第7話 最後の儀式、不可逆な選択


 三月。凍てつくような冬は過ぎ去り、日差しには確かな春の暖かさが感じられるようになった。白紙のままだった進路調査票にも、俺と葵はそれぞれ志望する都内の大学の名を書き込み、あとは卒業式と合格発表を待つばかりとなっていた。俺たちの歪な関係も、この高校生活の終わりと共に、幕を閉じるはずだった。


 十二月のあの夜以来、葵は亮太との関係を着実に修復していた。クリスマスも、バレンタインも、彼女は幸せそうな笑顔で亮太と過ごし、その報告を俺はいつも通り「親友」として聞いていた。もう、彼女の身体が拒絶反応を示すことはない。俺の役目は、完全に終わったのだ。そう、終わったはずだった。


「悠斗。卒業式の前の日、少しだけ時間、貰えるかな」


 卒業を数日後に控えた放課後、葵はそう切り出した。どこか覚悟を決めたような、それでいて物憂げな表情に、俺は嫌な予感を覚える。俺たちの「訓練」は、もうとっくに終わっている。これ以上、二人きりで会うべきではない。そう頭では分かっているのに、俺は彼女の誘いを断ることができなかった。


 卒業前夜。再び訪れた俺の部屋は、ダンボール箱が隅に積まれ、がらんとしていた。春からの新生活に向けた準備が、この場所での時間の終わりを告げている。向かい合って座る俺たちの間には、気まずい沈黙が流れていた。


「……今日で、本当に最後だから」


 葵が、震える声で言った。その手には、小さな紙袋が握られている。


「これまでの、お礼。悠斗には、なんて言ったらいいか分からないくらい、感謝してるの。悠斗がいなかったら、私は亮太君と、きっとダメになってた」


 そう言って、彼女は俺に紙袋を差し出した。中には、少しだけ値の張るブランドのボールペンが入っていた。大学生になったら使ってね、と彼女ははにかむ。その健気な心遣いが、俺の胸を締め付けた。


「こんなの、いいのに。葵が笑ってくれるなら、それで十分だよ」


「ううん、違うの。これは、ただのお礼じゃない。私の……けじめ、みたいなものだから」


 葵は、ゆっくりと立ち上がると、俺の隣に座り直した。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと俺の頬に手を添える。ひんやりとした彼女の指先が、俺の肌の上を滑った。


「私ね、悠斗に貰ったもの、一生忘れない。初めてのキスも、初めての快感も……初めての、全部……悠斗だったから、怖くなかった」


 その言葉は、俺の心を慰めると同時に、深く抉った。彼女の「初めて」は、すべて亮太に捧げるための練習だったはずだ。しかし、彼女の口調には、それだけでは片付けられない、熱のこもった響きがあった。


「だからね、最後にもう一つだけ、わがままを言ってもいい?」


 見上げてくる葵の瞳は、熱っぽく潤んでいた。その視線に射抜かれ、俺は身動きが取れなくなる。


「私たちの、卒業式がしたいの。感謝の印に、私を、全部悠斗に捧げたい」


「……葵、何を……」


「……お願い。今日は、何もしないで……」


 彼女は、俺の言葉を遮るように、懇願の言葉を続けた。その言葉が意味するところを理解した瞬間、俺の全身から血の気が引いた。避妊をしない。それは、俺たちが絶対に越えてはならないと決めた、最後の境界線だった。


「ダメだ、葵。そんなこと、絶対にできない。危険すぎる」


 俺は、最後の理性を振り絞って彼女を突き放そうとした。しかし、葵は俺の服の裾を強く掴んで離さない。


「お願い……。一度だけでいいの。悠斗との繋がりを、形で残したいなんて、そんな大それたことは考えてない。でも、私の高校生活の全部を、悠斗に受け止めて、終わらせてほしいの……!」


 それは、理屈ではなかった。感謝、依存、そして、おそらくは彼女自身も気づいていないであろう、仄暗い愛情。それら全てがごちゃ混ぜになった、魂の叫びだった。その叫びが、俺の理性の堰を、ついに決壊させた。


 心の奥底で、ずっと蓋をしていた欲望が、黒い炎のように燃え上がる。俺もまた、この関係をこのまま終わらせたくなかったのだ。彼女の中に、消えない証を刻みつけてしまいたいという、醜い独占欲が、俺の中にも確かに存在した。


 俺は、無言で葵を抱きしめ、深く、貪るようにキスをした。それはもはや、訓練でも、治療でもない。ただの雄と雌の、原始的な行為の始まりだった。


 その夜、俺たちは、何の隔たりもなく、熱く、深く結ばれた。肌と肌が触れ合う熱も、交わる息遣いも、これまでとは比べ物にならないほど濃密だった。危険な行為に身を委ねる背徳感が、俺たちの感覚を極限まで研ぎ澄ませていく。


 俺が、彼女の奥深くで熱い奔流を解き放った瞬間、葵は嗚咽のような声を漏らし、俺の背中を強く掻き抱いた。それは、俺たちの共犯関係が完成した音だった。


 これが、俺たちの卒業式。そして、決して引き返すことのできない、運命の選択。窓の外では、春の訪れを告げる生暖かい風が、静かに吹いていた。しかし、俺たちの心には、もう二度と、穏やかな春が訪れることはないのかもしれない。

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