第18話 満たされない愛、心の隙
旅館の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。夕食の豪華な会席料理に舌鼓を打ち、広々とした大浴場で温泉を楽しんだ後、亮太と春香は早々に部屋に戻り、旅の疲れからか、紬と一緒に眠ってしまった。俺、佐久間悠斗は、一人、火照った身体を冷まそうと、誰もいない休憩処の長椅子に腰を下ろしていた。窓の外は漆黒の闇に包まれ、聞こえるのは渓流のせせらぎと、時折響く虫の音だけ。その静寂が、俺の心の罪悪感を、じりじりと焙り出していくようだった。
「……悠斗、まだ起きてたんだ」
不意に、背後からかけられた声に、俺はびくりと肩を震わせた。振り返ると、そこには湯上がりでほんのりと頬を上気させた、浴衣姿の葵が立っていた。しっとりと濡れた髪からは、石鹸の清潔な香りが漂ってくる。その姿は、あまりにも無防備で、艶めかしかった。
「ああ……。少し、眠れなくて」
「私も。……紬が、ようやく寝てくれたから」
葵は、そう言って、俺の隣にそっと腰を下ろした。俺たちの間に、気まずい沈黙が流れる。この距離感は、危険だ。日中の車内とは比べ物にならないほど、濃密で、甘い空気が俺たちを包み込んでいる。
「亮太も春香ちゃんも、楽しそうだね。今回の旅行、企画してくれて、本当に良かった」
葵が、夜空を見上げながら呟いた。その声には、感謝の響きと共に、どこか諦めに似た感情が滲んでいるように聞こえた。
「……葵は、楽しくないのか?」
「ううん、楽しいよ。楽しい、はず、なんだけど……」
葵は、言葉を濁すと、ぎゅっと浴衣の帯を握りしめた。その白い指先が、彼女の内面の葛藤を物語っている。やがて、彼女は意を決したように、俺の方へと向き直った。その瞳は、助けを求めるように、潤んでいた。
「……悠斗だから、言うね。私、亮太君とのこと、どうしたらいいか分からないの」
「どうしたんだよ。あんなに仲良くやってるじゃないか」
「うん、昼間はね。亮太君は、最高の夫で、最高の父親だよ。優しくて、誠実で……でもね、夜は、違うの」
葵の声が、震え始める。その告白が、彼女にとってどれほど勇気のいることか、俺は痛いほどに理解できた。
「亮太君は……優しいの。優しすぎるくらい。でも、それだけ。……私、亮太君との間では、一度も、感じたことがないの」
その言葉の意味を、俺は一瞬で悟ってしまった。血の気が、すうっと引いていく。葵は、夫である亮太との性生活に、全く満たされていなかったのだ。亮太の性的に淡白な性格が、その原因なのだろう。
「ごめん、こんなこと、悠斗に言うなんて、最低だよね。でも、誰にも言えなくて……。私が我慢すれば、それで家族はうまくいくんだって、自分に言い聞かせてきたんだけど……もう、限界みたい」
葵の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙が、俺の心の奥底に眠っていた、醜い感情を呼び覚ます。
「……私ね、今でも、時々、思い出しちゃうの。高校の時のこと。……悠斗との、あの夜のこと」
彼女は、そこで言葉を切ると、消え入りそうな声で、決定的な一言を、俺の心臓に突き刺した。
「……私が、本当に気持ちよくなれたのは……絶頂を感じられたのは、悠斗との時だけ、だったの……」
その告白は、俺の頭を鈍器で殴られたかのような、強烈な衝撃をもたらした。全身の血が、沸騰するような熱を帯びる。
俺が、葵にとって、唯一無二の男。
夫である亮太でさえ与えられない快感を、俺だけが、彼女に与えることができる。
その事実は、地獄のような罪悪感と共に、どうしようもなく甘美な、背徳的な優越感を俺にもたらした。親友の妻が、夫に満たされない身体を、俺にだけは委ねてくれる。その事実に、俺の心は醜く、そして激しく、歓喜していた。
「……葵」
俺は、彼女の名前を呼ぶのが精一杯だった。満たされない愛が、心の隙間が、今、俺たちの目の前で、禁断の扉を開けようとしている。俺は、その扉に手をかけるべきではないと分かっていながら、その誘惑から、もう目を逸らすことができなかった。渓流のせせらぎが、まるで俺たちの罪を洗い流そうとするかのように、虚しく響き渡っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます