花天月地【第110話 君は泥から咲く花】

七海ポルカ

第1話


 雨が降り始めた。



 ……幼い頃から雨は好きだ。


 世界が少しだけ静かになる。

 


 父親が太陽のような男であったので、

 燦燦と射し込む陽射しが遮られると心が安心した。

 あのこちらを突き放したような目から逃れられたような気がするし、

 広い庭で明るく笑いながら駆け回っている兄弟たちを見なくて済む。


 許都きょと宮城きゅうじょうから東側にある離宮は見ることが出来る。

 闇の向こうに城の明かりが見えた。


 今は許都にいるが、色々と動き回っているので、離宮の方で過ごしていた。

 今日も政をする為に宮城に来たに過ぎず、いつも公務が終わると離宮の方に帰るのだ。

 

 かつて曹操そうそうが許都の宮城にいた時、

 曹植しょうしょくが父の側に居たので、なんとなく離宮が曹丕そうひの居城になっていた時期がある。

 

 曹植。


 幼い頃から大らかな性格をした弟だった。

 宮城の庭でも大の字になって寝そべって、空を見上げて詩を読んだり、

 天啓のように言葉が下りて来ることがあるらしく、突然土の上に一生懸命詩を書き始めたり、城の壁に石で文字を殴り書いたりすることがあった。


 要するに窮屈な宮廷の中に置かれていても、頭の中だけで簡単に塀を乗り越え、遠い山河を眺めに行く力を持ったような弟だった。

 自由闊達なその感性を曹操そうそうは気に入っていて、

「そんな所に書いたらなりませぬ!」

 などと慌てて止めようとする女官たちを自ら止めて「最後まで書かせてやれ」と笑いながら眺めたあと、


『いいぞ子建しけん。もっとうたえ』


 と幼い弟の頭を撫でてやっている姿を何度も見た。


 曹丕も詩は嗜んだし、自分の想いや感性を表現出来ることを好んだこともあったが、詩才はこの弟に及ばないのは早くに気づいた。

 それでも構わなかったのだ。曹丕は別に詩人になりたかったわけではない。

 人にはそれぞれの詩がある。

 それがいいのだ。

 優劣よりも、曹丕が好きなのはそれだった。


 しかし自分の詩を見ても、父の瞳が、曹植の詩を見た時のように輝かず、静かなままになることは耐えがたかった。

 

 自分は別に弟より優れているから見てくれと言っているのではないのだ。

 これが曹子桓の詩か、とただ曹操が思ってくれば良かった。

 言葉で自分を伝えることは難しかったから。


 楽も昔は好んだ。


 曹操は楽才もあり、聞き手としても優れていたが、自らも優れた演奏者でもあった。

 詩才もある。

 そう思えば曹植を曹操が好む理由も、多少納得出来るものだった。


 自分にはそういう情感を震わせるような才が欠けていて、

 技術はあるが、心が無いと

 楽でも詩でも言われたことがある。


(心はあるさ)


 技術が無いのだ。

 曹丕は思った。

 心は誰であれ持っている。

 それを伝える技術が無いだけだ。


 甄宓しんふつを見た時、美しい女だと思った。

 元々名高い女だったが、想像以上だった。

 確かにそうだが、彼女を見た時思ったのは「自分の妻にしたい」という欲ではなく、


『必ず曹操が愛妾に望む女だ』


 ということだった。

 名高い美貌。芸術の才。

 自分に合わないことは分かっていたが、

 黙っていればこの女は曹操か曹植のものになるだけだと思ったから、


「私に下さい」


 そう父に言った。

 言葉に出して父親に何かを所望したのはあれが生まれて初めてだった。

 それよりも前に近臣の者から、

 もっと自分の我を口に出した方がいい。

 あまりに秘密主義で手の内を見せない相手を、決してお父上は信用なさいませんと助言を受けたからだ。


 曹丕は別に甄宓を欲しいなどと少しも思っていなかった為、

 断られても構わなかったので、

 単なる思い付きだった。


『俺が欲しいから、お前は別のにしろ』


 と言われたら父親に対して一つ借りが出来る気もした。

 幼い頃はこういう気持ちや考えは無かったが、

 従順にしていても毛嫌いされるので、

 いつしか父親に気に入られたいという気持ちは掻き消えていた。

 逆らう気はない。

 自分に逆らう者は、血縁者でも殺す父親なのは分かっていた。

 情の薄い身内など、それこそ逆らえばいつだって排除して来るだろう。


 要するに逆らいや歯向かいではないが、

 自分の何もかも父の視点から見限っている曹操に、

 お前でもそんなことをするのか、と少しの驚きを与えられるようなことはして行かなくては、結局後継者に選ばれることはないのだと分かったから、そうならなければならないと思い始めた頃のこと。


 甄宓しんふつのことは、いい手段になった。


 きっとお前には勿体ない、似合わんぞなどと言って許さないと思っていたのに、

 少し考えたあと曹操は「分かった。そうするがいい」と頷いた。

 明らかに曹丕の考えを見抜いた上で、我を律して反撃して来たのが分かった。


 甄宓のことを父とやり取りした時、初めて曹丕は曹操と実際に剣を交わした実感を持ったのだ。


 恐ろしくもあったが、初めて自分をまともに見られた気もした。


 甄宓自身の心などどうでも良かった。

 結婚は淡々とこなし、初夜も余計な言葉など一切交わさず、酒の勢いで一度契っただけだ。

 甄宓も何も言わず、他人の女であったのだから当然だが、感じていたが女のたしなみは保ったまま、果てて終わった。

 初夜をこなしたあとは別々に寝た。

 曹丕は甄宓の夫を殺していたし、甄宓を生かして袁家の残党を黙らせるための政略結婚であったことはお互い承知だったから、女も自分の不幸な運命は受け止めても、義務を果たせば自分の隣でなど寝る気分にはならないだろうと思ったのだ。


 甄宓に対しての情は、初夜から全く無かった。


 やがて不仲が噂になると甄宓が曹操に呼ばれて城に行くようになったが、曹丕は少しも気にしなかった。

 仮に曹操が甄宓と関係を持っても、自分が長年毛嫌いして来た息子の嫁を抱いてる事実を実感させるだけだし、甄宓がどんな女だろうと最初から興味は無かったのだ。

 曹丕はもしこの先自分の立場が強く押し立てられるようなことが起きれば、その時は自分の手で、相応しい女を選ぶつもりだったから。

 甄宓など最初から正妻として見ていなかった。

 妾の一人がどんな男と遊ぼうと、どうでも良かった。


 甄宓は初夜で懐妊をし、息子を生んだ。


 これは意外だったが、まあ女ならそういうこともあるだろうと思っただけだ。

 懐妊した時も、生んだ時も、曹丕は会いに行かなかった。

 曹操や曹植がまるで自分の妻のように甲斐甲斐しく労わっていたようだから、不自由は無かっただろう。

 何度か母親が曹丕を叱責しに来て、労ってやりなさいと五月蠅かったので、曹丕はさして必要ともされていなかった戦場に出たりした。

 結果として父の側に居る曹植よりも、多少武官としての箔はついた。


 ある時このまま他人のようになって行くだろうと思っていた甄宓しんふつが、会いに来た。


 武器を手にしていて「貴方を殺そうと思った」と言っており、

 ……何故か泣いていた。


 妻を蔑ろにする夫に怒り狂い殺しに来たらしいのに、

 どうやらまともに入ったことのない曹丕の部屋の様子に驚いたようなのだ。

 

 曹丕の部屋は元々、弟の曹沖そうちゅうが暮らしていた部屋だった。

 曹操が最も愛した子供と言っていいかもしれない。

 そう言われても納得するような全てが、確かに曹沖にはあった。


 聡明さ、闊達さ、人間としての愛らしさすら、あの弟は持っていた。


 曹操はその幼い死を嘆き悲しみ、生前はあれほど頻繁に訪れていた曹沖そうちゅうの部屋を忌み嫌い、近づかなくなったのだ。人の出入りが亡くなり、物は埃を被り、美しかった庭は荒れ果てていた。

 

 離宮に暮らすのは、当てつけのようになるため、例え遠ざけられても父上と一緒の宮城で暮らすべきですと助言を受けたので、曹丕は「ここでいい」と打ち捨てられていた曹沖の部屋に入ったのだ。

 今は嫌っていても何の拍子か愛しがり、曹沖の使ったものを曹丕が使ったり、勝手に捨てたりすると父の怒りを買う可能性があった為、曹沖の使ったものは全て整えさせて、自分の部下に分け与えた。

 曹操が欲した時にはそれを速やかに献上するようにと伝え、全ての物を時間を掛けて運び出して、ほとんどの物が無くなった。


 曹丕は元々、あまり自分の周囲に物を置かない性格をしていた。

 以前住んでいた部屋にはあったのだが、曹沖の暮らしていたここは本当に人が来ない、一番宮城の奥まった所にあるため、人と会う時は宮城の客間を使えば良かったので、本当にここは曹丕だけの居城になった。


 甄宓はどうやら自分を愛さない男が、自分だけの城で、他の女を好きに住まわせていると思って来たらしいのだ。


 それが想像していたのと全く違って、

 ここはあまりにも人気が無いので、驚いたらしい。


 孤独に追いやられやって来たが、

 自分より遥かに孤独な男を目にして、怒りも霧散したのかもしれない。


 甄宓への愛情は、今でもさほど無いと曹丕は思っている。

 気を許す気はない、父親の意のままになる女だとすら思っていたようなことはさすがに無くなったが、立派な愛情はない。

 その証拠にあまり甄宓とは今も話さない。言葉を交わさない。

 

 ただ、存在を遠ざけなくなった。


 内密のような話をする時でも、甄宓が隣の部屋で過ごしていても気にならないし、

 自分を裏切ってどうこうするような女だとは思わなくなった。

 信頼する部下の一人のような感じだろう。


 正妻だが、唯一無二ではないし、

 替えは利く。


 だが信頼する忠臣の一人だ。



「失礼いたします」



 雨の向こうを見つめていた曹丕は数秒後「入れ」と返事をした。

 入って来たのは荀攸じゅんゆうだった。

 今回の件を一任している。報告に来たのだろう。



「殿下、報告に上がりました」



 曹丕は頷く。

 持って来た竹簡を渡す前に、荀攸は言った。


「申し訳ありません。離宮にいる全員を調べたのですが、まだ下手人げしゅにんは上がっていません。

 しかしながら、私が自分の手で取り調べていない者たちがいます。

 これからすぐに離宮に戻り、残りの者たちの尋問を行うつもりです。

 もうしばらく猶予を頂けますか。

 これは私の手で調べた者たちの詳細です。

 この者たちは実家や親類まで身元がはっきりしており、逃亡の可能性すらなく、四阿しあにも近寄っておらず、物理的に毒を入れるのは不可能な者たちです。

 殿下の許可があれば、離宮から出しても良いかと思われますが、噂などが広まるのは好ましくないので、今しばらく留め置きます。

 甄宓殿の容体については、宮廷医師の方から別に報告が行われます。

 下手人がまだ離宮に潜む可能性がある以上、殿下の御身はこちらの王城に今しばらく留め置き下さい」


子建しけんも調べたか」


 曹丕は容赦なく聞いて来た。

「はい。私自ら」

「どうであった」

「曹植殿ご自身は、此度のことで非常に驚愕し、心痛め憔悴しておられます。

 自ら関わっていないことは、間違いないかと」

「しかしあやつの取り巻きには未だに私に反意を持つ者が大勢いる。

 子建は甄宓しんふつを敬慕している故毒を盛ることは不可能だろうし、盛っても顔に出る。嘘を突き通すことは出来まい」


「仰る通りかと。曹植殿の椀にも毒が入っていたことから分かる通り、何者かが甄宓殿毒殺の嫌疑を曹植殿に着せようとしているのだと思われます」


「曹植と話がしたい。離宮に向かいたいが、お前が取り調べが終わるまで待てと言うのなら待ってやろう。しかし、それならば今すぐ曹植を王宮に呼べ」


「……殿下。その件は今しばらくお待ちください。

 確かに曹操殿は後継に殿下を指名されました。それはもはや変えようのないこと。

 ですが曹操殿の曹植殿への庇護が失われたわけではないのです。

 殿下が曹植殿ご自身をお疑いになっておられないのならば、自らによっての尋問はどうか今しばらく……」



「黙れ‼」



 曹丕が机を強く叩いた。


「荀攸。貴様は元々は父の許にいたな?

 では父と私の関係がどんなものであったか分かっているだろう。

 私がこの歳になるまで、幾度命を狙われたことがあると思っている?」


 曹丕の周囲では、時々人が死んだ。

 下手人は探されたが、一度も捕まったことはない。

 ……実際に曹丕の命が狙われたこともあるが、

 牽制の意味もあった。

 怯えさせ、曹操の後継になりたいなどと思わなくなるよう、

 心を折る意図も。

 

 荀攸は曹操を知っていた。

 子供に毒を盛るような男ではなかったが……、

 自らの後継者となると分からない。

 人の命の強さを推し量るようなことは、時々曹操はした。


 毒も単純に命を落とすようなものばかりではない。

 焼くような痛みを与えても、殺しまではしないものもあった。


「お怒りはよく分かります。

 ですが、戴冠式を控えた魏の為に、耐えて下さい。

 貴方と曹植殿を今一度権力闘争の舞台に上げるなど、

 呉と蜀が喜ぶだけです。

 我が国は赤壁で大敗を喫した。

 それでも国境が必要以上に脅かされず、防衛されたままになったのは、

 殿下が赤壁において曹操殿の殿を守られ、無事に生還することをお助けし、

 そのことによって後継者として定められたから。

 権力移譲が速やかに行われたことは、魏の幸いであり、誇るべきことなのです。

 今回のことで火種を掘り起こしてはなりません」


 国の為。


 身内に情の薄い曹丕に効く言葉はそれだけだった。

 荀攸は深く頭を伏せた。


 何が何でも、曹丕をここに留め置かねばならない。


 ――曹丕が動けば、曹操が動く。


 それだけは阻止しなければ。



「父の忠臣ならば、私に斬られぬと思っているのか。荀攸。

 それとも私は父から見下されたような人間だから、人を斬る度胸は無いと考えてるか」



「殿下」



 荀攸は頭を下げたまま、口を開いた。


「……私は、かつて長安ちょうあんで務めていた頃、董卓とうたくに会ったことがあります」


 怒りの表情を浮かべていた曹丕が一瞬、微かに目を開いた。


「まだあの者が洛陽らくように住み着いておらず、涼州から出て来たばかりの頃でした。

 たまたま市街で飲んでいた時、あの者の引き連れて来た涼州の商隊に店で遭遇し、

 酒を親し気に注がれたことがある。

 私は……。

 その時共にいたのが何顒かぎょうという男で、彼は後にわたしと共に董卓暗殺の嫌疑を掛けられ獄に入れられ、拷問を受けて自殺しました。

 私はその後幾度も、あの董卓に酒を笑いながら注がれた日に、奴を殺しておくべきだったと後悔をして来ました。

 

 洛陽の混乱が、あの悪魔を王宮に招き入れた。


 私の失策で、国を乱すわけには決して行かないのです!

 亡き友の為にも! 

 貴方は人を斬れる方ですが、例え斬られても、私は殿下をここに留め置かねばなりません!」


 ひどく遠くで、雷が鳴った。


 沈黙が落ちる。


「……。荀彧じゅんいくはいるか」

「は……外に」

「呼び入れろ」


 曹丕そうひは炎を微かに孕む、大きな火鉢の前に移動した。

 荀攸が扉を開けると、少し離れた所に立っていた荀彧がやって来る。


「殿下」


 荀彧は入って来ると、曹丕に一礼した。


「荀彧。荀攸はこれから離宮に戻り、自ら尋問していない人間の尋問を行うと言っている。その間私は王宮で待つべきだと」


「下手人が離宮に残っているとするならば、殿下の御身はここにあるべきかと」

「では荀攸の取り調べが終わるまでは、私はここに留まる。

 しかし、お前が全員取り調べても下手人を上げられなかった場合、今回離宮にいなかったとしても、曹植に親しい者を王宮に召喚し、尋問を受けさせろ。

 私が命を脅かされても、今まで一度も下手人は上げられなかった。

 今回は必ず炙り出す。

 いいな。それを誓えるのなら、今少し猶予を与える」


 荀攸は数秒考えたが、すぐに拱手きょうしゅした。


「承知いたしました」


「荀彧。その間お前はここに留まれ」

「かしこまりました」

 躊躇いも無く荀彧が頷く。


「曹植の関係者の取り調べを始めれば、その者達から恐らく曹操に嘆願が行われるぞ。

 そうすれば私は曹操と刃を交わすことになるかもしれん。

 それでもここに留まるか」


 曹丕を見つめ返す荀文若じゅんぶんじゃくの瞳は静かに炎の光を吸い込んでいる。


「そうさせないために、私と公達こうたつ殿がここにいると存じます。

 しかし例えそうなったとして、私は曹丕殿下にこれからはお仕えすると誓ったのです。

 あの方と貴方が刃を交わすと仰られるのなら、私は貴方の許で刃を振るいましょう」


 曹丕は荀彧を見たが、すぐに顔を反らすように、窓辺の方へと歩いて行った。


「強い雨になる。早く離宮に戻れ、荀攸。お前に全てを任すぞ」


「はっ!」


 荀攸は拱手すると、荀彧と一度目を合わせ頷き合った。

 彼はすぐに、部屋を出て行く。


 荀彧は彼を見送り扉を閉めると、部屋の中の椅子に腰を下ろした。


 火鉢の炎は明るく燃えている。


 眺めながら、荀彧は甄宓の命を願った。




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