雲の上の景色

奈良まさや

第1話

第一章 ほろ酔いの雲


 2036年の東京の夜は、やけにクリアだった。

 誰もベロベロに酔わないからだ。みんな腕に小さな時計みたいな機械を巻いて、乾杯のたび、血液中のアルコールを「転送」して雲の向こうに預ける。――クラウドサーバ。名前のとおり雲に預けるのだという。物理的な雲じゃない、と先輩は笑って言ったが、私には空の色がビールように見えた。


「吉村、もう一杯いけるでしょ。クラウド繋いでるなら、理性は無限よ」


 居酒屋大衆ネビュラの個室。27歳、仕事もこなせるようになった広告代理店コピーライターの私は、先輩の水城さんにプレゼン反省会の締めを食らっていた。

 水城先輩の手首では、銀色の輪が小さく脈打っている。お猪口を傾けるたびに輪の脇に青い点滅。吸い上げられたアルコールは、回路を通ってクラウドの遠いサーバに送られていく。ほろ酔いの手前で快楽がホールドされ、顔色はほどよく、足取りはまっすぐ。

 人類はついに“都合のいい酔い方”を手に入れた。


「そもそも、これは元々アル中治療用の医療機器だったの。緊急承認からの一般開放。ね、文明って優しいでしょ?」

「優しいですけど、なんか……味気ないですね」


 私の手首にも、会社の福利厚生で配られた廉価版クラウドラが巻かれている。

 乾杯、ピッ。追加、ピッ。――会計もピッ。全部ピッ。

 問題は料金で、サーバ使用料は“重量課金”。つまり“どれだけ飲んだか”がそのまま請求書になる。各社価格はまちまちで、広告は「今ならビール一本無料!」なんて軽い調子だ。


「で、吉村。覚えときなさい。アルコールだけが飛んでいくんじゃないの」

「え?」

「血液データよ。アルコール濃度、肝数値、糖、脂質。ぜんぶクラウドの向こうで解析。だから翌朝の健康アドバイスが届く。便利でしょ」

「……便利すぎて、ちょっと怖いです」


「怖いと思えるうちは大丈夫。怖さは使い方を丁寧にするからね」

 先輩はボトルの残りを注ぎながら続けた。

「でも覚えておきなさい。支払いは忘れたころにやってくるわよ。請求メールの件名がだいたい“雲からのお便り”。可愛い顔してエグい額が入ってる」


 その夜、私はほどほどに飲み、ほどほどに笑い、ほどほどに頭が冴えたまま終電に乗った。

 帰り道のガード下、私の腕輪が小さく振動する。

 ――“雲からのお便り:ご利用ありがとうございます(4月分)”。

 開くのが嫌で、一度閉じる。

 空は晴れていた。晴れているのに、少し曇って見えた。


第二章 彼は雲を売る


 週明け。社内チャットに、ビジネス交流会の招待が飛んできた。

 テーマは「ウェルネス×クラウド」。会場は表参道の貸しギャラリー。

 私は先輩の付き添いで参加した。無料のワインが出て、みんな表情がやけに均一だ。酔いの偏差がない集団は、微笑の振幅まで小さくなる。


「初めまして。篠崎です」


 そう名乗った男は、たぶん三十代前半。黒のスーツに、靴底だけ白いスニーカー。清潔、計算、金の匂い。

 名刺には《AER(アエル)クラウドヘルス株式会社 代表取締役 篠崎 蓮》。

 ロゴは薄い雲に小さな梯子。雲に登る気持ちよさを売るのだろう。


「弊社は、アルコール転送の“摩擦”を減らしています。装着負担、データ待機時間、課金の不透明さ――全部、軽く。飲み会がもっとフラットになる」


 プレゼンは滑らかで、笑いどころがきっちり二分おきに来る。

 私は笑った。タイミングで笑ったのか、内容で笑ったのかは怪しい。


「吉村さん?」

 名札を見た彼が、少し身を乗り出す。

「広告代理店ですよね。飲みの席は多いんじゃないですか。クラウドサーバって最初は料金に驚く。でも、うちは上限課金プランもあります。飲み放題ならぬ“預け放題”。安心でしょ」

「安心……ですか?」

「価格は心理の錘です。安心を固定すると、人はよく飲みます」


 その言い切り方に、私はちょっと笑ってしまった。

 ――この人、感じが悪い。でも、不思議と気持ちいい。


 彼はパンフレットを開いて私に見せた。

「医療由来の技術だから、安全性は最優先。うちは倫理審査も厳格。データは匿名化、解析は目的限定。広告連携? 一切なし」

 スライドの端には小さく“第三者監査済”。

 さっきの言い切りと、この清潔な字面の落差が、逆に眩しく見えた。


「水城さん」

 いつのまにか先輩が横に来ていた。

「クラウドサーバの会社って儲かるんですか」

「これからですかね。正気を保つ装置は、いつだって高い。儲けよりお客様の安全の装置に投資です」

 篠崎は笑った。

「うちはね、“よく生きる権利”に課金している。飲酒も、その管理も、自己決定です。僕らはレールをよく磨くだけ」


 会の終わりに、名刺の裏へ走り書きが添えられた。

 ――《週末、チームで飲みに行きます。雰囲気、見に来ます?》。

 私は“見に行く”に〇をつけて送信した。

 返信はすぐ来た。

 ――《雲の上で、会いましょう》。


 妙な言い方だと思いながら、私は少しだけ胸が高鳴るのを許した。


第三章 雲の裏側、いい香り


 金曜の夜。篠崎のチームとの飲み会は、銀座の路地裏にある会員制バーだった。

 看板はない。扉を開けると、静かな音楽、乾いたカウンター、透明な氷。

 店主はさりげなく手首のクラウドラを外してガラス皿に置いた。

「ここでは“素の一杯”も選べます。よろしければ」

 その言い方が、罪の予告みたいで心地よかった。


 篠崎のメンバーは五人。エンジニア、医師免許持ちのリサーチャー、法務、営業、そして無肩書きの男。

 乾杯。各自の腕輪が淡く点滅し、私の廉価版だけが妙に明るい。

 ――私だけ、よく飲む設定になっていないだろうか。

 焦ってアプリを開くと、プランは“基本”。上限なし。つまり底もなし。

 《支払いは忘れたころにやってくる》――水城先輩の助言がよぎる。上限を探す。見当たらない。

 篠崎が笑った。


「吉村さん、うちのアプリに乗り換えません?」

 不意に隣に滑り込んできた。

「UIは軽いし、上限は一目でわかる。ぜんぶ“安心”のために作ってます」

「安心が好きなんですね」

「ええ。安心が好きで、不安はもっと好き」


 冗談――たぶん。そう思いたい。

 話題は仕事へ移る。臨床データの扱い、匿名化の基準、オプトインのUX。

 この人たちは、規制の文章を詩のように暗唱する。どの言葉が軸で、どの言葉が余白か、知っている。


「データはどこへ行くんですか?」

 思わず訊いた。

「“行く”ではなく“来る”。ユーザーの血液データは、うちに“来る”。その先は、来ない。来ないように設計している」

「設計上は」

「設計上は」


 胸で小さな鈴が鳴る。

 営業の青年が話題を変える。

「次のリリースで“クラウド・カロリー”を発表します。摂取後の糖脂質を記録し、代謝ピークのタイミングをガイド、内臓の負担を分散」

 医師の女性が補足する。

「“吸い上げ”じゃなくて“遅延ガイド”。夜間の臓器負荷を減らす。安全性は動物で検証済み」


「つまり、夜中に食べても朝にまとめて太れる?」

 私が言うと、カウンターの奥で店主が噴き出す。

 篠崎は笑わない。眼だけが笑っている。


「吉村さん。副業、興味あります?」

「副業?」

「コミュニケーションの人が足りない。医療も法も、結局は“言葉”。“雲からのお便り”を、読みたくなる言葉に」


 タブレットが置かれ、ダッシュボードがちらり。

 DAU、課金曲線、離脱ポイント。

 そして――“第三者連携:非活性(管理者のみ可視)”。私は、見なかったことにした。


「報酬は、雲の上レベルで用意します」

「物理的には地上ですよね」

「もちろん。でも、景色は変えられる」


 その時、バーのドアが控えめに鳴り、一人の女性が入ってきた。

 黒髪を無造作に束ね、地味なグレーのコート。目の下に薄い隈。視線は鋭い。

 篠崎が一瞬だけ目を細める。あの笑顔の仮面を曇らせうる相手。


「――匿名化、外してる」

 低い声。言葉は短いが、専門家の温度。

 彼女は“知っている側”の口ぶりで、仕組みの綻びを突く。


 私は息を呑む。

 ただのユーザーじゃない。“雲”の中にいた人だ。


 私の腕輪が、ふいにピッと鳴った。

 ――“雲からのお便り:今月の健康アドバイス”。

 通知の下に、差出人不明のメール。

 ――《あなたの血液データ、いくらで売れますか?》


 深呼吸して通知を閉じる。

 篠崎の横顔は、整っている。

 怖さは、丁寧に使えば便利だ――水城先輩の言葉が反響する。

 怖さに値段がついた瞬間から、これは取引になる。私は、取引が嫌いじゃない。


 帰り際、エレベーターホールでふたりきりになった。

 ドアが閉まりかけ、篠崎が手を伸ばす。金属音、静止。

「雲の上の空気、気に入ってくれた?」

 至近距離。ミントの香り。

 彼の指先が私の手首のクラウドラに触れる。冷たい輪が、体温を帯びた。

「落ちないように」

 彼は軽く私の手を握り、すぐ離した。

 キスではない。けれど、それより長く残る感触だった。


第四章 父の声、雲の下


 土曜の昼下がり。

 ワンルームに、曇りガラス越しの光が射す。

 クラウドラの請求通知を無視して、スマホを裏返す。代わりに手に取ったのは、古びたフォトフレーム。父の写真。


 吉村浩二――地方の市役所で三十年勤め、定年後は畑。

 額の皺は深いのに、目尻は笑っている。「普通の父親」だった。


「亜希子、お前は急がなくていいんだ。楽しいことは、急いでなくなる」


 父は慎重で、保守的で、無欲。飲み会では最初の一杯で真っ赤になり、すぐウーロン茶。

 「酔って人に迷惑かけるくらいなら、最初から酔わなきゃいい」

 クラウドサーバが普及した今でも、父はきっと「使わない」側だ。


 父の財布は、いつも薄かった。退職金も、母の看病と葬儀でほとんど消えた。

 「金は持っても腐る。畑に肥料をやるほうがましだ」

 あの笑い声――今思えば「金がない言い訳」だったのかもしれない。


 父は繰り返した。「正直に生きろ」

 でも、東京で働き始めて、一年で思い知った。

 ――正直は、安い。


 父の面影は、いまや雲の下に沈んでいる。

 だから篠崎の眩しさに惹かれた。父が絶対に選ばない道を、彼は迷いなく踏み出している。

 “安心を売り、不安を仕入れる”。その逆説の上で踊る姿。そこに、父にはなかった力を見た。


 机の上の請求通知がまた震える。

 “雲からのお便り:ご利用金額のご確認”。

 父なら、ため息をついて払い、二度と使わないだろう。

 私は、笑ってスワイプした。――まだ払わない。払わなくても、雲は笑って受け取ってくれる。


「父さん、ごめん。私、正直よりも面白いほうに行くよ」


 写真の笑顔が少し寂しく見えた。その寂しさが、私を追い詰め、同時に背中を押した。


 日曜の午後。篠崎のオフィスで“話の続き”。

 正直の父か、雲の篠崎か。答えは、とっくに出ている。

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