嘘の告白と支配の計算
舞夢宜人
第1話 夕日に差す教室の悪意
放課後の喧騒が、緩やかに死んでいく時間だった。オレンジ色に染まった光が埃を金色に照らし出し、教室の空気を現実から少しだけ浮遊させている。僕は、読み終えた文庫本を静かに閉じ、窓の外に広がる茜色の空を無感動に眺めていた。生徒たちのほとんどは既に帰宅の途についており、残っているのは部活動へ向かう前の僅かな生徒たちと、そして教室の隅で不快な音量で会話に興じる男女のグループだけだ。彼らはいわゆるクラスの陽キャと呼ばれる存在で、僕、氷室怜司とは決して交わることのない世界の住人である。
僕は彼らの存在を意識の外に追いやり、再び思考の海に沈もうとした。しかし、その静寂を切り裂くように、聞き慣れた、そして僕が密かに観察対象としていた名前が彼らの会話に上ったことで、僕の意識は強制的に現実へと引き戻される。
「で、罰ゲーム、マジで白峰にやらせんの?」
男子生徒の一人が、下卑た笑みを隠そうともせずに言った。その視線の先にいるのは、白峰紗雪。クラスの誰とも深く関わろうとせず、それでいて誰もがその存在を認めざるを得ない、孤高のアイドル。彼女は、まるで精巧なガラス細工のように儚げな美しさを持ちながら、その周囲には常に見えない壁が存在していた。長い栗色の髪は、夕日を浴びて蜂蜜のような光沢を放っている。しかし、その表情は硬く、彼女の大きな瞳は不安げに揺れながら、長いまつ毛に縁どられて床の一点を見つめていた。
「当たり前じゃん。あいつ、いっつも澄ましてるからムカつくんだよね。一回くらい、ああいう顔、させてみたくない?」
グループの中心にいる女子生徒が、勝ち誇ったように言った。彼女たちの間で交わされる視線には、純粋な悪意と、自分たちの力が及ばない存在への嫉妬が渦巻いている。白峰紗雪は、何も言えずにただ俯いている。その姿は、まるで檻に囚われた美しい鳥のようだった。彼女の雪のように白い肌が、屈辱と羞恥によってほんのりと赤く染まっているのを、僕は見逃さなかった。
そして、僕は彼らが練り上げた計画の全容を、その後の会話から正確に把握した。罰ゲームの内容は、白峰紗雪がターゲットの男子生徒に嘘の告白をするという、陳腐で、しかし残酷なもの。そして、そのターゲットとして選ばれたのが、この僕、氷室怜司だった。理由は単純明快だ。クラスで最も地味で、誰とでも距離を置き、白峰紗雪とは正反対の世界にいる僕に告白させることで、彼女のプライドを最大限に傷つけようという魂胆なのだろう。僕がその告白を断れば彼女は笑いものになり、もし受け入れれば、その滑稽な状況そのものが彼らの娯楽となる。どちらに転んでも、彼らにとっては都合の良い結末が待っている。
なるほど、と僕は内心で呟いた。彼らの思考は浅く、そして予測通りだ。普通の生徒であれば、この状況に憤慨するか、あるいは困惑するだろう。しかし、僕の心にあったのは、そのようなありふれた感情ではなかった。僕の地味な黒縁の眼鏡の奥で、光を一切反射しない青みがかった黒の瞳が、静かに獲物を見定めていた。それは、冷徹な計算の始まりであり、同時に僕の乾いた心を満たす、強烈な高揚感の兆しでもあった。
白峰紗雪。彼女が抱える孤独の本質を、僕はとうの昔に見抜いていた。彼女は常に他人の評価を恐れ、完璧な自分を演じ続けることで、かろうじて精神の均衡を保っている。その心の鎧は、硬質で、しかし脆い。たった一つの的確な言葉で、いとも簡単に砕け散るだろう。そして、この罰ゲームは、その鎧に最初の亀裂を入れるための、まさに天啓とも言うべき絶好の機会だった。彼らが僕に与えたのは、屈辱ではない。それは、僕が描く完璧な支配の脚本における、最高のオープニングだ。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼らの会話が終わるのを待った。やがて、言い渡された役割を拒否できずに受け入れた白峰紗雪が、重い足取りでグループから離れ、自分の席に戻ろうとする。その震える肩、俯いた顔、固く握りしめられた白い指先。そのすべてが、僕の支配欲を的確に刺激する。
彼女が僕の席の横を通り過ぎようとした、その瞬間。僕はごく自然な動作で、持っていた文庫本から一枚のページを破り取り、そこに素早く一言だけ書きつけて、彼女の机の上に滑らせた。彼女は驚いて足を止め、訝しげな視線を僕に向ける。僕は何も言わず、ただ無表情に彼女を見つめ返すだけだ。僕の瞳には、感情の起伏など一切映らない。それはまるで、対象を分析する高性能なカメラのレンズのように、ただ彼女の反応を観察していた。
彼女はしばらく逡巡した後、恐る恐るその小さな紙片を手に取った。そこには、僕の無機質な筆跡で、こう書かれていた。
『放課後、屋上で待っています』
白峰紗雪の大きな瞳が、驚きに見開かれる。その潤んだ瞳に映る僕の姿を、僕はただ静かに、そして満足げに見つめていた。夕日が教室に長い影を落とし、まるでこれから始まる舞台の幕開けを告げているかのようだった。僕の計画は、今、静かに始まったのだ。
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