第26章 恋乃天の影と光

 白い天井。

 慣れない布団の硬さ。

 カーテンの隙間から差し込む、夕暮れ色に近い柔らかな陽射し。


 ゆっくりと目を開けると、視界はぼんやりと霞んでいた。

 乾いた喉に唾を流し込みながら、頭の奥でようやく思い出す。……そうだ、昨日。天を庇って、俺は――。


「颯、目が覚めた?」


 声に振り向くと、ベッドの脇に座る天がいた。

 制服の上着を脱ぎ、膝に置いて丸めている。表情には安堵と疲労が混じっていて、ずっとそこに座っていたことが一目でわかった。


「ああ……ずっといてくれたのか」

「うん」


 迷いなく返すその声に、胸の奥が熱くなる。


「ありがとう」

「検査に異常は無いって。念の為、1日泊まって、明日もう一回検査することになったの。社長が颯の荷物を持って後で来るって」

「そうか……心配かけたな」


 そう口にしたとき、彼女は小さく視線を落とした。


「ごめんなさい」


 その言葉は、布団の白さに溶けるように落ちた。

 彼女の瞳はまっすぐ俺を見ているのに、どこか怯えた光が揺れている。


「……なんで謝んのさ」


 問い返すと、彼女は唇を結び、ほんの一瞬だけ笑みの形を作ろうとした。

 けれど、それは無理に引き伸ばした笑顔。強がりで形作った仮面にすぎない。

 声の端に宿った震えは、どうしても隠し切れていなかった。


「私のせいで、こんなことになって」


 ぽつりと零れた言葉が、狭い病室の空気を少し冷たくする。

 彼女はうつむき、指先でシーツをつまみながら、笑い声に似た吐息を漏らした。

 でも、それは笑いではなく、自分を責める苦しい呼吸だった。


 俺はしばらく黙って彼女を見て、それからゆっくりと言葉を返した。


「いいんだよ。それより、天が怪我してなくてよかった」


 そう告げると、彼女の肩がかすかに震えた。

 驚いたように小さく目を見開き、瞬きをひとつ落としたあと、視線を揺らしながら呟く。


「……姉さんと同じこと言うんだね」


「姉さん?」


 思わず問い返す。

 その瞬間、彼女は少しだけ表情を曇らせて、視線を天井に逸らした。

 言葉を選ぶように、沈黙が二人の間をすり抜けていく。


「うん。私、お姉さんがいるの」

「……」

「今は病院にいるんだけど」


 声は細く、けれど途切れずに続いた。

 少し間を置いて、天は遠くを見るように目を細める。

 病室のカーテン越しに射す夕暮れの光が、彼女の頬の横を静かに照らしていた。


 その横顔には、誰にも見せない影が重なっていた。


「キラキラしたアイドルだったんだよ。ほんとに」


 その一言から始まった声は、懐かしさと痛みを一緒に抱えていた。

 天は両手を膝の上で重ね、視線を遠くに投げたまま続ける。


「私もあんなふうになりたいって思ってた。……でも、途中で事故にあって、満足に仕事できなくなったの」


 口にした瞬間、彼女の喉がひくりと震える。

 声を抑えようとしても、そこに乗った痛みは隠しきれなかった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、彼女の横顔を淡く染める。


「……そうなのか。残念な話だな」


 俺はどう返すべきか迷いながらも、言葉を絞り出す。

 その間にも、天の指先は膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。


「だから私が、姉さんの分まで頑張るって決めたの。姉さんがなりたかったアイドルになるために」


 その言葉には、悲しみを覆う強さがにじんでいた。

 胸の奥が熱を帯びる。

 いつも明るくて、場を照らすような笑顔の裏に――こんな強い動機が隠れていたなんて。


「それがお前のキャラ作りに繋がってるのか」


 思わず問いかける。

 天は小さく肩を揺らし、かすかに笑ってみせた。


「そんなつもりはなかったんだけどね。ただ、私の理想とするアイドルは姉さんだから。どうしても似てきちゃうのかもしれない」


 視線がふらりと揺れる。

 その瞳の奥には、比べずにはいられない影が色濃く滲んでいた。


「それから、ずっと比べちゃうんだ。私は姉さんみたいになれてるのかな? 姉さんがなりたかったアイドルになれてるのかな? ……このままで私はいいのかなって」


 吐き出すたびに、声がかすかに震える。

 俯いた頬がわずかに赤く、呼吸は浅く速い。

 隠してきた心の奥を、今ようやくほどいている。


 その姿に、俺の胸の奥もざわついた。

 比べられ続ける痛みを抱え、それでも前に進もうとする彼女に、どう言葉を投げればいいのか。


 考えるより先に、自然に声が出ていた。


「でも、天は天だろ?」


「え?」


「当たり前だろ。きっかけはお姉さんだったとしても、舞台に立ってるのは“恋乃天”なんだ。お前がやってることに意味がある。気にすることなんてない」


 天は目を丸くして俺を見つめる。

 やがて少しずつ、その瞳に潤みが広がっていった。


「……私、どっかで、姉さんの背中ばっかり追いかけてた。ああならなきゃって、もっと姉さんならこうしたんじゃないかって」


「そうかもしれないな。でも今、Open Haloで歌って踊ってるのは天だろ? お姉さんの影を借りる必要なんてない。もっと自分らしさを出して、やりたいようにやればいい」


「自分らしさ……」


 天はぽつりと繰り返す。

 夕日が差し込み、頬に赤みを添えていた。


「そう。お姉さんにできなかったことを、お前はできるはずだ」


「……そうなのかな」

 天は視線を落とし、シーツを指でいじった。声は小さく、疑いの色が濃い。


「そうだよ。じゃなきゃ社長がスカウトしない。光るものがなきゃOpen Haloに入れてない」


「……でも、それって“偶然”かもしれないじゃん。私の実力じゃなくて、たまたま目に止まっただけで」

 言い返すように吐き出したその言葉は、意地にも似ていた。


 俺は一歩踏み出すように声を重ねる。

「違う。お前は周りをよく見てる。仲間の強さも弱さも、誰より敏感に感じ取ってる。お前にしかできないことを、ちゃんとやってるんだ」


「……本当に?」

 天の眉がわずかに寄る。

「私なんか、まだ全然未熟で。ミスもするし、比べたらいつも“姉さんなら”って思っちゃって……」


「そう思ってる時点で、ちゃんと見えてる証拠だよ。誰かと比べて苦しくなるのは、それだけ真剣に考えてるからだ。お前は逃げてない」


 その言葉に、天ははっとして息を呑んだ。

 沈黙が落ちる。秒針の音がやけに大きく響く。


「……でも、もし本当に私がそんなふうに見えてるなら」

 小さく呟き、目を上げた。瞳の奥に、まだ迷いは残っている。けれど、それ以上に、火が揺れ始めていた。


 長い沈黙のあと、ようやく――ほんの少し、照れくさそうに笑った。


「そっか。……私、私で頑張れてるのかな」


「ああ。当たり前だろ」


 ベッド脇で拳を握り、俺はそう言い切った。

 その瞬間、彼女は堰を切ったように笑顔を見せた。


「ありがとう。……私、ずっと姉さんの影を追ってた気がする。でも、そうだよね。きっかけはそうでも、これからは自分の道を開けばいいんだ」


 吐息のようにこぼれたその言葉に、長い影が断ち切られた気がした。

 そして――彼女はゆっくりと顔を上げる。


 その微笑みは、今まで見たどんな笑顔よりも柔らかく、どこか神聖さすら帯びていた。


「……天野恋。これが、私の名前だよ」


 その瞬間、時間が止まった。

 スタジオの蛍光灯の光さえ遠のき、ただ彼女の声だけが胸に突き刺さる。

 耳の奥で何度も反響し、心臓の鼓動が追いつけない。


「な、なんで……。言いたくなかったんじゃ」


 掠れた声で問いかけると、彼女はゆっくりと首を振った。

 肩をすくめ、少しだけ照れくさそうに微笑む。


「……言いたかったから言ったの。みなまで言わせないで」


 その言葉には冗談めいた軽さがあった。

 けれど、奥底には揺るぎない決意が灯っていた。


 胸の奥に熱がせり上がる。

 喉が震える。今ここで応えなければ、一生後悔する。


「す、すまん……」


 思わず漏れた言葉は、情けないほど弱かった。

 彼女は静かに首を傾け、視線を絡めた。


「……すまんじゃなくて?」


 その瞳は逃げ場を与えない。

 深い湖のように澄み切っていて、運命を映しているように見えた。


 一拍。二拍。

 心臓が軋むように鳴り響く。


 そして――


「……ありがとう。恋」


 その名を口にした瞬間、世界が弾けた。

 彼女の頬に光が差し、春の花が一斉に咲き誇るような笑顔が広がる。

 その笑みは、この先どんな困難があろうと揺るがない、未来の始まりを告げていた。


「うん。こちらこそありがとう、颯」


 その短いやり取りだけで、互いの距離が一気に縮まった気がした。

 姉の影に縛られていた彼女が、ようやく自分の足で立ち始めた――そう思えたからだ。



 やがて病室のドアがノックされ、にぎやかな声が響いた。

 仕事を終えた他のメンバーたちが、花や紙袋を抱えて駆け込んでくる。


「颯さん! 大丈夫なんですか!?」

「顔色悪いけど、生きてるならよかったー!」

「ティッシュ持ってきたけど……いる?」


 それぞれが思い思いに騒ぎ出す。

 恋は涙を拭きながら、それでも笑って答えていた。


「私は大丈夫。颯のおかげで」


 その言葉に、自然と病室の視線が二人へと集まる。

 結が小さく首を傾げ、柔らかな微笑を浮かべる。


「……なんだか、良い空気ですね」


 バニラはにやりと笑って、ティッシュの箱を胸に抱えたまま茶化した。


「おやおや~? 恋、顔赤くなってるじゃん。泣いてたってのもあるけど、それだけじゃなさそう?」


「ちょ、ちょっと! そんなことないから!」


 慌てて手を振る恋。その横で天真爛漫さを取り戻した声が少し裏返る。

 天の照れ隠しは、普段の明るさと違い、どこかぎこちなくて新鮮だった。


 雨はそんな様子を見て、短く息を吐きながら呟いた。


「……ふたりとも、いい顔してます」


 その一言に、恋も俺も言葉を詰まらせてしまう。

 けれど、否定しようとしてもできなかった。


「な、なにそれ! 別に……っ」

「お、おい。変に誤解するなよ」


 声を揃えて否定する俺たちに、結が肩をすくめて言う。


「ふふ……否定するところが余計に怪しいですよ」


 病室は笑い声に包まれた。

 張りつめていた空気が、からかいと微笑ましさでほぐれていく。

 少し照れながらも、恋が俺の隣に座り直すその仕草。

 それだけで、他のメンバーにも伝わってしまっていた。


 ――ようやく、彼女の“素顔”に辿り着けた。

 そのことだけが、胸の奥を温め続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る