幼馴染の練習台と、罪なき妻の防壁
舞夢宜人
第1話 友情の限界、片思いの諦念
じりじりと肌を焼くような西日が、レースのカーテンを通り抜けて部屋の温度をさらに押し上げていた。窓の外では、つくつく法師が最後の力を振り絞るように鳴いており、夏の終わりが近いことを告げている。しかし、その鳴き声とは裏腹に、アスファルトの照り返しを含んだ熱気は未だ衰える気配を見せない。俺、佐久間悠斗の部屋の古びたエアコンは、唸りを上げながらも懸命に涼しい空気を送り出しているが、受験勉強に集中する二人の熱量には焼け石に水だった。
俺の向かいに座る幼馴染の和泉葵は、長い髪をシュシュで無造作に束ね、白い首筋に滲んだ汗を指でそっと拭った。その何気ない仕草から、目が離せなくなる。彼女が問題を解くために少しだけ唇を尖らせる癖も、考えがまとまった瞬間にふわりと表情が緩むのも、俺だけが知っている特権だと思っていた時期が、かつてはあった。
「ねえ悠斗、ちょっと休憩しない?」
不意に顔を上げた葵が、少し潤んだ瞳で俺を見つめて言った。参考書とノートが山積みになった机の上で、彼女の放つ存在感だけが妙に際立っている。俺は、解きかけの問題から無理やり意識を引き剥がし、曖昧に頷いた。
「ああ、そうだな。もう集中力も切れてきた」
「だよね。今年の夏は特に暑いし」
そう言って、葵は椅子の上でぐっと背伸びをした。身体のしなやかな曲線が、着慣れたTシャツ越しにもはっきりと分かる。俺は慌てて視線を逸らし、机の上のシャープペンシルを意味もなく手に取った。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
「そういえばね、この前の日曜日、亮太君と映画を観に行ったんだ」
葵がスマホを手に取り、嬉しそうな声で切り出した。その名前が出た瞬間、俺の心臓は一度だけ、嫌な音を立てて軋んだ。藤井亮太。同じ高校に通う、葵の彼氏だ。爽やかで、誰にでも気さくで、そして何より、葵が心から想いを寄せている男。俺の入り込む隙など、どこにもない。
「ほら、見て。このカフェ、すごくお洒落じゃない?」
葵が画面をこちらに向けた。そこには、幸せそうに微笑む葵と、その隣で少し照れたように笑う亮太の姿があった。写真の中の二人は、あまりにも完璧な恋人同士に見える。俺は、喉の奥に詰まった何かを飲み込むようにして、無理やり笑みを作った。
「……ああ、良い雰囲気だな。楽しかったみたいで良かった」
「うん、すっごく。亮太君って、本当に優しいんだ。私が優柔不断でメニューを決められないでいても、嫌な顔一つしないで待っててくれるし、さりげなく車道側を歩いてくれたりとか」
葵は、本当に楽しそうに語る。その一つ一つのエピソードが、俺にとっては鋭い刃となって胸に突き刺さった。彼女の特別は、もう俺ではない。その事実を、こうして何度も突きつけられるたびに、笑顔の下で心が少しずつ死んでいくのが分かった。幼馴染という、心地良くて残酷なこの距離が、俺をがんじがらめにする。
葵の話に相槌を打ちながら、俺はただひたすらに「親友」という役割を演じ続けた。彼女の幸せを願い、彼女の恋を応援する、誠実な幼馴染。それが、俺がこの場所で息をすることを許される、唯一の方法だったからだ。叶わない恋だと、とっくの昔に諦めている。それでも、この想いを完全に消し去ることはできず、心の奥底で澱のように燻り続けていた。
「悠斗は彼女とか作らないの?悠斗だって、結構モテるのに」
不意に、葵が悪戯っぽく笑いながら尋ねてきた。その無邪気な一言が、俺たちの間に横たわる見えない壁を、残酷なまでに浮き彫りにする。お前のせいだよ、なんて言えるはずもない。お前が好きだから、他の誰も目に入らないんだ、と。
「今は受験でそれどころじゃないよ。それに、俺は葵みたいに器用じゃないからな」
精一杯の虚勢を張って、俺はそう答えた。葵は「そっかー」と少し残念そうに言いながらも、特に気にした様子もなく、また亮太の話に戻っていく。彼女にとって、俺の恋愛事情は、その程度の重みしかないのだろう。友情という名の安全圏から、俺の心の内を覗き込むことなど、彼女は決してしない。
再び勉強に戻った時、俺の集中力は完全に途切れていた。参考書の文字は、意味を伴わない記号の羅列にしか見えない。葵がめくったノートの乾いた音だけが、やけに大きく部屋に響いた。
カチリ、とシャープペンシルの芯を出す。しかし、力みすぎた指先が滑り、か細い芯は音を立てて折れた。その小さな絶望が、今の俺の心境そのものであるかのように思えた。
窓の外を見れば、あれほどけたたましく鳴いていたつくつく法師の声は、いつの間にか涼やかな虫の音に変わっていた。空は燃えるような茜色から、深い藍色へとその表情を変え始めている。
友情の限界。そして、片思いの諦念。この夏が終わる頃には、俺のこの長い恋も、本当に終わらせなければならないのかもしれない。折れた芯をノートの隅に押しやりながら、俺はただ、すぐそばにある温かい気配を感じないように、固く目を閉じた。
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