Round.17

 幸せには、いろいろな形がある。穏やかな幸せ。静かな幸せ。そして——甘く、危険な幸せ。

 婚約から一週間が過ぎた。

 結婚式まで、あと二週間。

 カミラの毎日は——甘く、幸せで、そして大変だった。


 朝、目が覚めると——アシュランがいる。

 窓の外からではなく、今は堂々と部屋に入ってくる。「婚約者だから」と。

 侍女たちも、もう何も言わない。ただ、ニヤニヤと笑っているだけ。


「おはよう、カミラ」


 優しい声。そして——キス。おでこに。頬に。唇に。


「おはようございます……」


 カミラが答える頃には、もう頬が赤く染まっている。

 朝食も、一緒。昼食も、一緒。午後の散歩も、一緒。夕食も、一緒。ずっとそばにいる。

 でも——もう、息苦しくない。

 あの時、二人は話し合った。離れて、そして戻ってきた。今は——ちょうど良い距離。


 でも——。


「ねえ、カミラ」


 アシュランが囁く。庭園のベンチで、二人きり。


「君の唇、甘いね」


 そう言って——キス。深く。舌が入ってくる。


「んっ……」


 カミラの顔は真っ赤になり、体を震わせた。


「可愛い」


 アシュランが笑う。その笑顔が、悪戯っぽい。

 結婚式まで——そう、二人は決めていた。

 最後までは、しない。正式に夫婦になるまで、待つ。

 でも——キスは良い。抱きしめるのも良い。それ以外は——まだ。


 そのはずなのに。

 いつの間にか、キスの深さが変わっていた。

 最初は優しく。でも、だんだん——激しく。舌が絡まる。息が混ざる。カミラは、いつも頭が真っ白になる。


「アシュラン様……」

「何?」

「もう……人が見てますわ……」


 庭園には、侍女たちがいる。遠くから、こちらを見て、クスクスと笑っている。


「いいじゃないか」

 アシュランが平然と言う。

「僕たち、婚約者なんだから」

「でも……」

「それに——」


 アシュランがカミラの耳元で囁く。


「君が可愛すぎて、我慢できないんだよ」


 その声が、低い。カミラの耳が、熱くなる。

 こんな毎日。甘くて、幸せで。でも——恥ずかしくて。カミラは、いつもはわわとなっている。


 そして——気づいた。

 最近、私……アシュラン様に、何もできていない。

 いつもアシュラン様のペース。キスも、抱擁も、全部——アシュラン様から。

私は、ただ受け入れるだけ。それは幸せだけれど、でも——私も、何かしたい。

 アシュラン様を、喜ばせたい。驚かせたい。


 そう思った時、カミラは思い出した。

 お祖母様の指南書。そういえば——最後の章。まだ、読んでいなかった。



 その夜。カミラは、一人で部屋にいた。

 机の上に、指南書がある。革の表紙。古い本。

 でも、この本が——カミラとアシュランを結びつけてくれた。


 ページを開く。最後の章。


『禁断の誘惑』


 そのタイトルに、カミラは——ゴクリと喉を鳴らした。

 ページをめくる。そこには——。


『愛する殿方の心を、完全に奪う方法』

『これは、最後の、そして最も効果的な誘惑です』

『しかし、使う時は——覚悟を決めてください』

『なぜなら、殿方は——もう、貴女から離れられなくなるでしょう』


 カミラの心臓が、ドキドキと鳴る。

 次のページ。


『服を、一枚ずつ——ゆっくりと脱ぐのです』

『殿方の視線を独占し、心を奪うのです』

『恥ずかしがる必要はありません』

『貴女の美しさを、すべて——見せるのです』


 カミラの顔が、真っ赤になる。

 脱ぐ……? 服を……?


 でも、カミラは決心した。アシュラン様に、何かしたい。喜ばせたい。驚かせたい。


 よし。



 アシュランの部屋。ノックの音が響く。


「どうぞ」


 アシュランの声。

 ドアが開いて——カミラが入ってくる。

 アシュランはソファに座って本を読んでいた。顔を上げて、微笑む。


「カミラ? こんな夜に、どうしたんだい」


「あの……」


 カミラの声が、少し震えている。


「見ていてくださいますか?」

「見る?」アシュランが首を傾げる。

「何を?」


 カミラは答えなかった。ただ——深呼吸をして。

 そして、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。


 アシュランの目が、見開かれる。

 カミラはドレスのボタンを外していく。一つ、また一つ。指が、少し震えている。

 アシュランは——黙って見つめていた。本を閉じ、ソファに深く座り直す。

 サファイアブルーの瞳が、静かに——でも強く、カミラを捉えている。


 絹の布が月明かりに光りながら、静かに床へ滑り落ちた。

 次は、ペチコート。紐を解き、それも床に落とす。白いレースが闇に溶ける。

 カミラの心臓が、激しく鳴っている。でも——まだ続ける。震える指で、コルセットの後ろ紐を解く。

 少し苦労して、何とか外す。それも床へ。硬い生地が、音を立てる。


 もう——薄衣(シミーズ)だけになった。

 薄い白い布。肩紐で結ばれている。体のラインが透けて見える。

 月明かりがその薄布を通して、カミラの肌を照らしている。


 アシュランは——じっと見つめている。

 その瞳が暗くなっていた。深い海のように、底が見えない。けれど、その奥に——何かが燃えている。


 カミラは——恥ずかしくなった。肩紐に手をかける。でも——。

 恥ずかしい。こんなの、無理。やっぱり——。


「やっぱり……」

 カミラが呟いた。声が震える。


「これは……」

「だめだよ」


 低い声が、響いた。

 カミラはハッとして、顔を上げる。


 アシュランの表情が——変わっていた。

 いつもの優しい笑顔がない。真顔だ。

 その瞳が、暗く光っている。獣のような、まるで何かに飢えた狼のように。


「指南書に、従わなくては」


 その声が、低い。静かなのに——どこか怖い。

 カミラは、背筋が凍った。


「アシュラン様……?」


 アシュランが立ち上がる。ゆっくりと。

 まるで獲物に近づく肉食獣のように。

 その動きが滑らかで——でも危険で、カミラはゴクリと唾を飲んだ。


 一歩、また一歩。足音が、静かに響く。


「手伝うね」


 その声が——優しいはずなのに、どこか怖い。どこか危ない。


「え……」


 カミラが後ずさる。

 でも、アシュランの手が——カミラの肩に触れた。温かい手。けれど、その手が震えている。

 まるで、何かを必死に抑えているかのように。


「だって、君一人じゃ——」

 アシュランの指が、肩紐に触れる。ゆっくりと、丁寧に。

 でも、その指先が熱い。


「最後まで、できないでしょう?」


 カミラは——パニックになった。


「待って、アシュラン様!」

「待てないよ」


 アシュランの指が紐を、ゆっくりと解く。じれったいほどゆっくりと。

 その動作が、まるで儀式のように丁寧で。


「だって、君が——」

 紐が解ける。スルリと、音もなく。


「可愛すぎるから」


 薄衣が肩から滑り落ちる。

 月明かりがその白い肌を照らす。


「アシュラン様……」


 カミラの声が震える。涙が滲みそうになる。


「綺麗だ」

 アシュランが囁く。その声がかすれている。喉の奥から絞り出すように。


「君は、どうしてこんなに——綺麗なんだろう」


 薄衣が、床に落ちた。

 カミラは——もう、何も着ていなかった。

 ただ、アシュランの前に立っている。月明かりだけが、二人を照らしている。


「アシュラン様……」


 涙が滲みそうになる。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

 でも——アシュランの手が、カミラの肌に触れた。


 ゆっくりと。首筋から、肩へ。鎖骨を辿り、下へ。

 その指先が、熱い。カミラの肌を撫でる。まるで宝物に触れるかのように——丁寧に。

 でも、その手が震えている。


 触れられるたび——電流が走る。カミラの体が、びくんと震える。


「可愛すぎて……」アシュランの声が暗い。低い。まるで別人のように。

「イライラしてきた」


「え……?」


 カミラが戸惑う。


「君は、分かってない」


 アシュランの指が止まらない。肩から、背中へ。腰へ。お腹へ。全身を撫でていく。


「どれだけ、僕が——」


 その手が、カミラの腰を強く掴む。


「君を、求めているか」


 カミラの体が震える。頭が真っ白。息が浅くなる。


「ここも——」その手が動く。

「ここも——」また動く。

「全部、僕のものなんだよ」


 カミラの体は、もうぐずぐずに溶けていた。

 体が勝手に反応して、止められない。


「あ……」


 小さな声が漏れる。自分の声なのに——自分じゃないみたい。


「良い声」

 アシュランが微笑む。でも、その笑みは優しくない。どこか危険で、獣じみている。


「もっと、聞かせて」


 カミラ、もう何も言えない。息も絶え絶え。

 アシュランの手が触れるたび、びくりと体が大げさに反応し、恥ずかしさに身悶える。


 そのまま、ベッドに運ばれる。柔らかいシーツが、背中に触れる。

 アシュランが覆いかぶさってくる。その瞳が、暗く光っている。

 月明かりの中で——まるで、悪魔のように。


「初夜まで——」

 アシュランが囁く。耳元で。その吐息が熱い。


「毎日、練習しようか」

「な、え……!?」

「だって——君、何も分かってないでしょう?」

「初夜のために——」


 その手が、カミラの太腿を撫でる。じれったいほどゆっくりと。


「ちゃんと、教えてあげないと」


 カミラ、頭が真っ白。

(結婚までの我慢は……!?)

 でも、声にならない。喉が震えるだけ。ただ、アシュランの腕の中で——震えている。


「大丈夫」


 アシュランが優しくキスをする。額に。頬に。唇に。

 その唇が柔らかい。でも、熱い。


「最後までは、しないよ」


「でも——」


 その瞳が暗く光る。サファイアブルーの瞳が——深い海のように。


「それ以外は、全部——」


 その手が、カミラの体を撫でる。


「僕が、すべてを教え込むよ」


 キスが、深くなる。舌が絡まる。息が混ざる。

 アシュランの手が、カミラの体を知っていく。ゆっくりと。丁寧に。でも——執拗に。


 触れられるたび、カミラの体が震える。声が漏れる。止められない。

 時間が、どれだけ経ったのか——カミラには分からなかった。


 ただ、アシュランの手が——ずっと、体を撫でていた。

 キスが何度も落ちる。首筋に。鎖骨に。胸に。お腹に。太腿に。

 全身に——アシュランの痕が、残されていく。


 カミラは、もう何も考えられなかった。ただ感じていた。アシュランの手を。唇を。温もりを。全部を。


「良い子だね」


 アシュランが褒める。その声が優しい。


「もっと、教えてあげる」


 カミラの体が、限界に近づいていく。息が荒くなる。心臓が激しく鳴り、頭は真っ白になった。


「怖くないよ」


 アシュランが優しく囁く。でも、その手は止まらなかった。


「僕が、ちゃんと——」


 その手が、また動く。


「教えてあげるから」


 そして——カミラは——。



 どれくらい時間が経ったのか、カミラには分からなかった。

 ベッドに横たわっている。体が、まだ震えている。息が整わない。

 汗が、肌に光っている。月明かりが、その肌を照らしていた。


 アシュランが、服を整えながら隣に座っている。

 その表情が——満足そうだった。


「お疲れ様」


 その声が優しい。いつもの、優しいアシュラン様。


 カミラは、もう何も言えなかった。ただ、放心している。

 体から力が抜けて、頭がぼんやりしている。


「明日も、練習しようね」


 アシュランがニコッと笑った。


 カミラ、やっと声を絞り出す。かすれた声で。


「……毎日……ですの?」


「もちろん」


 アシュランが当然のように答える。


「初夜まで、あと二週間。たっぷり時間があるね」


 カミラ、絶望。


(もう……指南書、使わなければよかったですわ……)


 でも、アシュランは満足そうに微笑んでいた。


「君のすべてを、知りたいから——ゆっくり、教えてあげるね」


 その言葉に、カミラはまた顔が熱くなった。

 体が、勝手に反応してしまう。


 アシュランがカミラの額にキスをする。優しく。


「おやすみ、カミラ」


「明日も——」


 その瞳が、いたずらっぽく光る。


「楽しみにしてるよ」


 そう言って、アシュランは部屋を出て行った。

 一人残されたカミラは、ベッドに沈み込む。


 体がまだ熱い。触れられた場所が、まだ——ジンジンしている。

 アシュランの手の感触が、まだ残っていた。


 窓の外を見ると、満月が出ていた。青白い光が、部屋を照らしている。

 けれど、カミラには——その月が、まるで笑っているように見えた。


 婚前交渉バトル——指南書の最終章は、こうしてカミラの完敗に終わった。

 でも、それは——幸せな敗北だった。


 次の章で、いよいよ結婚式。

 そして——二人の、新しい人生が始まる。

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