第10話 贖罪の決意、自己犠牲


 五月に入り、キャンパスの木々の緑が日差しを浴びて力強く輝く季節になっていた。あの日、葵から妊娠の事実を告げられて以来、俺の世界は静かに、しかし決定的にその姿を変えてしまった。講義を受けていても、友人と食堂で昼食をとっていても、心のどこかで常に「父親である」という事実が、重たい錨のように俺の意識を繋ぎ止めている。誰にも言えない秘密は、日を追うごとにその重みを増していった。


 そんなある日の午後、葵から「大事な話があるから、会えないかな」というメッセージが届いた。俺たちは、人通りの少ない駅裏の喫茶店で会う約束をした。店に入ると、窓際の席に座る葵の姿が目に入った。まだ少し肌寒い日だったが、彼女は春らしい淡いピンク色のワンピースを着ていて、その姿は幸福のオーラに包まれているように見えた。


「悠斗、来てくれてありがとう」


 俺が席に着くと、葵は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、俺がずっと守りたいと願ってきた、太陽のような笑顔だ。しかし、よく見ると、その目にはうっすらと憂いの影が差していることに、俺は気づいてしまった。


「大事な話って、なんだ?」


「うん……。その前に、これ、結婚式の招待状」


 葵は、少し照れくさそうに白い封筒を差し出した。受け取った招待状には、亮太と葵の名前が、幸せそうに並んで印刷されている。式は、六月。もう、一ヶ月後のことだった。


「もちろん、行かせてもらうよ。スピーチだって、任せとけ」


 俺は、精一杯の笑顔を作って言った。親友として、彼女の門出を祝う。それが、今の俺に与えられた役割なのだから。俺の言葉に、葵はほっとしたように表情を和ませた。


「ありがとう。悠斗にそう言ってもらえると、心強いよ」


 ウェイトレスが運んできたコーヒーを一口飲んだ後、葵はカップをソーサーに置き、まっすぐに俺の目を見つめた。いよいよ、本題に入るらしい。俺は、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。


「……悠斗に、お願いがあって」


 その声は、決意を固めたように、静かで、しかし震えていた。


「この前の電話で話した、お腹の子のことなんだけど……」


 葵は、そっと自分のお腹に手を当てた。まだ、その膨らみは見て分からない。しかし、その中には、間違いなく新しい命が宿っている。俺と、彼女の、命が。


「……あの子は、あの日にできた悠斗との子だよ。もちろん、そう。でもね、万が一……ううん、億が一にも、本当のことが誰かに知られたら……私たちの幸せは、全部壊れちゃう」


 彼女の言葉は、俺の胸に突き刺さった。そうだ、彼女の言う通りだ。真実が、三人の関係を、そして生まれてくる子供の人生を、めちゃくちゃにしてしまう。


「だからね、悠斗にお願いしたいの。この真実は、絶対に、私たちの胸の中だけにしまっておいてほしい。誰にも言わないで。亮太君にも、もちろん、これから生まれてくるあの子にも……一生」


 葵の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、愛する人を欺く罪悪感と、それでも手に入れたい幸福を守り抜こうとする、母親としての強い意志が入り混じった涙だった。


「……真実は、墓場まで持っていくって、約束してほしいの」


 その言葉は、俺に対する死刑宣告にも等しかった。父親であるという、男としての根源的な権利を、未来永劫にわたって放棄しろという宣告。我が子を、我が子と呼ぶことを禁じ、その成長をただ遠くから見守り続けろという、あまりにも残酷な要求。


 一瞬、目の前が真っ暗になるような絶望が、俺を襲った。しかし、泣きながら俺に懇願する葵の姿を見た時、俺の心は、不思議なほど静かに、そして冷たく定まった。


 これは、罰なのだ。

 友情を裏切り、仄暗い欲望に身を任せた、俺への罰。

 彼女の幸せを願うと言いながら、その身体を貪った、俺への罰。


 この罰を、俺は受け入れなければならない。それが、俺の犯した罪に対する、唯一の贖罪なのだから。


「……分かった。約束する」


 俺は、はっきりとそう告げた。その声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。


「俺は、お前たちの幸せを、絶対に壊したりしない。あの子の父親は、亮太だ。俺は、お前の幼馴染として、そして亮太の親友として、お前たちの家族を、一生見守り続けるよ」


 俺の言葉を聞いて、葵は堰を切ったように泣き出した。それは、安堵の涙であり、そして、俺という共犯者を得たことへの、罪の涙でもあった。


 この日、俺は父親である権利を、自らの手で葬り去った。それは、葵の幸せを守るための、究極の自己犠牲。そして、俺と葵の間に、決して誰にも知られてはならない「秘密の共犯関係」が、固く、静かに成立した瞬間だった。窓の外では、傾きかけた西日が、街を茜色に染め上げていた。

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