気が違うことに気づいた。俺たちを見る冒険者たちの目に、好奇心だけでなく、わずかな驚きと、そして賞賛のような色が混じっている気がする。


どうやら、俺たちが魔物の狼を退けたという話が、どこからか伝わっているらしい。


俺たちは受付カウンターへ行き、サラさんに依頼達成を報告した。


「ケンさん!ご無事でしたか!良かった……!」


サラさんは、心から安堵したような表情を浮かべた。


「昨夜、冒険者の一人が、森で黒い狼の魔物に襲われたと、血相を変えて逃げ帰ってきたんです。もしかしたら、あなたたちも……と、心配していました」


「ええ、多分そいつです。なんとか、撃退できました」


俺が何気なくそう言うと、サラさんは信じられないといった顔で、目を丸くした。


「げ、撃退!?あの、Cランク相当の魔物、ナイトウルフを、ですか!?」


「ナイトウルフ……っていう名前なんですか、あいつ」


「は、はい……。Gランクの、それも登録したばかりのパーティが、単独で撃退するなど、前代未聞です……!」


サラさんは、興奮した様子で早口に言った。周囲の冒険者たちも、聞き耳を立てている。


「いや、倒したわけじゃないんです。崖から落として、泥沼に沈めただけで……」


「それでも、すごいです!ケンさん、あなた、本当に戦闘は素人なのですか?」


「ええ、まあ……。運が良かっただけですよ」


俺がそう言って頭をかくと、サラさんは何かを納得したように、深く頷いた。


「なるほど……。それも、実力のうち、ということですね」


よく分からないが、そういうことにしておこう。


俺はサラさんに、採集した月光草を渡した。彼女はそれを鑑定し、依頼達成を確認すると、報酬の銀貨五枚をカウンターに置いてくれた。


「こちらが報酬になります。それから、ギルドからの特別報酬として、ナイトウルフの撃退ボーナスも加算させていただきます」


そう言って、サラさんはさらに銀貨十枚を追加した。


「え、こんなに!?」


「当然です。本来であれば、討伐依頼として、さらに高額な報酬が支払われる案件ですから。これは、ギルドマスターからの、ささやかな心ばかりです」


思わぬ大金に、俺は戸惑ってしまった。銀貨十五枚。これだけあれば、当面の生活には困らないだろう。


俺が報酬を受け取ると、周りの冒険者たちから、拍手が沸き起こった。


「すげえじゃねえか、兄ちゃん!」


「やるな、新人!」


昨日俺たちを馬鹿にしてきた、あの三人組の姿はなかった。


食堂で会った、ドルガンさんとエリアナさんが、こちらにやってきて、俺の肩を力強く叩いた。


「ガハハ!やるじゃねえか、ケン!俺が見込んだ通りだ!」


「本当に、すごいのね。あなた、何者なの?」


二人の賞賛に、俺は照れるしかなかった。


こうして、俺たちの最初の仕事は、予想以上の成果を上げて幕を閉じた。


冒険者ケン。


その名前は、この日を境に、シダーブルクのギルドで、少しだけ特別な意味を持つようになったのかもしれない。

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