第三十五話 小栗栖の最期
鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ、一つ。陸の印が、闇に薄く沈んだ。舟の二と四は、ここにはない。けれど骨のなかの記憶が勝手に鳴らす。耳の奥に坂本の朝夕がうすく重なって、足の裏は、いま踏みしめる泥でなく、乾いた板の目を探し当てようとする。探せぬまま、足はなお前へ出た。六月の闇は湿って、竹の葉裏で滴(したた)る水が、夜の皮膚を冷たくする。
敗走は、列でなくなった瞬間から、音を持たなくなる。音があるうちは、まだ陣だ。音が消えると、ただの人の集まりになる。集まりは、すぐに散る。散った音の残滓(ざんし)は、竹藪(たけやぶ)に吸われて、上からのぞく月の薄い面(おもて)へ渡っていった。
「殿」
利三が、かろうじて声を落とした。「このさき、小栗栖(おぐるす)。道が細く、竹、深い」
「……細いほうがよい」
声は自分のものに聞こえなかった。乾きと疲れで、喉の皮が一枚、別の人のものに張り替えられたようだった。鞍橋(くらぼね)に体を預けると、骨が鳴らない。鳴らない骨ほど、よく覚える。覚えたものが、明日の札の位置を決めるはずだった。——明日という札が、まだ、あるのか。
闇の中の小川を渡る。水は音なく、舟の鐘のかわりに石を撫でた。撫でられた石は、昼間の熱をすでに失い、手の平で冷たい。冷たさは、火の輪郭を教える。輪郭があれば、燃やし過ぎない。燃やし過ぎぬように、胸の底の灰をそっとかき寄せ、真(しん)を浅くして息を整えた。
「殿……」
弥七が、鳴らない鈴を掌(て)の内で確かめる。「鈴を……鳴らしましょうか」
「鳴らすな」
鈴は鳴らなくても鳴る。鳴らない音のほうが、長く残る。残る音が、今は刃になる。刃は、言葉で抜けば収めねばならない。収める場所を、いまは持たぬ。
稲冨は板も筆もなく、ただ両手を胸に重ねて歩いた。市松は帳面を落としてから、何も持っていない空(から)の手を見つめる癖が抜けない。お初は水筒を肩に掛け、息の高い者に小さく口をつけさせ、源九郎は釘袋の口を二度締め直し、若旦那は『少し』の札の白紙だけを懐にしまい、定吉は走る力を夜の藪に吸われ、了俊は鐘のない紐を胸の前で握らず、祈りと似た所作だけを残した。権六は槍をやや低い角度に持ち替え、竹の影の動きを目で追う。——皆、坂本にあった名のままで、坂本にない形をしている。
竹の葉が顔に触れ、汗の塩と水の匂いが頬で重なった。視界は細く絞られて、ひとの目に似た道しか選べない。道は、人の目の高さに従う。従うものは、裏切らない。裏切らぬものばかりで道ができるなら、理は楽だ。楽でないから、札に頼ってきた。
「殿」
利三が、わずかに振り返る。その目は、昨夜から朝へかかる時間のように、薄い明と濃い暗の両方を抱えていた。「……坂本からの者、もう、ここには」
「よい」
坂本の札——『家の札』『撓(たわ)め』『灯』『沈黙』『孤』——は、もはや持ち運ぶ板も紙もない。あるのは、目の高さ。手の高さ。耳の高さ。印の高さでしか、守れない場所がある。いま守るのは、息だ。
小栗栖の手前で、道がさらに細くなり、竹は肩に重なって急に深く見えた。風はほとんど動かず、葉裏に溜まった湿りだけが、時折、ぽたりと落ちる。落ちる音は、遠い寺の鐘の「一——一——一」と同じ間を持っていた。舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白が、胸の真ん中に穴を開ける。穴は、後へ倒れるためのものか、前へ進むためのものか。
「殿」
権六が顎を引く。「茂みの向こうに、影」
影は、兵の形をしていなかった。農の衣の色。足の運びが山のもの。手の高さに、刃ではない尖りを握る気配。——土民(どみん)。土の民。土の高さに根を持つ者。戦の列からこぼれた石のような我らの影と、彼らの目の高さがかち合う時、理は後回しになる。
「退け」
利三の声。短い。短い言のほうが、骨に入る。骨に入るほどの言を、今夜、誰も大声で出せない。出した声は、刃より速く飛び、刃より遅く戻る。
その時だった。竹の影から、先の黒い槍が一(ひと)筋、闇の皮膚を破って飛び込んだ。権六が身をひいてかわす。柄の縛りは粗い。だが、粗いものほど、執拗い。二の槍、三の槍。次第に高さが揃ってくる。揃えられるのは、憎しみの韻のほうが早い。
「走れ!」
誰かが叫んだ。利三か、権六か、あるいは自分か。声は自分の背で跳ね返ってきて、鞍橋で割れた。馬が前へ出ようとし、ぬかるみに蹄(ひづめ)を奪われ、首が大きくしなって、体が宙で軽く浮いた。次の瞬間、視界が斜めに回り、竹の節に背を強く打ち、小さな星が目の裏で爆ぜた。
土の匂い。竹の青い匂い。湿った苔(こけ)の匂い。鼻腔の奥がひりつき、口の中に鉄の味が広がった。舌に触れる歯が、知らぬうちに欠けている。欠けた歯は、金継ぎできない。器だけが、欠けを誇れる。
「殿!」
利三が膝をつき、肩を支えた。手は熱く、掌には細かい傷がいくつもあった。彼の汗の塩が、わずかに傷の上でしみる。
「行け」
光秀は言った。目の前の竹が、風のないのに揺れている。揺れているのは視界が揺れているからだろう。耳の奥で、遠い寺の鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ。舟の二と四は、ここにはない。
「殿を置いては」
「行け」
言い切る前に、竹の葉を分けて、土の匂いの男がひとり突っこんできた。顔が若い。髭は薄く、目は冬の田の色をしている。色は冷たく、濁りはない。濁りのない目は、札を知らない。札を知らぬ者の正しさに、言は勝てない。
槍の先が、昼間の陽に焼けたままの木肌で、じりと近づく。光秀は、体を起こそうと手をつく。掌に、石の角の硬さ。硬さが、胸の中の軋(きし)みを呼び、咳がひとつこぼれた。咳と一緒に、口の中の鉄の味が外へ出て、顎に温い筋を作った。
——懐。
手が、懐を探す。汗で貼りついた布の内側に、薄い紙。紙は、六月でも冷たい。冷たいものほど、現(うつつ)を教える。指が紙の角をつまみ上げる。折り目は硬い。何度も折り、開き、また折って、硬くなった山のようだ。山は、立っているだけで意味がある。意味のない山はない。
『殿の理は必ず春を呼ぶ』
灯のない闇で、文字は見えない。見えないのに、指がなぞると、字の高さを覚えている。覚えた高さが、胸の内側の火の輪郭を一瞬、明るくした。明るさは続かない。続かなくても、灯は灯だ。
「春は……」
声が、喉の皮の別人のところで擦れた。「春は、来たか」
返事は、風になった。竹の葉裏に溜まった水が、一滴、額に落ちる。冷たい。冷たさが、額から頬へ、頬から唇へ、唇から紙へ移る。紙が湿る。湿った紙の文字が、墨の縁から少しずつ滲(にじ)む。滲んだ形は、涙に近い。涙が落ちる前に、腕に強い衝撃。槍の柄が、肩をなぎ、体が横へ倒れ、視界が地面に近づく。
地面の匂いが、いよいよ濃い。蟻(あり)が一匹、石の影から出て、光秀の手の甲に登った。指を動かす。蟻は指の縁で向きを変え、また下りていった。蟻は、名を持たない。持たぬものは、強い。
「殿!」
利三が叫んだ。叫びの高さは、いつもの承知の形ではない。少年のように高い。彼もまた、坂本の札を持たずにここにいる若者のひとりに戻っているのかもしれない。戻ることは、罪ではない。戻る場所があることは、祝福だ。今、祝福は遠い。
槍の穂先が、胸の前で止まった。止まった瞬間、持ち手の手が震えた。震えは、撓(たわ)みの前触れであれ——ずっと言い聞かせてきた言を、敵の腕に願ってしまう自分に気づき、薄く笑いが漏れそうになった。笑いは風だ。風は板の下。板の下に、もう釘はない。
「……わたしは」
誰に向けてもいない声が、口の内側で立った。「裏切り者か。——理の札を、目の高さに置こうとしただけだ」
若い土の目が、濁らないまま、ほんの少しだけ細くなった。細くなるのは、疑いではない。的を絞るための形だ。形は、美しい。美しいものほど、残酷である。
穂先が、胸に来た。来たのに、痛みは遅れている。遅いものほど、長く残る。遅れて、白い火が胸骨の裏へひろがった。ひろがる火が、灰の底の真に触れて、真が最後の呼吸を深くした。呼吸の音に、坂本の鐘の「一——一——一」が重なり、舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白が、視界の真ん中に白を一枚、置いた。
白は、光だ。竹の隙間から、細い糸のように差しこむ。六月の朝の白。春の兆しの白ではない。けれど、白に罪はない。罪は、置きどころにある。——置きどころを誤れば、白は刃になる。
視界が、そこでいったん途切れた。
⸺
どれだけの間、闇が続いたのか分からない。闇のなかで、声がいくつか重なった。利三の声。お初の声。稲冨の低い息。市松が帳面の『息』の欄に最後の点を置く音——聞こえるはずのない音が、耳の内側で鳴った。源九郎が釘袋を軽く叩き、若旦那が『少し』の札に薄い墨を含ませ、定吉が走り出る前に一度だけ立ち止まり、了俊が胸の前で紐を握らず、祈りと似た所作で空を見上げる。権六が顎を引き、太鼓の二を禁じる合図を目で出す。——坂本の朝夕が、ここではない場所で、なお繰り返されている。繰り返すことは、罪ではない。生きる技だ。
「殿」
利三の声が、闇の縁で薄く明るんだ。「灯は、半尺下げました」
「結び目は、外に」
「外に」
「札は、目の高さに」
「子は——」
子はここにいない。いない者のために合わせることに、戦も季節も関わらない。——言葉が、薄く、遠く、闇の向こうへ吸われた。
光が、今度は脈を打つように戻ってきた。竹の隙間からの白さが、今までよりも柔らかい。柔らかい白は、痛みの輪郭を和らげる。和らいだ輪郭の内側で、痛みは深くなった。深いものは、静かだ。静けさは、刃でない。
「殿……」
利三の顔が、近づいた。目の下に、夜の二本の線。額に、汗の塩。彼の唇が、言葉にならぬ言葉を捜して震える。震えは、折れの前触れでなく、撓めの前触れであってほしいと、最後まで思う。
「行け」
光秀は、唇を動かした。声にならぬ声。彼は首を横に振る。「行けませぬ」
「行け」
もう一度、唇だけで言った。札の言い回しに似たかたちの、短い語。「……お主の結び目を、外に出せ」
利三の喉が、小さく鳴った。鳴りは、節の音。節は止まり、そして伸びる。彼は深く頭を垂れ、何も言わずに立ち上がった。立ち上がる所作が、美しかった。美しいものほど、残酷だ。——それでも、美しさの側に理は宿る。
土の影が、再び近づく。今度は、手に刃でなく、平たい石を持っている者が混じっていた。石は、名を持たない。名を持たぬものは、罪を感じない。罪を感じないものほど、後から語りに残る。
「やめよ」
権六の声が割って入る。槍を横へ払おうとした肩に、別の石が落ちて、彼の膝が折れた。膝が折れる音は、木の破裂に似て、周囲の空気の温度を一度下げる。温度が下がると、怒りは声を鋭くする。
「逆臣め!」
誰かが叫ぶ。声は若い。怒りは健康だ。健康な怒りは、札の文より速く体を動かす。速さは、理の単位であるはずなのに、今は刃の速度だ。
槍の先が、再び胸へ向かう。もう、受け止める力はない。受け止められなくなったとき、人は目の高さで受ける。目は、竹の白い隙間を見た。白は、春の兆しに見えた。幻だ。幻のなかにあるもののほうが、現(うつつ)より確かに見える時がある。
「春は……来たか」
もう一度だけ、唇が動いた。動かした言の重さを、胸の内の真が最後に測る。測るための器は、金継ぎの茶碗の形をしていた。煕子の金の線。欠けの継ぎ目。冷たさ。冷たいまま、光を返す線。——線は、消えない。
穂先が、皮膚を割いた。今度は、痛みが先に来た。先に来るものほど、短く過ぎる。過ぎた痛みの後に、白が残った。白の中へ、音が一つずつ落ちる。坂本の鐘の「一——一——一」。舟の二と四は、ここにはない。ない音が、空白を作る。空白の中に、最後の札の黒い点を置く。『息』。——点は、確かに、そこに置かれた。
視界が白く途切れた。
⸺
それから先のことは、他人の語りを通してしか、形を持たない。
小栗栖の竹藪で、土民が逆臣を討った、と人はいった。討たれた者は、罪により名を残し、名により罪を固定された。名は刃だ。刃は、紙より長持ちする。紙は破れる。破れた紙を、誰かが拾い上げ、乾かし、金の線で継いだかどうかを、人は知らない。
利三は、殿の体を抱えようとして、槍の穂に押し戻された。押し戻されながら、彼は唇だけで『家の札』の文を動かした。「目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ」。文は、声にならず、しかし確かに、彼の胸の内側で読まれた。読まれたものは、消えない。
お初は、落ちた懐紙を拾い、泥を指でそっと拭った。拭えば拭うほど、墨は滲む。滲んだ文字が、涙の形を真似る。真似るものほど、現(うつつ)に近い。彼女は紙を胸に抱き、竹の影で短く祈った。祈りは、鐘を鳴らさない。鳴らさない鐘ほど、よく鳴る。
稲冨は、もはや板も筆もない手で、空中に文字の形をなぞった。『息』。点をひとつ、竹の白の中に打つ所作。所作は、物にならなくても意味を持つ。意味は、後から人の肩を軽くする。
市松は、落とした帳面の新しい頁(ページ)に、指で目に見えぬ行を引いた。行は風に揺れず、雨にも濡れない。見えぬ行ほど、のちに真実を支える。支えたことは、記録に残らない。
源九郎は、釘袋を打ち鳴らす代わりに、足元の木の根を一度だけ叩いた。木は音を返さない。返さないものほど、長く覚える。覚えた根は、来年もそこにいる。
若旦那は、『少し』の札を白紙のまま胸に当て、目を閉じた。白は、罪ではない。罪は、置きどころにある。彼は、白を置いた。
定吉は、走ることをやめ、膝をついた。膝をつく所作は、敗北ではない。視線を落として目の高さを合わせるための技だ。技がある限り、人はやり直せる。やり直す前に、歴は印を押す。
了俊は、胸の前で紐を握らなかった。握らない手で、空の鐘の高さを測った。測った高さに、もう一度、坂本の「一——一——一」を置いた。舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白を、祈りで埋めることはできない。埋めないまま、音は残る。
権六は、折れた槍を横へ置き、顎を引いて暗い竹の上を見た。彼の目に、白い筋が一本だけ見えたという。竹の隙間からの光。六月の朝の白。彼は、後にそれを「春の兆しのように淡かった」と、誰かに語った。語りは、事実を薄くし、真実を濃くする。
土の若者は、血のついた槍を眺め、息を荒げながら、遠くの空を一度だけ見た。空には、名はない。名のないものは、罪を持たない。彼は、家へ帰り、米の袋の底を確かめ、子の食べる粥の量を数え、その夜、眠れなかった。眠れぬ夜は、罪の夜ではない。人の夜だ。
坂本は、遠い。坂本の朝夕は、耳の中と胸の中でだけ鳴った。鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ。一度止まり、舟の二と四は、ここにはない。——鳴らない鈴を弥七は掌の内で確かめ、鳴らさなかった。
⸺
歴は、印を押した。『謀反人』。印は重い。重いものは、紙に残る。紙は破れる。破れた紙を、誰かが拾い、金の線で継ぐかどうかを、人はあまり気にかけない。人は、重い印のほうを覚える。
けれど、印の下に、薄い黒がいくつも並んでいるのを、見ないふりはできない。『家の札』『撓め』『灯』『沈黙』『孤』『息』。どれも、目の高さにしか立たない札だ。目の高さは、季節で変わる。変わるものだけが、残る。
坂本の屋敷の一角に、金継ぎの茶碗が残った。お初が拭い、稲冨が棚の板の角を押さえ、市松が「息」の欄に点を打つ所作を空で繰り返し、源九郎が釘袋を軽く叩き、若旦那が『少し』の札を白紙のまま掲げ、定吉が走り、了俊が胸の前で紐を握らずに空の鐘の高さを確かめ、弥七が鳴らない鈴を掌に包み、権六が顎を引く。——皆、名ではなく、所作で日をつないだ。
城下の角の板に、誰かが薄い墨で、見よう見まねの文字を写した。「目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ」。子はそこにいない。いない者のために合わせることに、季節は関わらない。風は、板の下。笑いは、風。——笑いは、今は少ない。少なくても、風は吹く。吹くから、板を撓める。
小栗栖の竹藪に、季節が来る。冬がくれば、竹は冷たく鳴り、春がくれば、竹は柔らかく光る。六月の雨が過ぎ、葉裏の滴がひとつ、またひとつ落ちる時、地面の小さな石が、あの夜の体の軽さを思い出す。思い出すことは、罪ではない。思い出すために、人は生きている。
『殿の理は必ず春を呼ぶ』
紙の上の文字は、墨の縁が滲んだまま、新しい指に何度もなぞられる。なぞる指は、若いかもしれない。古いかもしれない。男かもしれない。女かもしれない。どちらでもよい。指の温度が紙へ移り、紙の冷たさが指へ戻る。その往復の中に、ほんのわずかな白が生まれる。白は、罪ではない。罪は、置きどころにある。
小栗栖の道を、別の敗走がいつか通るかもしれない。通らぬかもしれない。誰も見ないところで、蟻が石の影から出て、指の甲に登り、また下りる。見ないものほど、長く残る。残ったものが、鐘の高さを決める。鐘は、誰のものでもない。——鳴らない鐘ほど、よく鳴る。
六月の終わりの夕暮、坂本の湖面(みずおもて)に、細い風が走った。舟の鐘は、もう二と四を鳴らさない。それでも、耳の奥で確かに鳴る。鳴る音の上で、金継ぎの線がひとつ、灯を返した。欠けを示す線。示すことで、器は使われ続ける。
理は、たぶん器だ。欠けを隠さず、継ぎ目を、灯に返す。冷たいまま、光を返す。その線の前を、誰かが通り、手を置き、一礼し、去る。去る足音が、静かに、確かに、歴の底へ沈む。沈むものほど、よく息をする。息のある限り、春は遅れても来る。来ぬとしても、息の続くかぎり、札は立つ。札が立つかぎり、理は折れない。——名は、あとから誰かが貼る。貼られた名は刃で、刃は紙より長持ちする。それでも、人の祈りは、紙の側に残る。
小栗栖の竹の隙間から、今日も白が差しこんだ。白は、春の兆しのように淡かった。胸のどこかで、鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ。舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白に、ひとは目の高さで札を差し入れ、半尺ずつ撓めながら、生きてゆく。六月の風が、竹の葉裏の滴を一滴落とした。滴は小さく、しかし確かに、地面の上で跳ねた。跳ねた音を、誰も聞かなかった。——鳴らない鈴ほど、よく鳴る。
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