第2話「細川家の門、義輝の記憶」

 坂本へと続く道は、冬の朝に硬く凍み、踏みしめるたび靴の底が乾いた鈴のような音を立てた。湖から吹く風は重たく湿り、耳の奥にまで冷たさを注ぎ込む。日の輪は薄く、雲の切れ間を渡るたび、雪面に細い線を描いては消えた。

 光秀は歩幅を一定に保った。息が白くほどけては、すぐさま風に千切られる。坂本の町に入ると、雪は人の往来の分だけ低く削れ、泥と混じって斑を作っている。店の者は戸口を半ば閉じ、奥で火鉢に手をかざしながら、来客の気配だけを音で計っているようであった。


 細川家の屋敷は湖を背に、門構えを低く過ぎず高く過ぎずに据えていた。敷き詰められた石は雪を払い終え、濡れた艶が黒く深い。名を告げると、守番の目は細く笑い、控えの間へ通された。廊下は白木が多く、香はほのか。壁に掛かる水墨の山は余白を広く取り、墨色の濃淡だけで遠近を刻んでいる。余白は見えぬ気配を受け止める器のようで、光秀は膝をすすめるたび、その器の中に自分の音が小さく落ちていくのを感じた。


 薄い襖が音もなく開き、細川藤孝が現れた。

 言葉は柔らかかった。だが、視は刃のように通っていた。

 刃は人を傷つけぬために研がれることもある。鈍ければ、かえって肉を裂く。——そんな思いが、光秀の胸をよぎる。


「明智十兵衛殿」

 藤孝は軽く会釈し、座を勧めた。光秀は礼を尽くして畳の目に膝を正しく置き、口上を述べた。浪々の身なれど、政の覚書を巻き、乱世に枠を与えたい志。武は外郭、文は核。己の筆を、器の骨にしたいこと。

 藤孝は相槌も挟まず、ただ黙って聴いていた。やがて膝の脇に置いた文箱から巻物を取り、細い指で紙の端を押さえた。

「乱の世に文を用いる者は少ない。だが、少ないからこそ価値がある」

 ささやきは、火鉢の炭が静かに崩れる音と同じくらいの大きさだった。けれど、紙に触れる指先が、言葉の軽さを補って余りあった。巻物は、紙の匂いに古い水の香を帯びている。

「まずは目にしていただきたいものがある。——将軍家の痕跡だ」


 案内されたのは、日が斜めに射しこむ狭い座敷だった。几帳面に束ねられた書付が幾つも横たわっている。藤孝が巻きをほどく。義輝の遺令、義昭の書付、諸社寺への御教書、奉行衆の連署。墨は枯れ、紙は柔らかく波打っている。

 幾筋もの筆跡が重なり、互いの上に薄く透けて見える。

 光秀は胸の底で何かが明瞭になるのを覚えた。

 ——武力は秩序の外郭で、秩序の核はことばだ。

 剣は形で示し、文は見えぬ骨を組む。骨は見えないが、折れれば全身が崩れる。

「これらが、いまではただの古紙のように扱われることがある。古紙は火にくべるに軽く、灰になるに早い」

 藤孝の声には、微かな憤が隠れていた。

「殿は火の勢より灰の軽さを怖れるのか」

「灰になるのは一瞬、灰にまみれたのちに忘れるのも一瞬。忘却の速さが、世を脆くする」

 光秀は黙って頷いた。忘却は、理の敵だ。敵は刀で斬れない。紙でしか止められぬときがある。


 日も傾き、辞去して家に戻る頃には、坂本の空に薄い茜が差し込んでいた。門をくぐると、煕子が里芋を薄く延ばし、形を揃えて並べているところであった。

「揃うと美しい」

 煕子が笑う。

「政も同じだ。揃うことは、無理やり同じ形にすることではない。違いを収める器を整えることだ」

「器が欠けても、並べたら美しい」

 煕子が欠けた器の縁を指でなぞる。

「殿の言葉も、時に欠けます。でも、並べ方で意味が変わります」

 光秀は欠けの線を指で追い、昼間見た巻物の波打ちを思い出した。欠けの線は恥の記憶だ。恥があるから、人は器を丁寧に扱う。


 翌朝、藤孝からの命が届いた。若狭の情勢調査。

 雪は半ば薄くなり、土が顔を出したところは凍り、日影は泥のままだった。光秀は、同行を命じられた若い徒士とともに、北へ向かった。

 若狭へ入る道は、山の腹を縫って通い、谷は相変わらず深い。ところどころで土が荒れ、用水の樋が傾き、畦道は崩れている。冬にしては人の影が多かった。男たちはうつろな目で焚き火を見つめ、女たちは背に子を負い、手を動かして荒れた藁の束を編んでいる。

 土一揆のあとだと、村の古老が言った。

「年貢の割り付けを改めると言うて来た役人に、若い衆が噛みついた。あんたらには理があるのかと」

「理」

「誰もが自分の理のほうがまっとうやと、そう思うもんや」

 古老の目の底には、冬の水のように濁りが溜まっている。憎悪の粒は小さく、だが、溶けずに残る類のものだった。足袋の裏に、目に見えぬ小石が絡みつくような感じがして、光秀はときどき歩みを止め、足首を回した。


 一番荒れた村では、長屋の屋根に穴があき、納屋の戸が外されていた。土間の隅の籾は湿り、鼠の足跡が紙屑の上を黒く往き来している。

 村の寄り合いに呼ばれ、光秀は、起こったことを聞いた。

 ——年貢の割り当てが今年から変わるという知らせ。

 ——村の大きな家は、古くからの権に任せて負担を減らし、小さな家が泣いた。

 ——寺の坊主は、双方にいい顔をして、封を甘くした。

 ——若い者が夜に集まり、納屋の戸を外し、蔵の鍵を取り上げた。

 ——村の大人衆が止めに入ろうとしたら、誰も彼もが、相手の襟首を掴んだ。

 掴んだ手は、同じ土の色だった。泥は同じ匂いをする。だが、その泥の上に乗せる言葉が違えば、互いの眼はすぐに鋭くなる。


「争いは理の不足から生ず」

 光秀は夜宿の薄い灯の下で、覚書にそう記した。

 だが、すぐにその一行に細い線を引いた。

 ——不足しているのは理そのものではなく、理を置く器だ。

 理は骨である。骨は皮膚の下で目に見えぬが、皮膚を形よく張らせる。骨が折れれば、皮膚は美しくても立たない。

 村の争いには骨がない。骨は、封であり、恥であり、約束の重みである。

 灯心が短くなり、炎がときおり黒く委れた。光秀は筆を置き、外に耳を澄ます。冬の海の音が遠くで低く続き、時おり風が木々の枝先を鳴らした。


 翌日、光秀は村の空き地に人を集めさせた。大人衆と若い者、女も子も、皆が冷気の中で肩を寄せ合って立っている。

「封をこしらえよう」

 光秀が言うと、一人が鼻で笑った。

「封なんぞ、坊主が勝手に破る」

「坊主に恥を負わせる封だ。封を寺に預け、破る日付を皆で決め、破ったら誰の恥になるかを紙に記す」

「恥?」

「恥は寒い。背に流れる。寒さを知れば、人は焚き火を寄こし合う」

 皆が顔を見合わせた。言葉は抽象である。抽象は腹の足しにならない。だが、抽象の形が分かると、人は自分の行いに線を引ける。

 光秀は具体を並べた。

「用水の分配は、朝の鐘と暮れの鐘。一日の終わりに、どれだけ流したか、寺に置いた板の目盛に書き付ける。破りは翌月の割付で罰する。——それと、今夜から三十日、他村の田畑に若者は入らぬ。入れば罰は重くする。罰は銭でなく手間へ変える。相手の畦を積む日を、罪と数える」

 声は低く、早口ではいけない。風が言葉を持って行かぬよう、ひとつひとつの音に重みを与えた。

 古老が頷いた。若い者は唇を噛み、やがて一人が「やってみよう」と言った。

 理だけでは動かぬ。だが、理が形をとったとき、人は動く。


 村をいくつか巡り、帳面に印を重ね、寺に封を置き、光秀は坂本に戻った。道すがら、波打ち際を歩くと、風が塩を運んで鼻に刺さる。海は広く、冬でも動く。人の争いがどれだけ小さく見える瞬間でも、争いの中にいる者には海より深い。

 坂本に着いた夕刻、藤孝の屋敷に再び招じられた。報告の文を読み終えた藤孝は、しばらく黙し、やがて扇を閉じた。

「封を置いたそうだな」

「封は、破ることができるものです。破ると寒い、と皆が思えるようにするのが先と考えました」

「恥を道具に使うのは、容易ではない」

「恥は自分のための熱です。他人からの指摘では温まらない。だから、場が要る」

「場」

「寺でも良い。誰かが見ているという実感があれば、恥は自ら灯る」


 藤孝はうなずき、文箱の底から一通の書を取り出した。封の紙は厚く、筆跡は強い。

「殿に、ひとつ見せておきたい」

 紙面には、見慣れぬ勢いの文字が走っていた。

「尾張の織田信長——奇矯と革新、両刃の男」

 藤孝の言葉は淡々としていた。だが、その「両刃」という音の奥に、鋼の擦れる匂いが漂った。

 光秀は眉根を寄せる。尾張のうつけと呼ばれた名は、近年では別の響きを帯びていると聞く。比類なき速度で常道を破り、常道の形を作り直す者。

「理は彼に使われるのか、それとも砕かれるのか」

 光秀の独白は、そのまま空気の中に残った。藤孝は首を少し傾け、笑いにも似ぬ、しかし柔らかな表情を一瞬だけ見せた。

「使われるか、砕かれるか。——殿は問う。私はもう一つ、別の問いを持つ。砕かれてでも残る理は何か、と」

 光秀は目を伏せ、言葉を探した。砕けても残るのは骨の粉だ。粉は見えにくいが、決して無に帰さない。粉は接着の素になり、器の継ぎ目に混ぜられて新しい線になる。

「……砕けた粉は、継ぎの糊になります」

「ならば、殿の筆は継ぎの線を描く役か」

「線を、見えるように」

 藤孝は満足げに頷いた。

「尾張のその男は、速度で世を変えようとしている。速度は美しく見える。だが、速度の陰で、線は見えにくくなる。殿が線を見せるなら、出会うべきだろう」


 帰途、湖の面は暗く、波の端にだけ月が細く乗っていた。家に戻ると、煕子は火を落とすところだった。

「若狭は、どうでした」

「荒れていた。荒れたからこそ、人は規矩を欲しがる。規矩は、重すぎれば折れ、軽すぎれば飛ぶ。ちょうどよい重さを見つけるまで、試すしかない」

「器も、そうです」

 煕子は欠けた茶碗を取り出し、昨日の続きの線を描いた。漆に粉を混ぜた線は、金ではないが、灯にかざすと柔らかい光を吸った。

「今日、藤孝公から尾張の男の話を聞いた」

「殿が眉を寄せるときは、だいたい速度の話です」

 光秀は笑った。

「速度は、音を置き去りにする。音が聞こえぬと、人は怒鳴る。怒鳴り合えば、言葉は壊れる」

「速度に合わせて、息を短くすればよろしい」

「短くすれば、息が切れる」

「息が切れたことに気づく器が、家です」

 煕子は茶碗を両手で包み、膝に乗せた。

「殿の筆は、長く息をするように書いてください。短く走ってもよいですが、長く息をする場所を作ってください」

 長く息をする場所。光秀は、自分の紙の余白を思い描いた。余白は空ではない。人が入る場所、息が整う場所。速度の中に余白を刻む。それが自分の役目かもしれない。


 数日、光秀は坂本に留まり、細川家の庶務を手伝いつつ、若狭で見た事どもを記録に落とした。寺社の座の規式と照らし合わせ、蔵米の積み上げ方と割付の書式を、村に合わせて簡素に作り直す。古い律令は枠だが、枠に嵌める木はその時々の湿りで変えるべきだ。

 その合間に、藤孝はときおり呼びつけ、書庫の隅で小さな問答を仕掛けた。

「殿、理と義の違いは」

「義は、心が先に動く。理は、心の動きを受け止める」

「では、義が理を破るときは」

「破らせぬために、理はしなやかでなければならない」

「しなやかさは、具体にどう現れる」

「恥の置き場と、罰の変換。銭を罰にするのは早いが、恥を薄める。手間に変えれば、恥は残る」

 藤孝は「なるほど」と言って、別の巻物を開いた。そこには義輝の筆があり、戦の後の寺社への配慮が丁寧に綴られていた。

 義輝の筆は、若き日の剣の輝きとは違う柔らかい強さがあった。剣は奪い、筆は与える。与える強さは、奪う強さよりも遅い。遅いがゆえに、深く残る。


 やがて、尾張からの便りが届いた。織田信長が、京の動向に関心を強め、上洛の筋道を探っているという。噂はどれも半ばしか確かでない。だが、半ばの確かさが積もれば、全体の輪郭が見えてくる。

 藤孝は言う。

「義昭公の御用を再び京に戻し、権威の再建を図るには、尾張の力が要る。だが、力は両刃。殿は両刃の片側に触れ、切れ味を見て来られよ」

 光秀は応えた。「いつ」

「近いうちに。——ただ、殿。尾張の男は速い。速さは殿の息を奪うやもしれぬ。息を切らさぬ余白を、自分の中に持って行きなさい」

 光秀は頷き、懐に手を入れた。そこには、煕子が忍ばせた小さな紙片がある。

 ——殿が言葉を選ぶとき、言葉が殿を選ぶように。

 紙を指先で揉むと、体温で少し柔らかくなった。


 坂本の町は、冬の終わりに近づくと、雪の色が変わった。白は灰に、灰は薄い茶に。湖の風に春の匂いが混じり始める。

 坂の途中で、寺の鐘が鳴った。余韻は長く、耳の内側に残る。

 光秀は足を止めず、鐘の音の長さを背に受けた。長い音は、短い決断を一瞬だけ支える。短い決断の連なりが、長い理になる。

 その夜、煕子が里芋を薄く延ばしてまた並べた。形は揃い、皿の上で円を描く。

「揃うと、美しい」

「揃わぬものを収める器が、美しいのだ」

 光秀は器の欠けをなぞり、昼間見た義輝の筆の線と重ねた。

「殿は、揃わぬままに揃える言葉を、少しずつ見つけておられます」

「見つけるというより、置き直している。古い言葉を、今の重みに合わせて、置くところを探す」

「置き場が見つかるのは、春が近いからかもしれません」

 煕子の声は細いが、芯がある。芯のある声は、速度に負けない。速度は音を置き去りにする。芯のある声は、置き去りにされても道を忘れない。


 夜更け、灯を落とす前に、光秀は紙に数行だけ書きつけた。

——争いは理の不足から生ず。

——不足とは、理そのものではなく、理を置く場の不足。

——場は封であり、恥であり、見る眼である。

——見る眼を養うには、速度の陰影を見る余白がいる。

 墨が乾き、紙がわずかに波打った。それは近い日、別の紙に張られて継ぎ目になる。継ぎ目は恥だが、恥は器を強くする。

 外の風はまだ冷たく、屋根の雪は時おり小さく身じろぎをした。

 光秀は横になり、目を閉じた。眠りに落ちる直前、どこかで聞いたような足音が、遠くの廊下を静かに渡っていく気配がした。速度の足音か。あるいは、新しい主の歩幅か。

 ——門は狭い。だが、開いている。

 その言葉が、灯の消えた闇の中で、白い細い字になって、ゆっくりと胸の内側に降り積もっていった。

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