第5話「丹波の土、火の色」

 丹波攻略の命は、扇の骨を一本折るほどの簡潔さで下った。

 簡潔さは、ときに残酷さの別名である。言は短く、意味は長い。長い意味の余白に、雪と泥の匂いがこもる。命が読み上げられた広間で、光秀は膝を正し、返答の一字を胸の骨に置いた。——承る。置いた一字の重みは、槍一本と同じであった。


 山々は近く、谷は深く、村は互いに疑っていた。冬から春への境にある丹波の土は、指でつまめば崩れ、掌に乗せれば湿りで重くなる。踏みしめるたびに靴の底が鈍く鳴り、鳴りの回数で距離を数える兵がいた。

 道は、地図には細い一本として描かれている。だが、実のところ道は幾筋にも裂け、獣の通い道と人の通い道が絡み、雨を受けて一晩で別の筋へ移る。光秀は先に行く伝令に命じて、木の札を立てさせた。札には行き先と距離、そして二つの名を書かせる。一つは札を立てた者の名、一つはその札を見る者の名。見る者の名は空欄で、見た者が自ら書き入れる。名の空欄は、背の温度をわずかに下げる。恥は背から降る雪のように冷えを連れてくる。それでも、札の白は空ではない。白は、誰かが自分の名を置く余地である。


 小城を落とすたび、蔵からは飢えの匂いが漂った。湿った米、鼠の糞、古い藁。匂いは目に見えないが、降伏した者の眼は乾いて見え、背いた者の家は灰に帰った。

 血は温かく、命令は冷たい。温かさは指を動かし、冷たさは指を止める。押しと引きが同時に起きるとき、秩序の線はすぐに滲む。

 光秀は兵を諭した。略奪を戒め、私曲を禁じ、酒に口をつけぬように言う。言葉は紙に記され、札として辻に掛けられた。だが、札は紙だ。破りたいと思えば、指一本で破れる。破ったとき背が冷えるように、名が書かれている。名は骨であり、骨は皮膚の緊張を保つ。

 「面倒でも、名を置け」

 光秀はくり返した。

 「名を置かねば、明日の恥が薄くなる。恥が薄いと、今日の火が高くなる」


 焚かれた藁屋根の火は橙で、空は薄青、風は無色だった。色が分かれて世界が割れる。橙は哭き、薄青は見ないふりをし、無色はただ通り抜ける。火の近くに立つと、肌が熱で乾く。乾いた肌の下では、骨が音もなく軋む。

 光秀は馬を降り、燃え残った梁の下に立った。梁に焦げの黒が流れ模様のように残っている。黒は、熱の軌跡である。熱が通った道筋だけが、木目の上に濃く露わになっている。

「うちの家は、どうせ風で倒れるところでした」

 焼け跡のそばに跪いた女が言った。乾いた声だが、眼は濡れていなかった。

「火事で倒れたと申せば、恥が減ります」

「恥」

「男たちは、家を守れなかった恥を、火に投げて忘れます」

 女は微笑の形をつくろうとしたが、唇は途中で止まり、頬の皮だけがわずかに動いた。

「殿は、何を植えるおつもりか」

 その夜、夜営の囲炉裏の前に姿を現した古老も、同じ問いを投げた。

 「殿は、何を植えるおつもりか」

 古老の背は曲がっている。曲がった背に、冬の湿りが残って、衣の裾を重くしている。

 光秀は答えた。

 「道と掟」

 古老は笑った。喉の奥から乾いた音が出た。

 「麦でも稲でもないのか」

 「麦や稲は、道と掟の上に乗る。道が泥なら稲も泥に沈み、掟が曲がっていれば麦も曲がる」

 「掟は腹の足しにならん」

 「腹の足しを置くために、掟は要る。掟は骨だ。骨が折れていれば、腹は膨れても立てぬ」

 古老はしばし考え、火の上の鍋の蓋を少しずらした。湯気が薄く立ち、塩の匂いがかすかに広がる。

 「骨に、火は通らぬ」

 「火は皮膚を焼き、肉を焦がし、骨を露わにする。露わになった骨は威を見せるが、長くは保たぬ」

 古老の眼に、火の橙が映って揺れた。

 「道は、どこに敷く」

 「まずは、水のあるところから」

 「水」

 「明朝、用水を見に行く」

 古老は頷き、腰を上げた。

 「ならば、堰の鍵を持つ男の名を、今、書いておかれよ」

 光秀は筆を取り、薄紙の端に名を記した。名は背の温度を変える。明日、堰の前で声をかけるとき、その名が風を止めるだろう。


 翌朝、霜のほどける前に村の用水を見に行った。壊れた堰に、濁った水がゆっくりとよじ登り、崩れた板の隙から泡を吐き出している。堰の端には、昨夜記した男が立っていた。名を呼ぶと、男は驚いた顔をした。

 「堰の鍵を」

 「鍵は、昨夜……」

 「持たずともよい。鍵の名を、紙に書け」

 男は紙を受け取り、指を震わせて名を書いた。光秀は、その紙を堰の柱に張り、「鍵はここにある」とした。鍵は無い。だが、名が鍵の形を成す。

 「堰を直せ。——銭ではない。手間で罰せよ」

 光秀は村の若者を集め、崩れた板を抜き、土嚢を積み、石を運ぶ順序を割り振った。罰は手間に変えられた。銭で罰すれば、恥は薄くなる。手間で罰せば、恥は残る。残る恥は、翌朝の秩序の重りになる。

 兵にも手伝わせた。槍を置かせ、鍬を持たせ、石の重さで指の腹を覚えさせる。

 「戦で燃えた火は、ここで冷ませ」

 光秀は言った。声に怒りはなかった。怒りは火を高くする。火の後には灰ばかりが残る。

 堰は正午過ぎに形を取り戻した。水は細く、筋を描いて流れ始める。細い筋だが、線は線だ。細い線が地図を作る。

 古老が来て、板の上に腰を下ろした。

 「道を敷き、掟を植える、とな」

 「掟は芽が出るまで時間がかかる。芽の出ぬうちは、恥を置いておけ」

 「恥は腹を満たさぬ」

 「恥は腹を守る」

 古老は笑った。今度は喉の手前で笑いが転がり、目尻に皺が集まった。

 「殿の言は、腹に入るには硬い」

 「硬いが、腹を守る骨になる」

 古老が黙って頷くと、背が少し伸びた。伸びた背は、風にあたる面積が増える。増えた面積を護るものが、掟と名であった。


 攻略は続いた。小城は数日のうちに落ち、次の小城へ向かう。

 攻めるときは速さが味方をする。速さは敵の思考を置き去りにし、城門の蝶番に迷いを生じさせる。だが、速さは憎しみも育てる。置き去りにされた思考は腐り、腐った思考は匂いとなって地の底に溜まる。

 「速さで勝ちを呼ぶと、皆が言う」

 夜の軍議で、ひとりの部将が言った。面の皮は厚いが、眼は細く、黒目の中に火が見えた。

 「火をもっと。火は速い。火は、敵の心を砕く」

 光秀は首を振った。

 「砕けるのは、心の表と皮膚だ。中に残るものは、灰に混じって色を失わぬ。色のない憎しみは、次の冬にまた芽を出す」

 「芽を出す前に、刈ればいい」

 「刈り続けるのは、戦だ。戦を止めるために、道と掟を植える」

 部将は唇を鳴らし、笑いとも侮りともつかぬ音を出した。

 「面倒を言う」

 光秀は頷いた。

 「面倒を面白がるために、我らは文を持つ」

 「文で人は饑えを忘れるか」

 「文があるから、饑えが恥であり続ける」

 部将は黙り、火の橙がその頬を一瞬だけ柔らかくした。柔らかさは、刃よりも脆く、しかし、刃よりも長く残ることがある。


 丹波の谷は、風がよく通った。風は無色だ。無色の風は、火の色と空の色の間を、何事もないように抜けていく。

 村の子は、その風の中で雪解けの泥を丸め、投げ、笑い、すぐに泣いた。泣き声は短く、笑いはすぐに戻る。子の時間は短く、短さの中に余白が多い。余白の多さが、村の呼吸を守っている。

 光秀は、村の広場に臨時の「札場」を設けた。木の柱を一本立て、そこに札を重ねて貼る。札には、用水の配分、夜の見回り、火の使用、道の掃除、寺の鐘の回数、そして最も大切な「名」を書く。

 名は紙を重くする。名の重みで紙は風にちぎれにくくなる。

 「名を置くのは恥のためではない。誇りのためだ」

 光秀は集まった村人にそう言った。

 「恥と誇りは裏返し。恥の冷えが背を伸ばし、背が伸びれば誇りは温まる」

 誰かが笑った。笑いはすぐに他の口元へ移った。笑いは風に似ている。無色だが、人を動かす。


 ある村で、兵のひとりが米蔵の米を隠れて持ち出した。

 取り調べにかけると、男は唇をひき結び、眼を伏せた。

 光秀は怒鳴らなかった。怒鳴れば、火が高くなる。

 「名を言え」

 男が名を言う。

 「その名を、ここに書け」

 光秀は札を差し出し、男に自分の名を書かせた。その下に、男の隊の頭の名を書かせ、その下に、今後一月の夜警の当番として自分の名を三日記させた。

 「銭で罰せぬ」

 光秀は静かに言った。

 「手間で返せ。おぬしの夜が重くなることが、村の昼を軽くする」

 男は黙って頷き、筆を置いた。

 その夜、男は村の裏戸に「裏戸の名」を貼った。紙に並ぶ名は小さな骨であり、骨が並べば、皮膚は自ずと張る。張った皮膚は、冷たい風を弾く。


 谷の向こうの小城を攻めたとき、敵は夜陰に乗じて逃れた。残されたのは空の蔵と、折れた槍と、血で黒くなった土だけ。

 光秀は城の土塀に白い粉で線を引かせた。線は、焼いてよい範囲と、焼いてはならぬ範囲を分ける。

 部将が言う。

 「殿、火は境を選ばぬ」

 「ならば、人が選ぶ」

 火は速い。だが、線を引けば、火は一息だけ遅くなる。その一息で、別の決断が入り込める。

 火は橙を吐き、空は薄青を華奢に保ち、風は無色のまま、線を越えるかどうかを迷った。迷いは、速度の中に余白を作る。余白は息であり、息は生き延びる。

 「焼くは容易。治めるは難し」

 縁側で信長に言った言が、黒い土の匂いの中で再び骨の音を立てた。


 夜営の灯は弱い。弱い灯ほど、消すのが難しい。強い灯は一息で消えることがある。弱い灯は、手の形で囲えば、持って歩ける。

 光秀は灯の横で、筆をとった。

 ——丹波の土は、指でつまめば崩れ、掌に乗せれば重い。

 ——山は近く、谷は深く、村は互いに疑う。疑いの隙間に、札を立てる。札の白は空ではない。誰かが名を置く余地だ。

——蔵の匂いは飢えであり、灰の匂いは恥を隠す匂いでもある。火は速い。速さは勝ちを呼ぶ。が、速さは憎しみも育てる。

 ——堰を直した。罰は銭でなく手間。恥は背の温度で測る。

 ——火をもっと、と部将は言う。面倒を言う、と自分は言われる。面倒を面白がるために、文を持つ。

 筆は迷わなかった。迷いは昼間の橋の上に置いてきた。紙の端に、余白を残す。余白は、煕子の目が入る場所だ。


 煕子への文は、夜ごとに短く、だが重くなった。

 ——殿の筆は春を連れて来ます、とあなたは言った。春は白い。白は無ではない。いま、丹波の白の上に、火の橙と空の薄青と風の無色とを置いている。

 ——火の色は目に痛く、空の色は嘘のように静かで、風は何事もない顔をして通り抜ける。

 ——この白に、道と掟を植える。植える種は札と名と恥と手間。

 ——速さの反対にあるものは怠けではない。遅い眼だ。遅い眼は、穴の縁を見る。

 煕子の返文は、さらに短かった。

 ——殿の遅い眼が、村の息をつなぎますように。

 短い一行の余白が、灯の揺れに似ていた。揺れは不安の形にも、呼吸の形にもなる。どちらにするかは、手の形次第だ。


 ある日、谷あいで奇妙な光景に出会った。

 敵の残した矢文が、村の祠に貼られている。

 「明智を信ずるな」

 墨は新しい。筆は荒い。

 光秀は、矢文の下に別の紙を貼った。

 「明智を信ずるな、と言う者の名は誰か」

 名は書かれていない。名のない言は、風に早く乗る。早い言ほど、冷えやすい。

 村人が集まり、紙の前でひそひそと囁き合う。

 「名がない」

 「名がないから、背が冷えん」

 「冷えんと、火だけが残る」

 古老がそっと光秀の横に立ち、顎をさすった。

 「殿。名のない言は、どう扱う」

 「名のある行いで覆う」

 光秀は村の子どもに声をかけた。

 「今日から三日、道を掃け。掃いた名を書け。書いた名の数だけ、米を分ける」

 子どもは走った。名を書くための手が、箒の柄を握る。柄の木目が掌の皮に跡を残す。跡は痛い。痛みは、自分の行いが自分の皮膚に触れた証だ。

 三日ののち、矢文の墨は薄れ、下の紙には名が重なって、風で剥がれなくなった。名の重みが、紙を地に繋いだ。


 攻略の半ば、雪が最後の息を吐いた。白は灰に変わり、灰は泥に変わる。泥に足を取られながら、部将のひとりが再び進言した。

 「火をもっと」

 光秀は首を振った。

 「火は速い。速さは誤解を増やす。誤解は、恥の反対である。恥は自分の中に、誤解は相手の中に」

 「誤解は、槍で正す」

 「槍で正された誤解は、火に似る」

 「面倒を言う」

 光秀は笑った。

 「面倒は、器の継ぎ目である。継ぎ目のない器は、ひとつもない」

 漆に粉を混ぜて継ぐ線を、煕子の指が描いていた夜を思い出す。金ではない。だが、灯にかざすと柔らかい光を吸い、器は丁寧に扱われる。

 丹波の土に置く線も、同じ材でよい。光秀は、村ごとに小さな「丹波掟」を書いた。

 一、火を用うるのは、鐘ののち。

 一、夜半、人の田に入らず。

 一、用水の封を破らず。破れば翌月の手間を増す。

 一、裏戸に名を置く。

 一、名の下に名を置く。

 文字は少なく、意味は長い。長い意味は、余白で呼吸する。余白は、村の者の眼であり、手の形であった。


 やがて、丹波のいくつかの城は矢を納め、戸を開いた。

 降伏の儀において、光秀は必ず「名」を確かめた。出迎えた者、門を開いた者、蔵の鍵を渡した者、堰の鍵を持つ者。名の列は、まるで骨の標本のように紙の上に並ぶ。骨は、人の形を保つ。

 ある城で、老臣が言った。

 「城を明け渡すは、恥である」

 「恥があるから、明日が残る」

 老臣は目を閉じ、小さく頷いた。

 「恥を置く場所を、殿が用意するならば」

 「置く。置くのは紙だ。名だ。罰は手間だ。——銭で恥は買えぬ」

 老臣は目を開け、薄い笑いを浮かべた。

 「うつけとは、ほど遠い」

 「うつけの主のもとで、文を骨にする。骨は、面倒だ」

 老臣は「面倒を面白がるお人よ」と呟いた。面白がる、という言が、灰の上にひとすじの水を引いた。


 帰陣の途中、野の端でひとり、光秀は馬から降りた。

 足の下の土が、昼間の熱をわずかに残している。

 空は薄青く、どこかで火の橙が遠くにほんの点として見え、風は無色のまま、頬を撫でた。

 足元に、去年の稲の藁が細く折れて残っている。折れた藁は、継がれぬ。器と違い、線を足す材料がない。

 ——ならば、藁の代わりに、線を置く。

 光秀は手帳を開き、筆で淡い線を一本引いた。

 ——丹波掟、草案。

 項目は簡潔であるべきだ。簡潔さは残酷の別名にもなるが、同時に救いの扉にもなる。長々と書かれた掟は、誰の背も冷やさぬ。短い言は、背の温度を変える。

 筆を止め、耳を澄ます。風の音、遠い鐘、子の笑い、土の下で眠る水の音。

 速度の中で聞き漏らされがちな音を紙に留める。留められた音は、明日の秩序の重りになる。


 陣へ戻ると、部将が待っていた。「火をもっと」と言った男である。

 「殿」

 今度の声は、前のように尖っていなかった。

 「村の札場を見た。名が重なって、紙が厚くなっていた」

 「名は紙を重くする」

 「重くした紙は、風で飛ばぬ」

 男はしばし黙し、やがて小さく笑った。

「面倒を面白がる、とは、このことか」

 「面白さは贅沢だ」

 「贅沢」

 「速さの中で、余白を持てること」

 男は「なるほど」と言って、空を見上げた。薄青の上を、黒い鳥が二羽、静かに渡っていく。速度は見えない。だが、余白は見える。

 「殿」

 「何だ」

 「今夜は、火を減らしましょう」

 「よい」

 男は去り、光秀は背の温度がわずかに上がるのを感じた。恥は冷えを連れてくる。だが、恥を共にした者の背は、隣り合うことで温まる。


 丹波の山影が長くなるにつれ、兵の顔に疲れが滲んだ。疲れは、怒りや軽蔑の形をとって現れやすい。

 光秀は、疲れを「名」で受け止めようとした。夜の見回りの札に、疲れた者の名を先に記し、翌朝の火起こしを免除する。免除の名は、恥ではなく恩である。恩は今の銭では買えぬ。昔の手間で買ったものが、今になって利を生む。利を生まぬ恩は切り捨てる。——主の言葉が、胸でひとつ鳴った。

 切り捨てる恩がある。だが、切らずに継ぐ恩もある。継ぎ目の美しさは、恩の長さを決める。

 光秀は、恩の名も札に忍ばせた。忍ばせる名は、人に見せぬ。見せぬ名は、背を冷やさぬ。だが、書き手の背を温める。


 攻略の終わりが見えはじめた頃、光秀はふと、自らの手の皮の荒れを見た。筆の柄で堅くなった掌に、堰の石で新しい傷が二つ増え、火の灰で黒い筋が一本引かれている。

 槍の重みと、筆の重みとを、同じ秤で量ろうとする自分がいる。

 槍の重みは肩に、筆の重みは胸に掛かる。肩は筋で支えられるが、胸は骨で支える。骨は折れてはならぬ。——折れて継いだ骨のほうが強いこともある、と主は言った。

 折らずとも鳴る骨の音を、光秀は探した。

 夜の帳中、灯の揺れる狭い余白に、その音が一瞬だけ乗ることがある。

 ——焼くは容易。治めるは難し。

 ——火は速い。速さは誤解を増やす。

 ——名は紙を重くし、紙の重さは風を鈍らせる。

 ——恥は背の温度、恩は明日の手の温さ。

 ——道と掟は、麦や稲の下に敷く骨である。

 骨の列が紙の上を通って、灯の白に消えた。


 帰陣の報せを信長へ伝えると、返事はまた簡潔だった。

 ——よい。

 その一字は、短いが長かった。長さは、手間の数で測れた。

 続けて、別の短い命が下った。

 ——安土。

 光秀は頷き、丹波掟の草案を巻き、札場の白をひとつひとつ確かめて歩いた。札は紙だ。紙は濡れる。濡れた紙ほど、墨は早く乾く。乾けば、線は濃く残る。

 「殿は、何を植えるおつもりか」

 古老の問いが、背で静かに続いた。

 「道と掟」

 答えは変わらない。変わらぬ言の中で、光秀は、一つだけ言を足した。

 「それと、忘れぬこと」

 古老が目を細めた。

 「忘れぬことは、何の種で育つ」

「名」

 古老は笑い、背を伸ばし、火の前で手を擦った。

 「名は骨やな」

 「骨であり、舌であり、封であり、背の温度を決める皮膚でもある」

 「面倒な名や」

 「面倒を面白がる、名や」

 ふたりの笑いが、橙と薄青の間で短く重なり、無色の風がそれを崩さずに通り過ぎた。


 陣を離れる前夜、光秀は煕子宛の文に、一行だけ余白に書いた。

 ——この主のもと、理に形を与え得るや。

 その下に、もう一行を足した。

 ——丹波の土に引いた細い線が、地図になるや。

 余白は白い。白は無ではない。可能性の色だ。

 手紙を畳むと、灯は小さく、だが確かに、室の隅まで届いた。

 外では、遠い寺の鐘が一度鳴り、遅れてもう一度鳴った。二度の間に、短い息が一つ入った。

 光秀はその息を、胸の余白にそっと置き、目を閉じた。

 翌朝、丹波の山は同じ形のまま、色だけがわずかに柔らいで見えた。火の橙は遠く、空の薄青は高く、風の無色は相変わらず何事もない顔をして、道の上を通っていった。

 道は一本の線で地図に描かれる。だが、その線の下には、いくつもの名が重なっている。名の重みが、線を地に結びつける。

 光秀は馬の腹を軽く蹴り、安土へと向かった。

 速度は風だ。風は器を選ばず吹く。器を選ぶのは、我らである。

 器の内側に、灯を消さぬ線を、少しずつ——面倒に——引いていく。

 丹波の土に置いた細い線が、いつか地図になって、誰かの恥と誇りを支える骨になることを信じながら。

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