第20話 究極の裏切り、献身


 リネン室の冷たい空気が、火照りきった俺、佐久間悠斗の肌を突き刺す。葵と過ちを犯した直後の現実は、あまりにも重く、そして静かだった。乱れた浴衣を直し、言葉もなく部屋を出た俺たちは、共犯者のように視線を合わせることもなく、それぞれの部屋へと続く廊下を歩いた。葵の背中が角を曲がって見えなくなった瞬間、俺の全身を、地獄の業火で焼かれるような、凄まじい罪悪感が襲った。


 何をしてしまったんだ、俺は。

 亮太を裏切った。親友でありながら、その妻を、この温泉旅行という家族団欒の場で、獣のように貪ってしまった。

 そして、春香を裏切った。俺の妻として、一点の曇りもない愛情と信頼を注いでくれる彼女を、俺は奈落の底へと突き落とすような、究極の裏切り行為に及んだのだ。


 自分の部屋の前にたどり着いた俺は、震える手で、障子に手をかけた。中からは、春香と紬の、穏やかな寝息が聞こえてくる。この静かで、幸せな寝息が、俺の罪の重さを、より一層際立たせていた。俺にはもう、この部屋に入る資格すらない。


 しかし、俺の足は、意思に反して、ゆっくりと部屋の中へと踏み入れていた。そして、ある狂気じみた考えが、俺の頭を支配し始める。


 罪は、犯してしまった。もう、取り返しはつかない。ならば、せめて、この罪悪感を、上書きしなければ。葵を抱いたこの身体で、今度は妻を抱くのだ。葵への欲望を、春香への献身的な愛という形で昇華させることで、俺は自分自身の心を麻痺させ、この地獄から逃れようとした。それは、あまりにも醜く、独りよがりな贖罪の形だった。


 俺は、音を立てずに春香が眠る布団のそばに膝をついた。月明かりに照らされた彼女の寝顔は、あどけなく、まるで天使のようだ。その無垢な姿が、俺の罪深さを容赦なく抉る。俺は、この天使を、今から汚そうとしているのだ。


「……春香」


 俺は、囁くような声で、彼女の名前を呼んだ。そして、眠っている彼女の身体を、そっと抱き寄せる。


「ん……悠斗さん……? どうしたの……?」


 目を覚ました春香が、俺のただならぬ様子に、戸惑いの声を上げる。俺の身体からは、まだ葵の匂いが消えずに残っているかもしれない。その恐怖に駆られながらも、俺は春香の言葉を、唇で塞いだ。


「……悠斗さん、なんだか、すごく、情熱的……」


 俺は、狂おしいほどの優しさで、春香の身体を隅々まで愛した。まるで、世界で一番大切な宝物に触れるかのように。これは、罰だ。葵を求めてしまった自分への罰。だからこそ、せめて妻である春香には、最高の献身を捧げなければならない。


 葵との行為が、欲望と罪悪感のぶつけ合いだったとすれば、春香との行為は、その罪を浄化するための、必死の儀式だった。俺は、春香の肌に触れるたびに、葵の感触を忘れようとした。春香の甘い声を聞くたびに、葵の喘ぎ声をかき消そうとした。


 しかし、俺の腕の中で、春香は、俺のその異常なまでの情熱を、ただひたすらに、自分への深い愛情の証だと信じて疑わなかった。


「……悠斗さん、すごい……。本当に、私のこと、愛してくれてるんだね……嬉しい……」


 春香は、恍惚とした表情で、何度も俺の首に腕を絡めてくる。その純粋な反応が、俺をさらに深い自己嫌悪の沼へと引きずり込んでいく。違うんだ、春香。俺は、お前を愛しているからじゃない。俺は、俺自身の罪から逃げるために、お前を利用しているだけなんだ。


 心の中で叫びながら、俺は、ただひたすらに、彼女を求め続けた。やがて、長い、長い結合が終わりを告げた時、俺の心に残ったのは、虚しさと、そして、決して上書きすることのできない、より一層深くなった罪悪感だけだった。


「……愛してる、悠斗さん」


 幸せそうに俺の胸で寝息を立てる春香を抱きしめながら、俺は、闇の中で静かに涙を流した。究極の裏切りは、献身という名の仮面を被り、この静かな夜に、完璧に遂行された。しかし、その代償として、俺の魂は、もう二度と救われることのない場所へと、堕ちてしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る