04.最後の希望に嘘だと言ってくれ
レオから聞いた、目的地までの必要日数は丸一日。
王都までの旅路より短いが、今回は森をひたすら歩き続けなければならなかった。
「警護を頼めないってのが、辛いよなあ……」
彼方は一人、薄暗くなってきた空を見上げてため息を吐いた。
アッシュはこの国で一番の戦士。たった一日程度の旅路に供をつけるのは、あまりにも不自然だった。
アッシュのフリを続けるためには、一人での旅路は避けては通れないのである。
夜になった獣道。
なんとかレオに教わっていた通りに火打石と「燃料丸」と呼ばれる、油分を練り込んだ木屑の塊で焚き火をおこした彼方は、人気のない森で夜を過ごすことになった。
もちろん眠れるわけもない。
わずかな物音でも恐怖で一晩中跳ね上がっていたが、不思議と疲労感はあまり感じなかった。
(そりゃあ戦士の身体だもんな。そもそもの体力が違うか……。これなら一晩中歩き続けてもよかったかも……)
そんな過ぎたことを考えながら、ゆっくりと明るくなる空を見上げる。
そうして周りが明るくなった頃、彼方は早朝の獣道をまた進み始めることにした。
道中は、勿論安全では無い。
王都から離れていくにつれ、魔物と遭遇する頻度は増し、そのたびに必死で剣を振るう。
数をこなすうちに、致命傷を与えるなら心臓を狙えばいいという単純なことに気がつき、討伐時間が短くなったことに、彼方は純粋な達成感を覚えていた。
(……少しは慣れてきたぞ! 泣いてもない! できるじゃないか俺!!)
わずかばかりの自信をつけた彼方は気合いを入れてその後も歩を進めた。
が、直後に出会ったスライムの群れが、野生動物を溶かしながら捕食している様子に、嘔吐しかけたのは彼方だけの秘密である。
そうして紆余曲折ありながらも、微睡みの森へと続く道を歩むうちに、普通の森だったはずの道が次第にその様相を変え始めた。
足元の土の色が黒っぽくなり、木々の幹はねじれ、枝葉が空を覆い尽くしていく。
先ほどまで聞こえていた風の音すら、いつの間にか消えていた。
天を突くほどの巨木が鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに、辺りは夕暮れのように薄暗い。
風が葉を揺らす音は、まるで誰かの囁きのようだった。鳥の声ひとつしない、不自然なほどの静寂。
微睡みの森の正体は、その名とは裏腹にどこか不気味な気配を漂わせていた。
こんな森に人が住んでいるとは、にわかには信じられないが、ここが地図の終着点である。
しばらく森に踏み入った先に佇んでいたのは、蔦に覆われた、小さな一軒家だった。
屋根には苔が生え、歪んだ煙突からは細く煙が立ち上っていることから、ここが唯一の住人——賢者エリアーデの住まいに違いない。
「つ、着いた……!」
(頼む。なんでもいい! 手がかりだけでも掴ませてくれ……! レオくんのためにも、俺自身のためにも……!)
意を決して、古びた木の扉を叩く。
やがて、ギィ、と軋むような音と共に扉が開き、中から一人の老婆が顔を覗かせた。腰は深く曲がっているが、その瞳だけは、年を感じさせない鋭い光を宿している。
「……お客さんかい。まあ、なんだ。ひとまず中に入りな」
そう言って中に通された彼方は、その異様な光景に目を奪われた。
部屋の壁という壁、床に至るまで、無数の紙や、文字がびっしりと刻まれた木の板が山のように積まれている。
しかし、部屋のどこにも書物という形を成したものは一冊もない。
ただひたすらに、一人の人間が生涯をかけて探求したであろう、膨大で、混沌とした知識の跡が部屋を埋め尽くしていた。
「……すごいですね」
「何がだい……って、これか。まあ、そうだねえ。すごいねえ」
他人事のような、掴みどころのない返答をする老婆に促されるまま、彼方は辛うじて空いていた木の椅子に腰を下ろす。
差し出された水を一気に飲み干し、意を決したように息を吐いてから、彼方は自分の身に起きた全てのことを語り始めた。
結界の綻び、戦士の身体への憑依、そして自分自身の出自に至るまで。全てを、正直に。
老婆は、ただ黙って彼の話を最後まで聞いた後、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……そうかい。でもねえ……。申し訳ないのだけど、何も答えられないねえ」
彼方の希望が音をたてて崩れていった。ゆっくりと首を横に振る彼女に、なおも必死で食い下がる。
「そん……な……。賢者エリアーデ様……ですよね? レオ陛下から、貴方なら何かご存知かもしれないと……!」
「ああ、そのエリアーデさんってのは、この家の持ち主で間違いなさそうだけどねえ」
老婆は、ふうと一息つくと、こちらを見据えた。
「残念だけど、あたしは魔法のことなんざ、さっぱりでねえ。専門外なんだよ」
「専門外って……じゃあ、人違い……? 嘘だろ、ここまで来て? レオくんが嘘を……? いや、そんなはずは……。一体、どうなって……」
頭が真っ白になり、うろたえる彼方に、老婆は呆れたように言う。
「まあ、落ち着きな。そんなに慌てふためいて、だらしないねえ」
「だらしなっ……て、こっちは必死なんです!!」
「あたしだって必死さ。でも、ジタバタしたって始まらないだろう?」
老婆は、悪戯っぽく片目をつむると、衝撃的な言葉を続けた。
「仕方ないじゃないか。私は、その『エリアーデ』って人ではないんだから」
「…………は? ……何を言って……」
混乱のまま理解が追いつかない彼方を、目の前の人物は、改めて上から下までじっくりと見ているようだった。
「……それにしても、あんたも随分とまあ、おかしなことになってたんだねえ……」
「あんたもって……まさか……」
嫌な予感がして冷や汗が噴き出る彼方を前に、老婆は見覚えのある笑みを浮かべた。
ニシシと口を大きく横に広げて笑う、悪戯っ子のような顔。
そして、世界でたった一人しか呼ばない名で、彼方に語りかけた。
「全く。いつまでそんな難しい顔してるんだい、カナ坊」
静寂。
彼方の思考が、今度こそ本当に、完全に停止した。
(…………は?)
カナ坊。
呼びかけられた彼方は、呆然と目の前の老婆を見つめた。
見知らぬはずの顔が、よく知っている笑顔と重なっていく。
(うそだろ……そんな、はず……)
「……ばあ……ちゃん……?」
絞り出した声は、ほとんど音にならなかった。
「ああ、そうだよ。……ずいぶんとまあ、立派な身体になっちゃって。こっちは相変わらずしわくちゃだけどねえ」
腰の曲がった老婆——賢者エリアーデの身体に入った、佐藤シズ。紛れもない、佐藤彼方の祖母はそう言ってケラケラと笑った。
あまりの衝撃に目を回した彼方が、ようやく正気を取り戻した後、二人は互いの身に起きた、あまりにも奇妙な出来事を語り合った。
彼方が、最強の戦士アッシュの身体に入ってしまったこと。そして、顔も知らない家族のために、最強のフリを続けると決めたことをより詳細に告げると、シズは呆れたように笑った。
「全く。ビビりのくせに無茶したねえ。まあ、カナ坊らしいっちゃあ、カナ坊らしいか」
何ともないように言う祖母を見て、少しも動じていないその様子に彼方は思わず乾いた笑いを漏らす。
「……俺なんて、この数日間パニックで号泣してたってのに……。やっぱり流石だわ、ばあちゃんは」
祖父が晩年少し認知症になってしまい、夕方過ぎても家に帰ってこなかった時も「仕方ないね。連れ戻してくるかねえ」と言って、颯爽と電動自転車で消え、数時間後には祖父を連れて徒歩で帰ってきたことがあった。
「じゃあ、自転車取ってくるかねえ」と自分に祖父を託してスタスタ歩き出そうとする祖母を、慌てて止めたことを彼方は遠い目をして思い出す。
そうだ。彼方の記憶にある限り、祖母が慌てた様子は一度も見たことがなかった。その豪胆さは、世界や身体が変わっても健在らしい。
「なんか……俺、情けなくなってきたな」
(ばあちゃんは、たった一人でもちゃんと前を向いてたってのに……)
彼方がそうポツリと言うと、シズは足元に積まれた木の板の一枚を、つま先の器用な動きで示した。
「なっちまったもんは仕方ないだろう? だから、ここにあった研究のメモ書きでも読んで、のんびり整理してたのさ。このエリアーデさんって人の知識、面白そうじゃないか。何かの役に立つかもしれんしねえ」
そう言って水を飲むシズ。別人の身体から感じられる祖母の面影に、彼方は途方もない安心感を抱いていた。
(……ああ、そっか。俺、ずっと一人で、めちゃくちゃ心細かったんだな……)
広大な異世界で、たった二人きりの家族。その再会は、彼方のささくれだった心を、少しずつ癒やしていくようだった。
「それでさ……結界の魔法とか、入れ替わりとか、転生とか……そんな魔法の資料は全くないってことなのかな……」
衝撃で抜け落ちていた、当初の目的を思い出した彼方は、念の為にと祖母に確認する。
シズはふうと一息ついて、膨大な研究の成果たちを眺めて一言、「わからん」と返した。
「わからんって……」
「全部に目を通しきれてないんだよ。こんな量、たった数日で一人で見切れる訳が無いさ」
至極当然のことを言ったシズは、休憩を終えたような顔で彼方に告げた。
「ほら、せっかく来たんだ。手伝いな!」
こうして、彼方はシズと二人、賢者エリアーデの研究内容に全て目を通すことになったのである。
「……それにしても、不思議なもんだねぇ」
「何が?」
「あたしはエリアーデさんになって、あんたはアッシュさんになった。じゃあ……」
シズは、慈しむような、それでいてどこか寂げな瞳で、彼方を見た。
「この二人は一体どこで、どうしてるんだろうねえ……」
その問いは、彼方も考えないようにしていたことだった。
(……俺がこの身体にいるということは、アッシュは……もしかしたら)
考えないように、心の奥底に押し込めていた疑問が、祖母の言葉で容赦なく抉り出される。
その答えを探すかのように、彼の意識は、遠いどこかへと飛んだ。
そうして、舞台はもう一つの世界へと移る。
東京都、郊外。
ごく平凡なワンルームのアパートで、一人の男が荒い息を吐きながら、汗だくで床に突っ伏していた。
「……くっ、この身体は……!」
限界を迎えた肉体に、悪態をつく。
たった数十分の鍛錬で、心臓はやかましく鳴り、筋肉は悲鳴を上げている。最強の戦士であった頃の自分ならば、準備運動にもならないほどの負荷であるはずだ。
(……やはり、間違いあるまい。何者かが、俺を弱体化させるために、こんな貧弱な器に魂を移したのだ!)
最強の戦士、アッシュ。
彼がこの世界に来て、数日が経っていた。
言葉も、文化も、理も、何もかもが違うらしいが、彼にとってそれは些末な問題だった。
戦士にとって重要なのは、己の肉体と魂が、今どれだけ戦えるか。ただそれだけだ。
最大の屈辱は、この無力な肉体。屈辱に甘んじるのは、戦士の死に等しい。
かつて感じたことのない疲労がアッシュを襲う。魔法も使えないこの脆弱な身体は、確かにアッシュを閉じ込めるには好都合な器だろう。
「だが……この程度で折れると思うな」
彼は、この状況を未知の敵による奇襲攻撃だと結論づけていた。
そして、やがて来るであろう敵襲に備え、ただひたすらに佐藤彼方の肉体を、鍛え続けていたのである。
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