雲の上の景色
奈良まさや
第1話
第一章 ほろ酔いの雲
2036年の東京の夜は、やけにクリアだった。
誰もベロベロに酔わないからだ。みんな腕に小さな時計みたいな機械を巻いて、乾杯のたび、血液中のアルコールを「転送」して雲の向こうに預ける。――クラウドサーバ。名前のとおり雲に預けるのだという。物理的な雲じゃない、と先輩は笑って言ったが、私には空の色がビールように見えた。
「吉村、もう一杯いけるでしょ。クラウド繋いでるなら、理性は無限よ」
水城先輩の手首では、銀色の輪が小さく脈打っている。お猪口を傾けるたびに輪の脇に青い点滅。吸い上げられたアルコールは、回路を通ってクラウドの遠いサーバに送られていく。ほろ酔いの手前で快楽がホールドされ、顔色はほどよく、足取りはまっすぐ。
人類はついに“都合のいい酔い方”を手に入れた。
「そもそも、これは元々アル中治療用の医療機器だったの。緊急承認からの一般開放。ね、文明って優しいでしょ?」
「優しいですけど、なんか……味気ないですね」
私の手首にも、会社の福利厚生で配られた廉価版クラウドラが巻かれている。
乾杯、ピッ。追加、ピッ。――会計もピッ。全部ピッ。
問題は料金で、サーバ使用料は“重量課金”。つまり“どれだけ飲んだか”がそのまま請求書になる。各社価格はまちまちで、広告は「今ならビール一本無料!」なんて軽い調子だ。
「で、吉村。覚えときなさい。アルコールだけが飛んでいくんじゃないの」
「え?」
「血液データよ。アルコール濃度、肝数値、糖、脂質。ぜんぶクラウドの向こうで解析。だから翌朝の健康アドバイスが届く。便利でしょ」
「……便利すぎて、ちょっと怖いです」
「怖いと思えるうちは大丈夫。怖さは使い方を丁寧にするからね」
先輩はボトルの残りを注ぎながら続けた。
「でも覚えておきなさい。支払いは忘れたころにやってくるわよ。請求メールの件名がだいたい“雲からのお便り”。可愛い顔してエグい額が入ってる」
その夜、私はほどほどに飲み、ほどほどに笑い、ほどほどに頭が冴えたまま終電に乗った。
帰り道のガード下、私の腕輪が小さく振動する。
――“雲からのお便り:ご利用ありがとうございます(4月分)”。
開くのが嫌で、一度閉じる。
空は晴れていた。晴れているのに、少し曇って見えた。
第二章 彼は雲を売る
週明け。社内チャットに、ビジネス交流会の招待が飛んできた。
テーマは「ウェルネス×クラウド」。会場は表参道の貸しギャラリー。
私は先輩の付き添いで参加した。無料のワインが出て、みんな表情がやけに均一だ。酔いの偏差がない集団は、微笑の振幅まで小さくなる。
「初めまして。篠崎です」
そう名乗った男は、たぶん三十代前半。黒のスーツに、靴底だけ白いスニーカー。清潔、計算、金の匂い。
名刺には《AER(アエル)クラウドヘルス株式会社 代表取締役 篠崎 蓮》。
ロゴは薄い雲に小さな梯子。雲に登る気持ちよさを売るのだろう。
「弊社は、アルコール転送の“摩擦”を減らしています。装着負担、データ待機時間、課金の不透明さ――全部、軽く。飲み会がもっとフラットになる」
プレゼンは滑らかで、笑いどころがきっちり二分おきに来る。
私は笑った。タイミングで笑ったのか、内容で笑ったのかは怪しい。
「吉村さん?」
名札を見た彼が、少し身を乗り出す。
「広告代理店ですよね。飲みの席は多いんじゃないですか。クラウドサーバって最初は料金に驚く。でも、うちは上限課金プランもあります。飲み放題ならぬ“預け放題”。安心でしょ」
「安心……ですか?」
「価格は心理の錘です。安心を固定すると、人はよく飲みます」
その言い切り方に、私はちょっと笑ってしまった。
――この人、感じが悪い。でも、不思議と気持ちいい。
彼はパンフレットを開いて私に見せた。
「医療由来の技術だから、安全性は最優先。うちは倫理審査も厳格。データは匿名化、解析は目的限定。広告連携? 一切なし」
スライドの端には小さく“第三者監査済”。
さっきの言い切りと、この清潔な字面の落差が、逆に眩しく見えた。
「水城さん」
いつのまにか先輩が横に来ていた。
「クラウドサーバの会社って儲かるんですか」
「これからですかね。正気を保つ装置は、いつだって高い。儲けよりお客様の安全の装置に投資です」
篠崎は笑った。
「うちはね、“よく生きる権利”に課金している。飲酒も、その管理も、自己決定です。僕らはレールをよく磨くだけ」
会の終わりに、名刺の裏へ走り書きが添えられた。
――《週末、チームで飲みに行きます。雰囲気、見に来ます?》。
私は“見に行く”に〇をつけて送信した。
返信はすぐ来た。
――《雲の上で、会いましょう》。
妙な言い方だと思いながら、私は少しだけ胸が高鳴るのを許した。
第三章 雲の裏側、いい香り
金曜の夜。篠崎のチームとの飲み会は、銀座の路地裏にある会員制バーだった。
看板はない。扉を開けると、静かな音楽、乾いたカウンター、透明な氷。
店主はさりげなく手首のクラウドラを外してガラス皿に置いた。
「ここでは“素の一杯”も選べます。よろしければ」
その言い方が、罪の予告みたいで心地よかった。
篠崎のメンバーは五人。エンジニア、医師免許持ちのリサーチャー、法務、営業、そして無肩書きの男。
乾杯。各自の腕輪が淡く点滅し、私の廉価版だけが妙に明るい。
――私だけ、よく飲む設定になっていないだろうか。
焦ってアプリを開くと、プランは“基本”。上限なし。つまり底もなし。
《支払いは忘れたころにやってくる》――水城先輩の助言がよぎる。上限を探す。見当たらない。
篠崎が笑った。
「吉村さん、うちのアプリに乗り換えません?」
不意に隣に滑り込んできた。
「UIは軽いし、上限は一目でわかる。ぜんぶ“安心”のために作ってます」
「安心が好きなんですね」
「ええ。安心が好きで、不安はもっと好き」
冗談――たぶん。そう思いたい。
話題は仕事へ移る。臨床データの扱い、匿名化の基準、オプトインのUX。
この人たちは、規制の文章を詩のように暗唱する。どの言葉が軸で、どの言葉が余白か、知っている。
「データはどこへ行くんですか?」
思わず訊いた。
「“行く”ではなく“来る”。ユーザーの血液データは、うちに“来る”。その先は、来ない。来ないように設計している」
「設計上は」
「設計上は」
胸で小さな鈴が鳴る。
営業の青年が話題を変える。
「次のリリースで“クラウド・カロリー”を発表します。摂取後の糖脂質を記録し、代謝ピークのタイミングをガイド、内臓の負担を分散」
医師の女性が補足する。
「“吸い上げ”じゃなくて“遅延ガイド”。夜間の臓器負荷を減らす。安全性は動物で検証済み」
「つまり、夜中に食べても朝にまとめて太れる?」
私が言うと、カウンターの奥で店主が噴き出す。
篠崎は笑わない。眼だけが笑っている。
「吉村さん。副業、興味あります?」
「副業?」
「コミュニケーションの人が足りない。医療も法も、結局は“言葉”。“雲からのお便り”を、読みたくなる言葉に」
タブレットが置かれ、ダッシュボードがちらり。
DAU、課金曲線、離脱ポイント。
そして――“第三者連携:非活性(管理者のみ可視)”。私は、見なかったことにした。
「報酬は、雲の上レベルで用意します」
「物理的には地上ですよね」
「もちろん。でも、景色は変えられる」
その時、バーのドアが控えめに鳴り、一人の女性が入ってきた。
黒髪を無造作に束ね、地味なグレーのコート。目の下に薄い隈。視線は鋭い。
篠崎が一瞬だけ目を細める。あの笑顔の仮面を曇らせうる相手。
「――匿名化、外してる」
低い声。言葉は短いが、専門家の温度。
彼女は“知っている側”の口ぶりで、仕組みの綻びを突く。
私は息を呑む。
ただのユーザーじゃない。“雲”の中にいた人だ。
私の腕輪が、ふいにピッと鳴った。
――“雲からのお便り:今月の健康アドバイス”。
通知の下に、差出人不明のメール。
――《あなたの血液データ、いくらで売れますか?》
深呼吸して通知を閉じる。
篠崎の横顔は、整っている。
怖さは、丁寧に使えば便利だ――水城先輩の言葉が反響する。
怖さに値段がついた瞬間から、これは取引になる。私は、取引が嫌いじゃない。
帰り際、エレベーターホールでふたりきりになった。
ドアが閉まりかけ、篠崎が手を伸ばす。金属音、静止。
「雲の上の空気、気に入ってくれた?」
至近距離。ミントの香り。
彼の指先が私の手首のクラウドラに触れる。冷たい輪が、体温を帯びた。
「落ちないように」
彼は軽く私の手を握り、すぐ離した。
キスではない。けれど、それより長く残る感触だった。
第四章 父の声、雲の下
土曜の昼下がり。
ワンルームに、曇りガラス越しの光が射す。
クラウドラの請求通知を無視して、スマホを裏返す。代わりに手に取ったのは、古びたフォトフレーム。父の写真。
吉村浩二――地方の市役所で三十年勤め、定年後は畑。
額の皺は深いのに、目尻は笑っている。「普通の父親」だった。
「亜希子、お前は急がなくていいんだ。楽しいことは、急いでなくなる」
父は慎重で、保守的で、無欲。飲み会では最初の一杯で真っ赤になり、すぐウーロン茶。
「酔って人に迷惑かけるくらいなら、最初から酔わなきゃいい」
クラウドサーバが普及した今でも、父はきっと「使わない」側だ。
父の財布は、いつも薄かった。退職金も、母の看病と葬儀でほとんど消えた。
「金は持っても腐る。畑に肥料をやるほうがましだ」
あの笑い声――今思えば「金がない言い訳」だったのかもしれない。
父は繰り返した。「正直に生きろ」
でも、東京で働き始めて、一年で思い知った。
――正直は、安い。
父の面影は、いまや雲の下に沈んでいる。
だから篠崎の眩しさに惹かれた。父が絶対に選ばない道を、彼は迷いなく踏み出している。
“安心を売り、不安を仕入れる”。その逆説の上で踊る姿。そこに、父にはなかった力を見た。
机の上の請求通知がまた震える。
“雲からのお便り:ご利用金額のご確認”。
父なら、ため息をついて払い、二度と使わないだろう。
私は、笑ってスワイプした。――まだ払わない。払わなくても、雲は笑って受け取ってくれる。
「父さん、ごめん。私、正直よりも面白いほうに行くよ」
写真の笑顔が少し寂しく見えた。その寂しさが、私を追い詰め、同時に背中を押した。
日曜の午後。篠崎のオフィスで“話の続き”。
正直の父か、雲の篠崎か。答えは、とっくに出ている。
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