第二章:夢見の啓示と世界の胎動
意識の淵:深淵の夜
長安の都が深い眠りに沈む頃、衛青は古い書庫の片隅、積み重ねられた竹簡の山に寄りかかって寝入っていた。彼の枕元には、白墨の記述がある『山海経』異版が無造作に広げられている。
眠りは浅く、その意識はすぐに、現実の重力から解き放たれた。
夢は、彼の五感を一瞬で支配した。最初に感じたのは、途方もない「質量」だった。それは大地や山脈のような、硬質で不動の存在が放つ重圧であり、衛青は自分の体が、その質量に潰されそうになっているのを感じた。
彼は、自分が立っている場所が、もはや長安ではないことを瞬時に悟った。
周囲は、夜だった。しかし、漢の夜ではない。空には、先だって白墨の記述の隣で見た夢と同じ、二つの月が浮かんでいた。一つは、溶鉱炉の熱を帯びたような灼熱の赤銅色。もう一つは、極地の氷を閉じ込めたような蒼白な銀色。この二つの月が、天頂で互いに引かれ合い、絶えず「光の摩擦」を起こしている。その摩擦から生じる微細な光の粒子が、衛青の視界に七色の霧として降り注いでいた。
足元に広がる大地は、深く、透き通った瑠璃色をしていた。衛青が足を踏み出すと、瑠璃の地面はまるで凍った水面のように、「カラン」と澄んだ音を立てた。その音は、衛青の心の奥底にまで響き、彼の血流を異様なリズムで脈打たせた。
彼の目の前に広がる森は、木々が真っ直ぐに上へ伸びるのではなく、まるで巨大な植物の血管のように、互いに絡み合い、空へと向かって螺旋状に渦巻いていた。その樹皮は、触れると冷たい、巨大な青白い水晶でできており、枝葉はなく、先端には夜光る巨大な宝玉のような実が成っていた。風が吹くと、水晶の枝同士がぶつかり合い、数千の風鈴が一斉に鳴り響くような、幻想的で複雑な和音を奏でる。
衛青は筆を執りたい衝動に駆られたが、彼の体は固定されたように動かない。彼はただ、この非現実的な光景を、観察者としての純粋な視線で焼き付けることしかできなかった。
「これは…既存の『山海経』の記述ですら、遥かに凌駕している。この世界には、『奇』という言葉すら生ぬるい、『神』の理が宿っている…。」
生ける山脈と世界の呼吸
その時、地鳴りが起こった。しかし、それは地震ではない。
衛青の背後、数里先に横たわる、地平線を覆い尽くすほどの巨大な山脈が、ゆっくりと、「呼吸」を始めたのだ。
山脈全体が、巨大な肺のように膨らみ、そして沈む。その膨張のたびに、山脈の岩肌を覆う苔や樹々が、まるで毛皮のようにざわめき、微かに発光する。山腹には、洞窟のように見える無数の穴が開いていたが、それは岩石の風化によるものではなく、巨大な生物の「器官」のように見えた。
山脈は、生きている。
それは、古代の賢者が想像した「万物は生命を持つ」という思想を、具現化したかのような存在だった。
山脈が深く息を吸い込んだ瞬間、周囲の水晶の森の音が止み、あたりは絶対的な静寂に包まれた。そして、山脈がゆっくりと息を吐き出すと、数千もの言語と、数万もの生命の記憶が混ざり合った、深遠な「声」が、瑠璃の大地を震わせた。
その声は、衛青の脳ではなく、彼の魂に直接語りかけるかのようだった。
その声は、漢の歴史、遠い祖先の記憶、そして衛青自身の未来の姿までもを、走馬灯のように強引に彼の意識に流し込んできた。彼は見た。馬上の自分、剣を振る自分、そして何万もの兵を指揮し、匈奴の荒野を駆ける自分を。
「…将軍? 私が…?」
衛青は、自分が武に長けることを望んだことはない。彼はあくまで知識の徒、記録者であったはずだ。だが、この異世界の「神の理」は、衛青の現実での運命を予見し、あるいは書き換えようとしているかのようだった。
顕現:天地を統べる龍の瞳
呼吸を終えた巨獣、すなわち生ける山脈の頂が、ゆっくりと、天に向かって開き始めた。
衛青は、目を凝らした。それは単なる噴火口や頂上ではない。それは、世界全てを映し出すかのような、巨大で深い、青い「瞳」だった。
その瞳は、宇宙の深淵そのものを湛えており、二つの月や水晶の森、瑠璃の大地、そして衛青自身の存在すらも、「記録」しているように感じられた。瞳の中には、かつて衛青が読み、信憑性を疑った応龍(おうりゅう)や九尾の狐の姿が、幻影のように次々と現れては消えていく。
そして、その青い瞳の真下、山脈の「口」にあたる部分から、一筋の光の柱が噴き上がった。その光は、衛青の目の前の瑠璃の大地に「玄門」の座標を刻む。
巨獣は、衛青に向かって、その意識の全てを注ぎ込むように、最後のメッセージを放った。
『筆の将軍、衛青。汝の運命は、漢の地を治めるに留まらず、天地の理を統べる新しき山海を記録し、護ることにある。天地の心(劉徹)、朱雀の炎(劉茵)、青龍の剛(李岳)、白虎の浄(霍仲)——魂を分かちし半身たちが、汝の筆を待っている。』
メッセージが終わると同時に、巨獣の瞳が閉じ、光の柱が消えた。衛青の体が激しい浮遊感に襲われ、意識が急速に現実へと引き戻されていく。
決意:筆と剣の交差する道
衛青が覚醒した時、書庫は相変わらず墨の匂いと湿気に満ちていた。外にはまだ、灰色の雨が降り続いている。
彼は、全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。だが、彼の内面は、これまでにないほどの静謐な熱量に満たされていた。
夢の中で見た光景は、単なる幻覚ではない。それは、異世界からの強烈な「招集」であり、彼の中に眠っていた「大将軍」としての資質を揺り起こす啓示だった。
彼は立ち上がり、窓の外の灰色の雨を見つめた。
「『筆の将軍』か…。知識と記録が、戦場を切り開く剣となる、と。」
衛青は竹簡を広げ、震える手で、夢で見た全ての光景を克明に記録し始めた。瑠璃の大地、水晶の森、二つの月、そして生ける山脈。
記録を終えると、彼は簡素な旅装を改めた。筆と竹簡は、もちろん手放せない。そして、ふと、壁にかけられた彼の父祖が持っていた古い短剣に目が留まった。それは、父が狩りの際に使う、飾り気のない実用的なものだった。
衛青は、これまで武器を手に取ったことはなかった。だが、夢で見た未来の自分は、剣を振るっていた。
彼は、短剣を腰に差し、その柄を強く握りしめた。
「玄門へ向かう。終南山へ。」
衛青の顔には、もう迷いはなかった。学者の知性と、将軍の覚悟。二つの異なる運命が、今、若き書生の体内で融合し始めていた。
彼の最初の冒績は、真理を探る旅であると同時に、漢王朝の命運を握る、自分自身の魂の半身たちを探す旅となったのだ。
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