第34章 揺れる決断、光輪の海へ

 朝。机の上に置かれた白い封筒が、やけに重たく見えた。

 開封すると、活字の黒が真っ直ぐに突き刺さる。


『単位不足により、進級判定に重大な支障がある。今期末までに補修および出席条件を満たさなければ――』


 ――進級不可。


 無機質な文字列が、脳を直撃する。息が詰まった。

 昨日の光景が脳裏に蘇る。拍手。歓声。コメント欄の熱狂。解散を阻止した瞬間の涙。結の、あのまばゆい瞳。

 すべてが鮮やかに甦るほど、いま目の前に突きつけられた現実は冷酷で、残酷だった。


(……選ばなきゃいけないのか?)


 紙を握りしめた手が震える。指先からじわりと汗がにじむ。

 Open Haloと共に走り続けるか。それとも、大学での未来を守るか。

 どちらも大切だ。だが、どちらも同時に掴める保証は、どこにもない。


 耳の奥で、社長の声がよみがえる。

『颯。お前も、そろそろ決めろよ』


 胸が締めつけられる。息が浅くなる。

 針のように冷たい現実と、胸を焦がす熱狂とが、真っ向からぶつかり合う。


 深く、無理やり息を吸い込む。

 通知を制服のポケットに押し込みながら、自分に言い聞かせる。


 ――逃げられない。


 午後、事務所の会議室。

 壁に貼られたのは、パラダイスオーシャンの舞台図面。瑞稀がプロジェクターを操作しながら、照明と音響のシミュレーションを流している。


「ここ、海面の反射を使うからライトを落としすぎないように。遅延も必ず二系統で。事故ったら全部終わるから」


 彼女の声は淡々としていたが、目は真剣そのものだった。

 社長はホワイトボードにタイムラインを書き出す。リハ入り、カメラチェック、本番用セットの搬入……現実的なタスクが並んでいく。


 そこに、四人の顔が映っていた。

 “決戦の場所”を意識するからか、緊張と高揚が同時に混じった表情だった。



 「ねえ颯、雑談配信……ちょっと挑戦してみようかな」


 芽亜が不意に口を開いた。


 椅子の背にもたれ、ふっと笑みを浮かべる。

 その声音には、以前にはなかった軽さがあった。


 


「え? お前が?」


「うん。……だって、もう逃げてる場合じゃないでしょ」


 


「へえ、芽亜が“雑談”なんて。絶対コメント欄荒れるやつ」


 優子が資料をめくりながら茶化す。


 


「それフォローになってないから」


「だってさ、芽亜が真面目に喋るとか、逆にレアでしょ?」


「……やっぱやめようかな」


「おいおい! 今のは褒めてんの!」


 


 笑いながら、芽亜は口を尖らせたが、

 目はどこか楽しげだった。


 


 隣では優子が、資料を覗き込みながらぼそりと呟いた。


「でもさ、こうして準備できるのも、颯のおかげだよね」


 


「な、なんだよ急に」


「いや、本当にそう思っただけ」


 


「えー、優子が素直にお礼言うなんて。雪でも降る?」


 芽亜がすかさず冷やかすと、

 優子は顔を赤くして声を張った。


「う、うるさい! 言いたいこと言っただけ!」


 


「はいはい、はい拍手ー」


 恋が手を叩いて場を流す。

 自然と会議室の空気が和らいだ。


 


 恋はペンを手に取り、台本のMCパートに線を引きながら提案した。


「オープニングの言い回し、少し変えたいです。

 もっと“今の私たち”を出した方がいい気がするから」


 


「おっ、いいじゃん。どんな感じ?」


「うーん……『みんな、会いに来てくれてありがとう』じゃなくて、

 『やっと会えたね』とか。

 もっと近い言葉のほうがいい気がして」


 


「なるほど、恋らしい」


「え、そうですか?」


 俺がそう言うと、恋は一瞬目を丸くして、

 少し照れくさそうに頷いた。


 


「よーし決まり! 最初の一言は恋に任せよう」


「プレッシャー与えるなって……!」


 恋が苦笑すると、またみんなの笑いが広がった。



 そんな変化の連鎖の中で、結は静かに資料を見つめていた。

 大きな変化を見せるわけではない。けれど、その声は以前よりも柔らかで、視線の端には確かな光が宿っていた。


「結、センター曲の立ち位置、ここで合ってるか?」

「はい。……大丈夫です」


 淡々とした返答。だが、彼女の頬にはほんのり赤みが差していた。

 それを見逃さなかった恋が「結ちゃん、なんか雰囲気変わった?」とからかう。


「そ、そんなことないです」

 慌てて首を振る結。その仕草がまた、以前とは違う柔らかさを帯びていた。



 会議が終わり、片付けが始まる。

 机を整えながら、俺はみんなの笑い声を聞いていた。

 ――なのに、不意に胸が重くなった。


 学校。

 今朝受け取った通知。

 このまま活動に全力を注げば、確実に進級は危うくなる。

 けれど、ここで手を抜けば、Open Haloの未来に傷をつける。


 どちらも捨てられない。けれど、どちらも同時には守れない。


 気づけば表情が曇っていたのだろう。

「颯、なんか疲れてる?」と芽亜が覗き込み、

「顔色悪いよ」と恋が小さく呟き、

優子まで「ちゃんと寝てんの?」と心配そうに眉を寄せた。


 俺は「平気だよ」と笑ってごまかした。

 けれど結だけは、じっとこちらを見ていた。

 口には出さなかったが、その瞳には「何か違う」と気づいている色があった。



 夜、自室。

 机の上には、学校からの通知と、パラダイスオーシャンの企画資料。

 白と青。まるで対照的な二つの紙が並んでいる。


 どちらも大切。どちらも捨てられない。

 けれど、時間も身体もひとつしかない。


 ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。

 (もし学校を辞めたら、Open Haloに全力を注げる。けど、それは……彼女たちの未来を背負うことでもある)


 目を閉じると、歓声とコメントが蘇る。

 解散を止めたあの瞬間。結の瞳に宿った光。

 それを守りたい気持ちは確かにある。

 だが、学校を失った先に待つものは――。


 胸の奥で、迷いが渦を巻く。


 そんな時、スマホが小さく震えた。

 画面には、短いメッセージ。


『明日も一緒に、お願いします』


 送り主は結。

 その文字を見た瞬間、強張っていた胸が少しだけ緩んだ。


(……ああ。まだ答えは出せなくても)


 明日もまた、共に歩けばいい。

 そう思えた。


 夜の静けさの中で、小さく息をつき、スマホを伏せた。

 迷いの炎は消えない。けれど、その隣で、灯る火もまた確かにあった。

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