第21章 雨の名前

 個室の空気は、やけに柔らかかった。

 テーブルの上には、氷で汗をかいたグラス。壁には間接照明。BGMは耳に届くか届かないかの境界線。

 この柔らかさは、油断を生むために調整された柔らかさだ――そう直感して、私は背筋に小さな力を入れた。


 帰る隙を探す。

「明日、朝から歌入れがあるので」

「大丈夫大丈夫。すぐ終わるから」

 正面の男は、湯気のような笑顔でかわす。


「親から連絡が来まして」

「親御さん、厳しいタイプ? ちゃんと送るから」

 テーブルの上で、軽やかに指がタブレットを滑る。注文は迷いなく、会話は淀みなく。

 ――悪い意味で、手慣れている。


 私は笑ったふりをして、呼吸だけを整える。

 早く切り抜ける。波風立てずに。

 けれど、この温度は、こちらの焦りをじわじわと丸めていく。


「トイレ、行ってきます」

「ああ、どうぞ。場所わかる?」

「大丈夫です」


 私は席を立ち、扉を開けた。

 廊下に出た瞬間、張り付いていた笑顔が首筋から剝がれるのがわかった。

 足が少し震えていた。私は踵を合わせ、少しだけ速く歩いた。小走りにならない、でも急ぐ歩幅。

 角を曲がる。鏡の前までたどり着く。蛇口をひねる。冷たい水で指先の震えを誤魔化す。


 このまま帰る――それができたら、どれだけ楽か。

 でも、今ここで席を消せば、何を言いふらされるかわからない。

 “礼を欠いた子”。“生意気な新人”。

 どれも、私にとっては致命傷になりうる単語だ。


 ポケットでスマホが震えた。

 画面には、短い文。


〈大丈夫か?〉


 颯、だ。

 どうして、今。

 私は唇を噛む。場所を教えたところで、彼がどうにかできるだろうか。そもそも、この店の名前を私は覚えていない。駅前の雑居ビル。似た居酒屋の明かりが並ぶ地下フロア。目印は――。


 目の前の鏡の脇、広告スタンドが目に入った。

 期間限定メニュー、店のロゴ、フロアマップの小さな矢印。

 私は手を伸ばし、シャッターを切った。

 添える言葉は要らない。写真だけ送る。既読がつく。返信は来ない。


(期待は……しない)


 深呼吸。

 顔の筋肉を持ち上げる。

 鏡に映る笑顔は、わずかに引きつっていた。


 ――戻ろう。



「遅かったね。料理、冷めちゃってるよ」


 個室に戻ると、男は相変わらず穏やかだった。

「次、何頼む?」

 タブレットを弾く指。軽い声。

 私は視線をメニューに落とす。揚げ物は時間がかかる。焼き物も。

 麺なら早い? スープがあると喉が温まる――いや、長居の口実になるかもしれない。


 メニューの文字が、穴の開くほどにじっと目の前に続く。

 そのとき、外から足音が重なった。

 勢いのある、焦りを含んだ歩調。

 扉が開く前に、私は息を止めた。


「――雨! 大変だ、弟さんが倒れた!」


 扉が勢いよく開く。

 そこに、颯が立っていた。

 驚きが先に来て、次に疑問が走る。どうしてここが分かったの。さっき送った写真だけで――


「えっ? 本当?」


「いいから早く来てくれ!」


「ちょっと待ってよ、大事な打ち合わせ中だよ?」

 男が慌てて立ち上がる。

「家族の大事より大事な打ち合わせがあるか! 行くぞ!」


 颯の声は、綺麗に怒っていた。演技にしか見えないのに、誰よりも“本当らしい”怒りだった。

 私は即座に頷く。「すみません、失礼します」

「お気をつけて。また連絡するね」

 男は笑顔を崩さない。その笑顔が、逆に背筋を冷やす。


 颯は私の手首を軽く掴んだ。強くない。けれど、連れて行くための最短の力だった。

 廊下へ出て、曲がり角を曲がる。階段を一段飛ばしで上がる。

 店の暖簾の前で一拍だけ止まり、外気に触れた瞬間、足が自然に速くなった。


 ビルを出る。

 夜の空気は、痛いほどに澄んでいた。



 通りの角をもう一つ曲がったところで、颯の足が緩んだ。

「……ここまで来れば大丈夫だろ」


 私は肩で息をしながら、彼の横顔を見た。

 額にうっすら汗。だけど、呼吸は乱れていない。目だけが、事務所で見るより少し鋭かった。


「弟のことって、もしかして」


「悪い。ああ言うのが一番だと思って」


「いいよ。そんなことだろうと思った」


 私は笑った。頬の筋肉が、ちゃんと笑い方を思い出した気がした。

「ごめん」

「だからいいって。それより、なんで弟の名前出したの? 親とかでもよかったじゃない」


 颯は少しだけ目を細めた。

「お前の反応が一番良くなるのは弟さんのことだろうと思ってな」


 胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。


「なんで、そう思うの?」


「なんとなく。家族っていうか、兄弟を大事にしてるんだなって、ところどころで思ったから。……あと、俺、こう見えて心理学専攻だから」


「なにそれ。専属事務員じゃなかったの?」


「兼任。肩書は増えるほど、給料が据え置きのやつ」


 二人で少し笑った。

 笑えること自体が、救いだった。



「……ねえ、私、なんでこの業界に入ったと思う?」


 言葉が口を突いて出た瞬間、自分でも唐突だと思った。

 夜風が信号機の青に照らされ、横断歩道の白い帯を淡く浮かび上がらせる。

 彼――颯は少しだけ歩みを緩め、俺を真っ直ぐに見た。


「……歌で食っていきたいから、じゃないのか」


 即答。予想どおりの答え。けれど、私は首を横に振った。


「それは、ただの“特技”にすぎないわ。もっと根本は――弟のため」


 言葉にした瞬間、胸の奥に張りつめていた幕が、ビリビリと音を立てて外れていく。

 押し殺していたものが、冷たい空気と一緒に溢れ出す。


「……うちは、あんまり裕福じゃなかった。正直、大学を諦めるつもりだった」


 視界の先で、赤から青に変わる信号。足元のアスファルトに、夜の街灯が細い影を落とす。

 なのに――店内よりも外気の方が、不思議と温かかった。


「でも、お母さんは言ってくれたの。『やりたいことをやりなさい』って。……だけど、仕事をしながらできることなんて限られてる。だから――夜、自分の部屋で、安いマイクを前に歌い始めたの。PCファンの音と、自分の心臓の音が混ざる中で」


 瞼の裏で蘇る。あの頃のモニターの青白い光。

 知らない誰かが画面の向こうで待ってくれている、ただそれだけで救われた夜。


「……そしたら、社長に見つけてもらった。拾ってもらった。偶然と、ご縁と、ちょっとの勇気。……それで今、ここにいるの」


 言い切ったとき、肺の奥の空気が新しく入れ替わった気がした。


「……すげぇ縁だな」


 颯の声は低く、けれど確かに響いた。

 私は小さく笑って、でもすぐに表情を引き締める。


「私は、私だけ自由にさせてもらうわけにはいかない。だから――私が稼いで、弟を大学に行かせて、やりたいことをやらせてあげたいの」


 胸を張って言った。声は震えなかった。

 彼は真っ直ぐに頷き、短く言った。


「……そうだったのか」


 肯定の一言で、体の奥に詰まっていた石が少し軽くなる。


「だから、なんとしてでも売れたかった。……なのに、こんなことになっちゃった。詰めが甘いよね、私」


 苦く笑う。けれど、その笑みを見て、彼は首を横に振った。


「仕方ないさ。業界、まだ長くないんだろ? これから覚えていけばいい」


「……ありがとう。優しいんだね」


 わざとからかうように言った。

 彼は慌てて視線を逸らし、街灯の下で耳を赤くした。


 その仕草が可笑しくて、でも心の奥が温まっていく。

 からまっていた糸が一本ずつ解けていくように。


「それと……助けてくれてありがとう」


「どういたしまして」


「……あのままだったら、どうなってたか分からない」


 ほんの少し震えた声。

 彼は立ち止まり、短く息を吐いてから、ゆっくり言葉を返す。


「前向きなのはいいけど……無茶だけはするなよ」


「……うん。……でも、また困ったら助けてくれるよね?」


 わざと小悪魔みたいに笑ってみせた。

 颯は苦笑して、肩をすくめる。


「さあな」


 その声はわざと冷たく響かせたのに、隣に並ぶ温度は高かった。



 交差点の先に、小さな公園があった。

 ブランコが二つ。ベンチが一つ。

 夜は子どものものじゃない。だから、大人が少しだけ借りる。


 ベンチに腰を下ろす。

 風が吹く。

 風見颯という名前に、今日ほど感謝したことはなかった。


「私の名前は――西村、芽亜」


 颯が、わずかに目を見開いた。

 街灯が、その表情の輪郭を柔らかく縁取る。


「えっ」


「私は、芽亜っていうの。逆にして“雨”で芸名。ついでに方角も反対にした」

 ひとつずつ、仮面の仕組みを解説するみたいに。

 言葉にすると、世界が少し静かになった。


「本名って言うなって、口止めされてたんじゃ?」


「今日のお礼。……減るもんじゃないし。君になら――いや、颯君になら、いいかなって」


 颯はしばらく黙っていた。

 沈黙は、重くなかった。

 ただ、丁寧に置かれた言葉を確かめる時間だった。


「そうか。ありがとう」


 彼は、ゆっくりと座り直す。

 そして、真正面から、私を見る。


「これからよろしくな――芽亜」


 名前が、夜の空気に溶けた。

 胸のどこかが、ほぐれて、温まって、少しだけ痛んだ。

 でも、その痛みは、嬉しい方の痛みだった。


「……うん」


 自分の名前に、初めて誰かの声で“温度”がついた。

 “雨”じゃない、“芽亜”。

 仮面じゃない方の私が、ちゃんとそこにいると告げてくれた声だった。



 ベンチを立つ。

 歩幅が、少しだけ軽くなった。

 信号が赤に変わる。待つ時間ですら、さっきより短く感じる。


 別れ際、颯がポケットからスマホを見せた。

 そこには、さっき私が送った店の広告写真。

 小さなロゴと、限定メニューのフォント。

 フロア案内の矢印に、インクの欠けが一つ。


「これ、どうやって――」


「ロゴ、系列の中でもこの店だけフォントが違う。床のタイルもエレベータ前の写真と一致。……あとは、勘」


「……専属事務員、じゃなくて、名探偵?」


「兼任。肩書は増えるほど、給料は据え置きのやつ、な」


 二人で笑う。

 笑い合う、という行為に、意味が戻っていくのを感じた。


 別れる前に、颯が言った。

「今日のこと、社長には“適当に”報告しておく。……お前の名前は、俺の中だけに置いとく」


「うん。お願い」


 彼は片手を上げて、角を曲がっていった。

 風が、髪を泡立てるように揺らした。

 夜の匂いが、少し優しくなっていた。


 私は空を見上げた。

 星は少ない。

 でも、足元の灯りは、さっきよりも明るかった。


 “雨”でいることは、私の盾だ。

 “芽亜”でいることは、私の核だ。

 その二つが、初めて同じ温度になった夜だった。

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