第4話「槍か、規(のり)か」
行軍の列は、音から崩れる。
佐吉がそう思うようになったのは、長浜に入ってから幾日も経たぬうちだった。湿り気を含んだ米袋が肩に吸いつく音、縄が擦れる音、草鞋(わらじ)の藁が解(ほつ)れる音、前の者の息が細くなる音、飢えた馬の鼻が短く鳴る音――そのどれもが、最初はばらばらで、やがて同じ高さを探すように寄ってくる。寄って来ぬ時には、どこかに小さな溝がある。溝を埋めるのは、槍ではない。線だ。
「ここに規を置くべきだ」
佐吉は、土の上に膝をつき、指でさっと線を引く。野越えの笹の間、川の浅瀬の手前、炊ぎ場の灰の周り――足の裏が迷いそうな場所に、目で触れる印を残す。土を踏み固める順、荷を渡す順、火を起こす順。順が整えば人は楽をし、楽を覚えると乱れる。だから規は「楽の直前」に置くべきだ――。
夜の帳場、薄墨の覚書にそう書き付けた。砂子のような字で、欄外へ小さく。「楽に入る寸前の細い橋に、看板を。看板の文は短く。『腰を落とせ』『荷は右から』『火を待て』」。短い文は、人の骨に早く届く。
兵站(へいたん)の列に同行するのは、表向きには小姓の務めを離れた余技だった。だが秀吉は、余技の顔をして本務を差し出す癖がある。槍働きの列の影に、必ず算盤の影を置く。算盤の影に、枡の角を置く。角は、列の底で音を揃える。
列の端では、伊助がいつものように口笛を小さく吹き、歩の拍子を作っていた。「ほら、腹の底で数えろ。三と四で七だ。七で息を吐け」
「七は吐く、か」
「そうや。九で笑え。笑いは腹に溜めるとな、勝手に外へ出る」
笑いは線を丸める。だが丸め過ぎると、荷の角が崩れる。
「丸め過ぎる前に、釘を」
佐吉は草の束を捻り、仮の杭を地に打った。杭の影は、夕方が近づくにつれて長くなる。影が長いほど、人は楽の直前へ近づく。杭の傍に火を起こす順を絵にした木札を立て、荷の渡しの列には白布を巻き、炊ぎ場の灰には指で輪を描いた。輪の内に足を入れるな、と口にするより、輪を見せる方が早い。
その夜、行軍から戻ると、兵の稽古の場で声がした。濡れた地面に槍の穂先が揃い、声の高さが揃う。
「小姓どもも混じれ」
命じる声は短く、揺れない。
佐吉は、槍を取った。細身の柄を握る手は、茶筅とは違う角度で力を求める。柄の背が掌の真ん中に食い、肩の筋に知らぬ痛みが走る。
「構えろ」
構えたつもりの姿勢は、次の瞬間には崩れた。豪勇で知られた若者が一歩踏み込み、柄の腹で佐吉の槍を跳ね上げる。空を見た。背から湿り気のある土に刺さる。笑いが起きた。
笑いの中で、秀吉は笑わなかった。
「三成(さこそ)――」と彼はかつての寺名を短く呼び、肩を緩く回した。「槍の先ではなく、槍の背を持て。背で人を支えよ」
槍の背。
柄の丸み、節のわずかな盛り、手汗で滑る面。その「背」を握るという。
背を支えるとは、見えぬ所で釘を打つこと。釘を打つとは、嫌われること。嫌われることは、折れぬこと――寺で聞いた「撓(たわ)め」の言が、土の匂いと一緒に蘇る。
立ち上がり、もう一度構える。今度は穂先に目を置かず、肩と肘の間に目を置いた。背を意識すると、前へ出す足の角度が変わり、踏み込みの度に地が沈む音が、手の中で丸くなった。
豪勇の若者――名を友之丞と言った――が眉を寄せる。「小僧、怖いか」
「怖い」
「怖きを消せ」
「消すのではなく、撓めます」
言葉の端は笑いを誘い、笑いの波がまた広がる。だが笑いの裏で、伊助が小さく頷いたのを佐吉は見た。笑いは必要だ。槍の先が光る夜の前に、笑いは必要だ。だが笑いは規がないと刃になる。
稽古が終わった時、掌に小さな血の玉がふたつ、弾けた。痛みは浅く、赤は濃く、皮はすぐに固くなった。固くなる皮は、折れぬための前段だ。
その翌日、戦支度の場で「火矢」の数を書き上げる役が降ってきた。油の匂いに鼻が焼け、藁束が乾いた弾け音を立てる。火矢一本の量目、油の量、紙の巻き、芯の硬さ。矢尻の角度に指を当て、紙に砂子のような字を走らせる。
――過ぎたる矢は士気を損ず。
欄外に小さく、そう墨を落とした時、傍の者が鼻先で笑った。
「矢が過ぎて士気が落ちるとは珍妙な」
友之丞だ。額に浮いた汗が乾きかけ、目尻に白い粉がついている。
「惜しげなく撃てる時は、心が強い」
「惜しげなく撃てる心は、あとで弱い。尽きた瞬間に、手の中だけ冬になる」
「屁理屈を」
「理は冷たい。しかし冷たさは、火の輪郭を教えます。輪郭があれば、燃やし過ぎない」
友之丞は、口の端をゆがめ、矢束を肩に担いだ。「輪郭を線で囲って戦ができるかよ」
「線を置くのは、燃やすためです。消すためではない」
「三成」
友之丞は短く呼んだ。その声は怒りよりも、疲れの色が濃かった。「お前の線で、誰かが遅れる。遅れた者が刺される」
「遅れを拾う線です」
「拾えなかったら?」
答えが、喉に刺さった。拾えない時がある。その時に、線を責めるのは容易い。線は声を出さないから。
佐吉は、黙って頷き、覚書の裏に小さく書いた。「拾えぬ線は、次の線で撓めよ」。墨の腹が紙に沈む。沈みは遅く、乾きは早い。
火矢の支度は日暮れまで続き、その夜、予期せぬ敵の斥候が近村に火を放つまね事をした。灯の向こう、畦道の影が揺れ、誰かの手が矢束に伸びる。
「待て」
佐吉が声を出した。自分の声が、自分の耳に冷たく響いた。嫌われる声だ。嫌われる声の温度を、掌が覚える。
矢束の前に立ち、小さな札を掲げる。「一の矢の後、数えて三呼吸」
短い札は、夜目にも読める大きさで書いてある。札を見た伊助が、腹の底で「ひ、ふ、み」と数える。友之丞は、札を睨んでから笑い、矢を一本だけ火に寄せた。
最初の矢は低く、短く飛んだ。二本目の矢は、三呼吸の間に風の向きを読み替え、藁束に正しく沈んだ。三本目が要(かなめ)だった。最初に撃ち尽くす快楽を堪えた三本目は、夜の輪郭を広げすぎず、しかし十分に相手の影を手前に引き寄せた。
「惜しげなく撃つ」快楽は、後で冬になる。三呼吸が、冬を先送りにした。
夜が明けると、矢束は在るべき数で残り、兵の肩に残る力が一握りずつ多かった。友之丞は矢数を点検し、鼻を鳴らして去った。去り際、彼の肩がわずかに撓んだのを、佐吉は見た。
*
列の底で働くのは、名のない子どもたちだ。
名を呼ばれぬ子のうち、太市(たいち)という少年が、背負い子に混じっていた。団子鼻に汗の光がのこり、声変わり前の喉でよく歌う。「七で吐いて九で笑う」の曲も覚え、荷を渡す時には拍子木を打つ。
「太市、その拍子は早い」
「腹が急いでしまいまする」
「腹を撓めよ」
「撓め方がわかりませぬ」
「米袋の角を、撫でろ」
太市は小さな掌で米袋の角を撫で、息を一拍置いた。撫でる手の温度が一定になってくると、拍子木の音が低くなり、列の呼吸が落ち着いた。
ある夜、渇いた風に火が跳ね、太市の袖の糸が火を咬んだ。小さな火は、すぐに指で潰したが、焦げの匂いが太市の目に恐れを集めた。
「怖い」
「怖いを撓めろ」
「どうやって」
「火の輪郭を、指でなぞれ」
佐吉は、太市の焦げた袖を持ち、焦げの縁に指を置いた。縁は硬い。中心は柔らかい。柔らかいところは、もう燃えていない。輪郭は、中心を守るために硬い。「ここから先に、指をやるな」
太市は頷き、涙の粒を指の背で拭った。涙の跡は、小さな線になった。線は夜更けまで残った。
翌朝、太市の母だという女が列の端に訪ねてきた。頬の肉は薄く、目だけが強かった。
「うちの子を、別の列にやらせてください」
「なぜ」
「冷たいことを言うて嫌われる人の近くにおると、あの子は真似をして嫌われます」
胸に刺が立った。刺は細く、奥に潜る。「嫌われる」という言葉は、澄んだ水に砂を一粒落とすように、深いところで波紋を作る。
「嫌われることは、折れぬことに近い」
「折れたらどうしてくれます」
「撓め方を、覚えさせます」
女はしばらく黙り、太市の肩の紐を直し、唇を噛んだ。「撓めるのは、あんたの役目か」
「役目です」
女はうなずき、去った。去りながら太市の頭を叩いた。叩く音は低かった。低い音は遠くへ届く。
*
規を置く作業は、人の骨と触れ合う仕事だ。骨は、すぐには形を替えない。骨の周りで筋を練り、皮を厚くし、やがて骨の姿勢が少しだけ変わる。
川の手前で、佐吉は縄を二本渡した。一は高く、一は低く。高い縄は、荷の高さを揃えるため。低い縄は、足の運びを揃えるため。二本の縄の間に、ひとつの息を置く。
「ここで吐け」
札は短く、濃く書いた。濃い墨は、遠目にも見える。
伊助が先頭で縄をくぐり、吐いた。次いで子らが吐いた。吐く音が揃う。揃った音は水に似る。水の流れは、揃うと強い。
「規が多いと、息が詰まる」と誰かが言った。
「詰まる前に、規を終わらせる」と佐吉は答えた。規そのものが目的になった瞬間に、人は規を憎む。憎まれぬために、規は短い方がいい。短く、楽の直前だけに置く。長い規は、楽を奪う。
帳場に戻り、覚書の見出しに「規は、楽の直前に」ともう一度書いた。線を引く手の力を弱め、指の腹で紙を撫で、乾きの音を聞く。乾きの中に、寺の香の名残りが微かに立つ。懐かしさは油断に似る。油断の直前に、規。
ある晩、秀吉が稽古場に姿を見せ、槍を持たずに足だけで間合いを計った。足の裏で地を撓め、肩の力を抜き、視線だけで近づき、離れる。
「槍か、規か」
問いは投げ縄のように場の真ん中に落ち、誰もがその縄の円の内に入った。
友之丞が、真っ直ぐに答えた。「槍です」
伊助が、肩で笑って答えた。「規も」
佐吉は、一拍置いた。「槍は、規の表。規は、槍の背」
秀吉は目を細め、掌を打った。「背で人を支える話は、この前にしたな。表裏が揃って陽(ひ)は昇る。……陽が昇りっぱなしでは、人は焦げる。焦がす前に、影を置け。影が規だ」
影は嫌われる。影は涼しい。涼しさは、戦場では好かれない。熱い声と熱い息が、士気を支えると皆思っている。だが涼しさには、輪郭を残す力がある。輪郭があれば、熱も行き場をもつ。
その夜、佐吉は稽古の合間に釘袋を借りた。袋の底には、長さの違う釘が混じっている。柱に打つ釘、梁に打つ釘、床に打つ釘、行灯の足に打つ釘。釘を一本つまみ、指で撫でる。冷たい。冷たさが、輪郭をくれる。
「釘を打つとは、嫌われること」
師の声が胸の奥で鳴り、宿直部屋の暗さが寺の板間の暗さに重なる。目を閉じると、木魚の固い丸みが掌に現れた。角を撫でると、音が出る。低い音。低い音は、遠くへ届く。
*
規は、時に人を傷つける。
それはわかっていたが、目の前で起きると胸が縮む。
ある日、米の受け渡しに「左から右へ」の規を置いた。右利きの者が多く、動きが自然に繋がるからだ。だが列の中ほどに、片腕を痛めている男がいた。彼は規どおりに動けず、肩の紐が胸に食い込み、汗が目に流れた。
「すまん」
佐吉は列を止め、男を右の端に回した。反対側の片腕の男と位置を替え、規の札を一枚増やした。「傷のある方、こちら」
列が一瞬ざわめいた。「甘やかしだ」
友之丞が唇を歪めた。
「甘やかしは、楽の後でやれ」
「これは楽の直前です」
「規の直前に、規を増やすのか」
「増やした規は、明日には減らせます。減らせるために、今増やす」
友之丞は舌打ちし、前を向いた。
男は礼を言わず、ただ頷いた。頷きの角度は、寺の鐘の高さに似ていた。高すぎず、低すぎず、骨に届く角度だ。
夜、太市が小さな木片を持ってきた。片側に穴があき、縄が通してある。「撓め結び」と彼は言った。「母者が、昔、舟の綱で習うたのやと」
木片の穴に縄を通し、引くと、結び目がきゅっと角度を替える。ほどけにくいが、引けば撓む。
「規に結び目は要るか」と太市。
「要る」
「どこに」
「楽の直前に」
太市は笑って、縄を首から提げた。結び目が胸骨に当たり、彼は痛そうにしかめた。「痛い」
「痛いは、覚えの印だ」
「嫌われる印にもなるか」
「なる」
太市はうなずき、結び目を背に回した。「背で支えるために」
その仕草に、佐吉は胸の奥の釘が一本、音をたてるのを感じた。
*
規を置き続けるうち、城下では佐吉の名が「冷やっこい小僧」に変わりつつあった。
冷やっこい、と唇を尖らせていう女中の声に、少しの安堵と、少しの悔しさが混じる。冷たい水は、最初の一口にだけ痛い。二口目からは、喉が水を覚える。
覚えぬ人もいる。
ある日、炊ぎ場の「火を待て」の札を足で蹴る者がいた。足は若く、膝は軽く、目は熱い。
「待てぬ」
「待て」
「待った風に焼ける飯があるか」
「待たぬ風に焦げる飯はある」
笑いが起き、投げた言葉は軽く空に消えた。消えた言葉の行方を、佐吉は追わなかった。追っている暇に、火の輪郭を整えた。杭を打ち直し、灰の輪を指で描き直す。灰の中の白は、湯の白に似ている。湯の白は、待つことを教える。沸き切る前に茶を点てれば、香は立たない。
「待て」ではなく、「香のために」と札を書き替えた。
言い方ひとつで、骨の受け止め方が変わる。規は、言葉の角でできている。角は撫でれば立ち、叩けば折れる。
*
小雨の続いた晩、秀吉は城の間に兵と小姓を集め、地図の上に薄い紙をさらに重ねた。紙の上の線は新しく、古い線は透けて見える。
「槍か、規か」と彼はまた言った。
今度、佐吉は黙っていた。
秀吉は石を摘み、置いた。
「槍は、人の目に見える力だ。規は、人の背骨に入る力だ。表ばかり磨くと背骨が曲がる。背骨ばかり気にすると、顔が無くなる」
友之丞が笑った。「顔のある背骨がよろし」
秀吉は頷き、佐吉の覚書を手に取った。
「『過ぎたる矢は士気を損ず』」
彼は一行を声にして読み、紙を置いた。「正しい。だが正しさは、いつでも嫌われる」
「嫌われることは、折れぬことに近い」と佐吉。
「近いが、同じではない。折れぬことは、撓めることだ。撓めるとは、嫌う者の足元にも線を引くことだ。自分の足元だけに引く線は、ただの囲いだ」
囲いは、守る。囲いは、閉じる。
「三成」
秀吉の声は、庭の松風よりも低かった。「槍を持て。背で持て。背を持つ者も、時に穂先を見ておけ。穂先を忘れる背は、ただの棒だ」
稽古で握った掌の血が、もう固まっていた。固まりは角になり、角は時に痛い。痛い角で紙に触れると、紙が破れる。破れぬよう、角を撫でる。
夜、宿直部屋で釘を一本、柱に打った。誰にも見えぬところに、短い釘。打つ音は低く、柱の中で遠くへ広がった。
低い音は、遠くに届く。
届いた音は、遅れて戻る。
*
数日後、太市が姿を見せなかった。
列の端で拍子木の音がひとつ抜け、呼吸の流れがわずかに澱む。子どもの不在は、音でわかる。
夕刻、太市の母が来た。手に握り締めているのは例の撓め結びの木片だ。
「太市は、別の列へ」
「そうですか」
「……あんたの規は、嫌われても、うちの子を守る」
母の声は小さかった。顔の血の気は薄く、しかし目は濡れていなかった。
「嫌われるのは、誰でもできます」と佐吉は言いかけて、やめた。
誰でもできる嫌われ方と、誰にもできぬ嫌われ方がある。後者は、線に責任を負う嫌われ方だ。
「撓め結びを、もうひとつ」
母は木片を差し出した。「背に回してやれば、痛いが、折れぬ」
その夜、友之丞が帳場に来た。
「矢の数の札、覚えたぞ」と不器用に言い、横を向いた。「あれがなければ、俺は昨日、撃ち尽くしていたかもしれん」
「撃ち尽くすのは、気持ちがいい」
「気持ちは、次の一呼吸で裏切る」
ふたりは、紙の白を眺めた。白は湯の白に似ている。湯の白は、待て、と言う。
「お前の規は、俺の槍より嫌われる」と友之丞が笑った。「それでよい」
「よい、で終わらぬようにする」
「どうする」
「笑われる規にする」
「笑われる?」
「笑っても守られる規」
友之丞は首を傾げ、やがて肩を叩いた。「うまく言う。うまくやれ」
*
春の終わり、川の岸で小さな祭があった。舟の安全を祈る祭で、女たちが餅を丸め、男たちが酒を回し、子が跳ねた。
餅は、角が立っていた。
角の立った餅は、掌で撓めるとよく伸びる。柔らかい。しかし戻る。
佐吉は、餅をひとつ受け取り、噛んだ。噛む音が自分の耳に近く響いた。噛む音は、骨に届く音だ。
祭りの囃子の合間、寺の鐘が遅れて響いた。
離れがたい高さ。
鐘の高さは変わらず、長浜の川音は低い。
高い音と低い音。表と裏。槍と規。
どちらか片方を強く抱けば、もう片方は離れていく。
離れていくものは、切ない。
切ないものを、撓めて抱く技を、佐吉はまだ学びの途上にあった。
夜、湯を沸かし、茶を三献。薄く、厚く、重く。
最初の薄で喉の道を開き、二献目で香を掴み、三献目で今日の熱を沈める。
湯の白の輪郭が、火の輪郭をやわらげる。
火の輪郭が、規の輪郭に重なる。
規の輪郭が、槍の背に落ちる。
背を支えることを嫌う手の温度を、湯が少しずつ変えていく。
帳場の隅、天秤の針は眠りに入る前の小さな揺れを繰り返し、やがて中央で止まった。
針が中央で止まる瞬間、遠くで波がひとつ、岸を打った。
遅れて届く音は、長く残る。
遅れて届く礼も、長く残る。
太市の母の小さな礼。友之丞の不器用な言葉。伊助の腹の底の拍子。秀吉の笑わぬ口元。
それらは、規の釘穴に、少しずつ強さを足した。
*
翌朝、佐吉は槍を持った。背で持つ。
穂先は、朝の光を受けてしまい、どうしても目を奪う。だが背に意識を置くと、穂先の光は「遠さ」の印になった。遠さは、焦りを撓める。
稽古の合間、秀吉が近づき、言った。
「お前の線は、いつも短い」
「長い線は、楽を奪います」
「短い線が多いと、網になる」
「網にする前に、ほどきます」
秀吉は笑わなかった。笑わぬ顔に、唇の端だけが撓んだ。「ほどく技も、網のうちだ」
彼は踵を返し、地図の間へ去った。
残された土の上には、昨夜引いた短い線が雨で薄まり、しかしまだ見えた。線は、消える前に骨に移る。骨に移った線は、槍の背を通して指へ戻る。
佐吉は槍を置き、帳場へ戻った。紙に向かい、砂子のような字で、今日の覚書を増やす。「規は釘。釘は冷たい。冷たさは輪郭。輪郭は燃えすぎを止める。止めるは、進ませるの別名」
墨の匂いが、寺の朝の匂いを連れてくる。
離れがたい高さは、今日も骨に残る。
骨に残った高さを、低い音で支える。
その低い音に、明日の笑いが乗ることを信じながら。
表か、裏か。
槍か、規か。
選び続けるのではなく、撓め続ける。
背で支え、穂先を忘れず、火に輪郭を置き、嫌われることを恐れず、けれど嫌われっぱなしで終わらぬ工夫を欠かさず。
そうやって、今日も線を一本。
楽の直前に。
短く、濃く。
そして、ほどけるように。
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