山海経異聞録 ~衛青創世記~

光闇居士

プロローグ:白墨の彼方

長安の都が、秋霖に煙る。石畳は濡れて光り、瓦屋根からは水滴が線となって軒下に落ちる。文武百官が闊歩する大路も、市井の賑わいも、この日ばかりは水墨画のにじんだ筆致のように朧げだった。しかし、その灰色の帳の奥、書庫の奥深く、埃と墨の香りに満ちた一室には、世界から隔絶された静寂が満ちていた。

衛青(えいせい)は、燭台の微かな炎を頼りに、膝に広げた古書に目を凝らしていた。薄く脆くなった竹簡(ちくかん)は、千年の時を孕み、指先で触れるだけで砕けそうなほどだった。彼の眼差しは鋭く、そこに宿るのは、若き学究の徒に特有の、知識への飽くなき渇望と、真理を追究する情熱である。

彼が紐解いているのは、世に言う奇書、『山海経(せんがいきょう)』。しかし、それは宮廷に収蔵されているどの写本とも異なる、奇妙な異版だった。図像は拙く、文字は崩れ、しかしその行間には、尋常ならざる熱量が込められている。そこに描かれたのは、翼ある人、九つの頭を持つ獣、空を泳ぐ魚、そして、悠久の時を生きる不死の仙人たち。衛青は幼少の頃からこの書を愛し、その記述を夢想してきたが、やがて来るべき現実と照らし合わせ、その荒唐無稽さに一抹の諦念を抱き始めていた。

「これらは、果たして真実なのか…」

衛青は、無意識のうちに呟いた。都の学者は皆、これらは遠い祖先の妄想か、あるいは異邦の伝聞を誇張したもので、実際に存在せぬ虚構であると断じていた。だが、この異版は違った。そこに記された地理は、既知のいかなる地図とも合致せぬが、その筆致は、まるで作者が自らの目で見たかのように生々しい。

特に、彼を惹きつけたのは、巻末に記された一文だった。

『……白墨の彼方に玄門あり。其処に至れば、古の理は崩れ、新しき山海は開かれん。然るに、心に真を追う者のみ、かの淵に足を踏み入れよ。』

白墨。それは、この古書の紙質を指すかのような、淡く、しかし深遠な言葉だった。玄門。それは、彼が知り得るいかなる門でもない。しかし、その言葉は衛青の内に、抗いがたい衝動を呼び起こした。

その夜、衛青は一つの夢を見た。夢の中、彼は霧深い山中に立っていた。足元には、見たこともない草花が咲き乱れ、夜露に濡れて宝石のように輝く。頭上には、夜空を彩る星々が、まるで意思を持つかのように脈動していた。そして、その遙か彼方、雲海の切れ目から、巨大な影が姿を現す。それは、鱗に覆われ、いくつもの鋭い角を持つ、山脈と見紛うばかりの巨獣だった。その背には、光を放つ樹々が林立し、まるで小さな世界を背負っているかのように見えた。巨獣は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、衛青の方へと向きを変える。その瞳は、深淵の闇を湛えながらも、同時に計り知れないほどの古の叡智を宿しているようだった。

衛青は恐怖よりも、畏敬の念に打たれた。これは、まさに『山海経』に記された、神獣、いや、それすらも超越した存在ではないか。巨獣が静かに口を開くと、声なき声が彼の魂に直接響き渡った。

『求めよ、見よ、記せ。』

翌朝、衛青は決意した。この夢は、天の啓示に他ならない。あの古書の記述は、虚構ではない。白墨の彼方には、いまだ人が知らぬ、真実の山海が広がっているのだ。彼は、筆と竹簡、そして僅かな食料を携え、長安の都を後にした。学問を極める道は一度脇に置き、己の目で真理を確かめるための、壮大なる旅へと踏み出したのである。

彼の最初の目的地は、都の西方、終南山(しゅうなんざん)の奥地と定めた。古来より仙人たちが住まうと伝わる霊山であり、その最深部には、人智を超えた場所があると噂されていた。衛青は、仙人たちの墨絵のような伝説に、一縷の希望を見出していたのだ。

秋雨は次第に止み、代わりに冷たい風が吹き始めた。山道は険しく、足元は滑りやすい。だが、衛青の瞳に迷いはなかった。数日後、彼は人里離れた深山に分け入っていた。木々の隙間から差し込む光は細く、昼だというのに薄暗い。苔生した岩肌が連なり、足元には古木の根が複雑に絡み合っている。あたりには、獣の気配すら感じられず、ただ風が木々を揺らす音だけが響いていた。

彼は、古書に記された手がかりを思い出した。「玄門は、水と土と気の交わる場所にあり」。衛青は、細い沢の流れを辿り、やがて小さな滝壺に辿り着いた。水は淀みなく流れ落ち、その周囲には奇妙な形の岩が点在していた。その中でも一際目を引いたのは、滝壺の裏側にぽっかりと開いた洞窟だった。

衛青は躊躇なく、その洞窟へと足を踏み入れた。洞窟の内部はひんやりとし、湿った土の匂いがした。奥へ進むにつれて、洞窟は次第に広がり、その壁面には、自然に形成されたとは思えぬ、複雑な模様が刻まれていた。まるで、古代の文字、あるいは地図のようにも見える。彼は、燭台の炎をかざし、その模様を仔細に調べた。

突然、足元の大地が微かに震え始めた。衛青は身構えたが、その振動は地震とは異なり、まるで空間そのものが呼吸しているかのようだった。壁面の模様が、微かに光を放ち始める。青、赤、黄、緑…まるで虹の光が、墨の壁に溶け込んでいくかのようだ。

光が強くなるにつれて、衛青の視界は白く染まっていった。耳鳴りのような音が響き渡り、やがてそれは、幾千もの精霊たちが歌い、あるいは咆哮する、混沌とした調べへと変化していった。体中の細胞が、激しく脈動するのを感じる。まるで、自身が光の粒となり、空間に溶け込んでいくような感覚だった。

彼の脳裏には、長安の都、両親の顔、学友たちの声が走馬灯のように駆け巡った。後悔はない。ただ、この身を以て、真実を知りたい。その一心だった。

光と音の渦が最高潮に達した時、衛青は強烈な浮遊感に襲われた。足元の大地が消え失せ、彼は宙に投げ出されたかのようだった。しかし、痛みも恐怖もなかった。ただ、全身が解き放たれるような、途方もない解放感に包まれた。

どれほどの時間が流れただろうか。数瞬か、あるいは数百年か。感覚は曖昧になり、時間の概念すら意味をなさなくなった。

やがて、光の奔流が収束し、衛青の意識はゆっくりと覚醒していった。彼は、自分が硬い地面に横たわっていることに気づいた。体を起こすと、その目に映った光景は、彼の全ての常識を、そして『山海経』の記述ですら遥かに凌駕するものだった。

そこは、漢の世界とは似ても似つかぬ、全く異なる世界だった。

頭上には、二つの太陽が輝いていた。一つは灼熱の赤銅色に輝き、もう一つは蒼白く、冷たい光を放っていた。空には、七色の巨大な雲がゆっくりと流れ、その中には、光を放ちながら泳ぐ巨大な魚の群れが見えた。

足元に広がる大地は、深く透き通った瑠璃色をしていた。その地面からは、衛青の背丈を遥かに超える、巨大な水晶の樹々が林立し、枝々からは、まるで宙に浮かぶ宝石のような実が実っていた。風が吹くと、水晶の葉がぶつかり合い、カランコロンと、神秘的な音色を奏でる。その音は、まるで無数の風鈴が共鳴するかのようであり、彼の魂の奥底にまで響き渡った。

遠くには、空に浮かぶ巨大な陸地が見えた。それは、まるで大地の断片が宙に浮遊しているかのような光景であり、その下からは、滝壺が見えないほど遥か下へと、巨大な水流が轟音を立てて流れ落ちていた。滝の水は、空を泳ぐ魚たちの光を反射し、虹色の飛沫を上げていた。

衛青は、息を呑んだ。全身の毛穴が開き、肌がざわつく。これは、夢ではない。幻覚でもない。彼が求めていた「新しき山海」は、ここに確かに存在していたのだ。

彼は、腰の筆と竹簡に手を伸ばした。震える指で、墨を硯に擦り、筆を走らせる。

『……元光三年(衛青が旅立った年)、秋、某月某日。余、終南山の玄門を越え、未だ見ぬ世界へと至る。其処は、二つの太陽が輝く空と、瑠璃の大地、水晶の樹々に覆われた、奇異にして壮麗なる世界なり。空を泳ぐ魚群、浮遊する大陸、これら全て、既存の書には記されざる、真の山海の姿と見ゆ……』

彼の筆は止まらなかった。瞳は、目の前の全てを焼き付けようと、貪欲に世界を捉えていた。学者の理性と、探求者の情熱が、今、一つになる。

『山海経』。それは、もはや単なる古の伝説ではない。彼、衛青の手によって、新たな生命を吹き込まれる、生きる書となるのだ。

これは、未知を求め、真理を記さんと欲した一人の書生が、世界の果て、いや、世界の彼方で、天地開闢の神秘に触れる物語の、序章に過ぎない。彼の旅は始まったばかり。そして、彼がこれから目にするであろう驚異は、この最初の光景すら凌駕する、広大で、深遠で、そして、恐ろしいほどのスケールに満ちているだろう。

白墨の彼方で、新たなる山海が、今、その全貌を現し始める。

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