第17話 無題
彼女が反応した時、俺はおろか黒き馬ですら四本脚全てが跳ね跳んだ。
「わっ!どうしたのカラケライ?」
彼女が一歩進む度に馬は一歩引き下がる。馬は耳をくるくると回し、草食動物特有の広い視界をもって辺りを索敵した。
「何?誰もいないけど」
馬はバッと彼女を見て、ヒヒンと小さく嘶いた。理由は明白だった。うら美しき女性の口から黒騎士の声が聞こえるのだ。
俺はやっと理解できたが、乳離れした赤子程度の知能しかない馬は体躯を震わせ、怯えた目つきで彼女を見るしか他に術は無かった。
「カラケライが私を見て怯えている……あ」
”黒騎士“ロクサネは青銅製の首輪を着けていることに気付いた。着用者の声帯を変化するトンデモ道具に違いない。
首輪は銅色の素地の上に、数珠繋ぎの菱形模様が彫られ、黄色の宝石を初項に赤青緑の順に宝石が埋め込まれている。
「外すからちょっと待ってて」
カチリと首輪を外すと白磁のような白い肌にくっきりと赤い痕が見える。コホンと喉を鳴らして彼女は声を発した。
「ほらカラケライ。コレが本当の声よ」
ようやく彼女の声を聞けた事で、俺とカラケライは安堵した。その美しい声を形容するなら、絹の織布の肌触りが耳の奥で広がる感覚だ。
「見て分かるぐらい喜んでるわね。そんなに嬉しかったの?」
そうですと、カラケライは彼女の頬をピンクの舌で舐めた。このスケベな黒き馬は数時間前、対峙した俺を吹き飛ばしている。
汗で塩分を摂取しているのか、カラケライの舌は彼女の顔を舐め回している。
「良かった!うん分かった。もう分かったから舐めるな!」
一度の注意で馬は舌を引っ込んだ。顔が唾まみれになった彼女は臭くならないように川の水で洗い流した。
少量の水を口に含んだ後、青銅製の首輪を着けようとしたので、馬は抗議の表明として彼女のマントを噛んだ。
「コラっ!今回だけ特別だったのよ?カラケライ、普段はあの声よ」
赤紫のマントを馬の口から引き離すと、懇願する馬の注視を無視して首輪を着けた。位置の微調整を済ませ、甲冑と同じ黒の兜を被る。
そして彼女の声はつい先程、数百人の敵兵を薙ぎ払った黒騎士の名に相応しく、万人を恐怖せしめる声へと回帰した。
「どうだカラケライ。俺とお前だけの秘密だ」
馬は嘶く。愛しい声よさらば。
「戻ったら、目の前を流れている川を渡る。水はそれほど冷たくない。しばし辛抱だ。渡って日没前には帝国が支配する街に着く。街の名前は”トゥルネルゼン“だ。ケネー城から北西の位置にある」
(帝国?俺がいたヴァール傭兵団は帝国と戦っていたのか)
帝国。名前からして不穏だ。この国ではヴァツラフみたいに坊さんが戦っていたりするのだろうか。どんな人たちが、どんな暮らしをしているのだろう。食文化、地理、芸術、歴史———
(本当に何も知らないまま死んじゃった。もっと色々なことを知りたかったのに……)
♢♢♢♢♢
「何だ。身体が……動かない!?」
さっきまで自由に動かせた視点が、固定されるのと同時に視点が後ろへゆっくりと下がっていった。
そしてスピードが指数関数的に上昇し、あっという間に鳥を追い越した。
ケネー城はゆうに通過し、大小の都市や川を見かける。数分後には青い海が視界の全てを占有していた。
そして数時間後、陸に上陸したと思えば、砂浜、砂漠、峻険なる大山脈、雪原、サバンナを越えると、これまでの過酷な自然が嘘だと思えるほどに広大な草原が遥か地平線の彼方まで続いていた。
しばらくして草原の路は深い断崖によって遮られた。向こう側が見えないほど巨大な大穴だ。
近くを流れていた川も同様に切り立った崖から大きな
俺は感極まって頬に涙が溢れていたのを後々に気づいた。
だが数秒後、似たような景色——流れていた川が崖を降り立って虹を映し出すのを発見した。
人が近くに住んでいるなら、それは見慣れた……ウンザリする程に見飽きた景色として日常の一部と化しているに違いない。
さて、滝の高さ。いわゆる落差がある一定の高さを越えてしまうと、地面や水場に落ちる頃には水しぶきの雨となってしまう。
雨は霧へ姿を変え、他の滝から出来た霧と合流し、やがて霧の海を現出させていく。
「下は全く見えないな。霧でも晴れない限り……」
♢♢♢♢♢
その時だった。後ろから暴風が、近くを飛んでいた白い鳥の群れは無情にも巻き込まれ、うち数羽が霧の底へと墜落した。
霧が晴れ全容が現れる。そこで目にした景色を今後俺が訪れた世界各地の商都、王都、帝都の全てと比較しても、前者が全ておいて圧倒的に優れていた。
ケネー城よりも遥かに高く強固な城壁の先には白亜の宮殿がまるで住宅街の様にひしめき合い、中央にはそれらの数百倍広い巨大宮殿が鎮座していた。
(そうか!ついに迎えが来たのか)
俺はそう思うと、嬉しさのあまり小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。これから俺はこの街の住人になるのだ!
俺は導かれるがままに街と巨大宮殿を隔てる門の前へと降り立った。いつ頃か俺の身体が受肉したようで、右手が動いたのは感動すら覚えた。
その右手で黒い扉に触れたその時!強い電撃が、それも触れた右腕が裂けるかと思う程に。
衝撃と共にフラッシュバックが流れる。
母親の乳を吸う赤子、ご飯の入った容器を投げる幼児、砂場で遊ぶ三人の子供、ランドセルを両手に後ろをついていく児童、背丈の大きい男たちに苛められる制服姿の少年、夜遅く部屋に篭って何かに熱中する青年。そして最後に見た景色は……
「……」
ベッドには何本もの導管に繋がれた患者がうんともすんとも静止していた。黒髪に青白い肌、目は閉じていた。
白いベッドの隣には機械が、その後ろは薄い水色のカーテンが仕切られていた。
機械から一定間隔ごとに乾いた電子音が虚しく鳴っていた。
そしてゆっくりと視界が暗くなっていく。と同時に大きくなる環境音。
ゆっくりと目を開け、気がつくと俺は天幕のベッドに寝かされていた。
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