Round.14

 人は誰しも、言えない過去を抱えている。深い傷ほど、言葉にするのが怖い。——愛する人の前では、なおさらだ。


 翌日の夜、雨が降り始めた。

 窓を叩く雨音が、静かな王宮に響く。


 カミラは自室の窓辺に立って、外を見つめていた。稲妻が空を裂き、低い雷鳴が胸の奥を震わせた。


 昨日、執務室でアシュランに会った。侍女に変装して、お茶を届けた。彼は驚いて、そして——少しだけ、笑った。あの笑顔が、まだ胸に残っている。温かくて、でもどこか寂しそうな笑顔。


 でも、それだけだった。

「もっと、話したかった……」

 カミラは呟いた。声が、雨音に溶けていく。

 彼は「愛しすぎて怖い」と言った。「君を壊してしまうのが」と。


 でも、なぜ?

 何が、彼をそこまで怖がらせているの?


 窓ガラスが曇って、外の景色がぼやけていく。指先で、ガラスに触れる。冷たい。


 カミラは決心した。

 このまま待っているだけでは、何も変わらない。彼は、また自分の殻に閉じこもってしまう。



 マントを羽織り、部屋を出る。廊下は薄暗くて、ランプの光だけが揺れている。影が、壁に長く伸びていた。足音が、静かに響く。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。




 執務室のドアの前に立つ。

 深呼吸をする。胸が、ドキドキと鳴っている。


 中から、かすかに明かりが漏れている。ドアの隙間から、オレンジ色の光。まだ、起きているのだ。


 カミラはもう一度深呼吸をして、ノックした。

 コンコンと、二回。音が、静かな廊下に響く。

「……どうぞ」

 彼の声は、少し疲れているような、そんな響きだった。


 ドアを開けると、アシュランが窓の外を見つめて立っていた。

 プラチナブロンドの髪が、ランプの光に揺れている。黒いシャツの袖をまくって、腕が露わになっていた。 


「カミラ……」

 アシュランが振り返った。サファイアブルーの瞳が、驚きに見開かれる。そして——一瞬、嬉しそうな光が宿った。でも、すぐに不安げな色に変わる。


「こんな夜に、どうして」

「だって……」

 カミラは一歩、部屋に入った。マントから、雨の匂いがする。


「昨日、あれきり話してくれないから」


 アシュランは目を逸らした。

 雨音が、二人の間を埋めている。稲妻が光って、部屋を一瞬、青白く照らした。アシュランの横顔が、浮かび上がる。


「アシュラン様」

 カミラが静かに言った。

「もう、逃げないで」


 その言葉に、彼の肩が震えた。

 窓に額を押し当てる。ガラスが、冷たいだろう。その姿が、まるで何かに耐えているように見えた。


 長い沈黙。

 雨音だけが、部屋を満たしている。

「……分かった」

 ようやく、彼は言った。声が、震えている。

「話そう。全部」




 アシュランはソファに座るよう促して、自分も向かいに腰を下ろした。

 二人の間に、小さなテーブルがある。ランプの光が、二人の顔を照らしていた。影が、揺れている。


 アシュランは手を組んで、じっと見つめている。何かを探すように。言葉を、探しているのだ。

「僕は……君を、閉じ込めたことがある」

 アシュランは、ゆっくりと話し始めた。一言一言、噛みしめるように。

「幼い頃の話だ」

 カミラは黙って、彼を見つめた。息を潜めて、待っている。

「僕が12歳で、君が10歳の時」

 アシュランの声が、遠くなっていく。まるで、記憶の底に沈んでいくように。視線が、どこか遠くを見ている。




 ──7年前の春──

 王宮の庭園は薔薇の香りに満ち、春の光が花々を照らしていた。


 アシュランは、温室の中にいた。

 ガラス張りの温室は、外より少しだけ暖かい。太陽の光が、ガラスを通して柔らかく差し込んでいる。植物の匂いと湿った空気が、鳥の声と混ざる。


 アシュランは、一人で本を読んでいた。植物図鑑。綺麗な挿絵が、ページいっぱいに広がっている。

『アシュラン様!』

 明るい声が響いた。

 その声に、アシュランの心臓が跳ねる。

 振り返ると、カミラが走ってきた。赤い髪を揺らして、笑顔で。まだ小さな身体。短い足で、一生懸命走っている。


 その姿が、可愛くて——アシュランは優しく微笑んだ。

『カミラ、ゆっくりでいいよ。転ばないように』

『はーい!』


 カミラがアシュランの前で立ち止まる。

 息を切らして、でも笑顔で。

 その笑顔は——太陽みたいに眩しかった。

『見てください! お花を摘んできたのです!』


 カミラが小さな手に、野花を握りしめている。白い小さな花。少ししおれかけているけれど、一生懸命摘んできたのだろう。

『綺麗でしょう? アシュラン様どうぞ!』

『……ありがとう、カミラ』

 アシュランは優しく花を受け取った。

 そっと、大切そうに。

『大切にするね』

『アシュラン様、大好き!』


 カミラがニッコリ笑った。無邪気な笑顔。何の疑いもない、純粋な笑顔。

 その笑顔を見て、アシュランの胸が、温かくなった。

「僕も、カミラのことが大好きだよ」

 優しく、カミラの頭を撫でる。

 小さな頭。柔らかい赤い髪。


「ねえ、カミラ」

『何ですの?』

「ずっと、僕のそばにいてくれる?」

『はい! ずっと一緒ですわ!』


 カミラは迷わず答えた。


 その笑顔が、無邪気で——。

 アシュランは優しく、穏やかに微笑んだ。

「ありがとう」


 でも——。

 その瞳の奥に、何かが蠢いていた。

 二人は、しばらく一緒に遊んだ。

 花を見て回ったり、蝶を追いかけたり。

 カミラの笑い声が、温室に響く。

 アシュランも、優しく微笑んでいた。

 でも——。


『あ、もう帰りませんと!』

 カミラが突然言った。

『お母様と約束があるのです。また明日も遊んでくださいね!』

 そう言って、カミラは走って行こうとした。


 その瞬間——。

 アシュランの中で、何かが弾けた。

 帰る。

 どこかへ行ってしまう。

 僕から、離れていく。


「待って」

 思わず、カミラの手を掴んだ。

『え?』

 カミラがキョトンと振り返る。

 不安も恐怖もない。ただ、不思議そうに。

「帰らないで」

『でも、お母様が——』

「帰らないで」

 アシュランの声が——変わっていた。

 低く、震えて。

 その瞳が——何かに取り憑かれたように、カミラを見つめている。

 でも、カミラは気づかない。


『えっと…』

 カミラは無邪気に首を傾げる。

 

 そんなカミラを前にアシュランの胸の奥では、何かが燃え上がっている。

 黒くて熱い、抑えきれない衝動。


 この子を、誰にも渡したくない。

 ずっと、ここにいてほしい。

 僕だけのものでいてほしい。

 どこにも行かないで。

 お願いだから——。


「僕と、ずっと一緒にいて」

『うん! ずっと一緒ですわ! だから、明日も——』

「今日も、一緒にいて」


 アシュランの手が、カミラの手首を強く掴んでいる。

 

 それでもいつもと違う、アシュランの様子にカミラは全く気付けないでいた。

 ただ、ニコニコと笑っている。

『それならもう少し遊びましょう! 少しくらいならきっとお母様も許してくれますわ!』


 カミラは嬉しそうに言った。

 アシュラン様と、もっと一緒にいられる。

 それが、ただ嬉しい。


「ありがとう、カミラ」

 アシュランが微笑んだ。

 でも、その笑顔は——どこか歪んでいた。

「じゃあ、こっちへおいで」

『はーい!』 


 カミラは無邪気に、アシュランの後をついていく。

 何も疑わずに、スキップをしながら。

 


 温室の奥の小さな部屋の前で2人は立っていた。

『ここは?』

 カミラが不思議そうに見上げる。

「道具を置く部屋だよ」

 アシュランが優しく答える。


「ここで、ちょっと待っててほしいんだ」

『え? どうして?』

 カミラが首を傾げるものの、怖がってはいなかった。ただ、不思議そうにアシュランを見つめた。


「すぐに戻るから」

『分かりましたわ!』

 カミラはニコニコと部屋に入った。


「良い子だね」

 アシュランがカミラの頭を優しく撫でる。


 でも——その手が、震えていた。


 そして——。

 ドアを、閉めた。

 カチャリと、鍵をかける音。金属が擦れる、冷たい音。


『アシュラン様?』

 ドアの向こうから、カミラの声。


『すぐに戻るよ』

『はーい!』

 カミラは、まだ何も分かっていなかった。

 閉じ込められたことも。これが、どういうことなのかも。

 ただ、部屋の中を見回している。


『お道具がいっぱいですわ』

 一人で呟いて、窓から差し込む光の暖かさに微笑んでいた。


 アシュランは、温室の外に出た。

 庭園を歩く。薔薇の香りが、鼻をくすぐる。でも、その香りが、今は苦しい。

 カミラは、あの部屋にいる。

 誰にも見つからない。

 誰にも連れて行かれない。

 僕だけの——。

 そう思うと、胸が熱くなった。

 嬉しかった。

 安心した。

 でも、同時に——。

 心の奥で、小さな声が囁いていた。

 これは、間違っている。

 これは、してはいけないこと。

 でも、その声は——黒い感情に飲み込まれていった。



 太陽が、傾き始める。


 温室に残されたカミラは、だんだん不安になっていた。

『アシュラン様……?』

 ドアを叩くも、返事はない。

 部屋の中が、だんだん暗くなっていく。

 窓は高くて小さく、光もわずかにしか入ってこない。


『アシュラン様……どこですの……?』

 誰も来ないことに気付いたカミラの声が震え始める。


 誰も、助けてくれない。暗い。怖い。無邪気なカミラは恐怖の感情に支配された。


『アシュラン様……』

 カミラの声が、泣き声に変わっていく。

 数時間が過ぎた。


 アシュランは、庭園を歩き続けた。でも、足が——温室へと向かっている。

 気づけば、温室の前に立っていた。

 ドアを開けると——。

 泣き声が聞こえた。


『うう……アシュラン様……』

 小さな、震える声。か細くて、途切れそうな声。

 ハッとして、部屋のドアを開けた。鍵を回す手が、震える。

 そこには、カミラがうずくまって泣いていた。

 小さな身体が、震えている。両手で顔を覆って。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。頬が、真っ赤になっている。


「カミラ……」

『アシュラン様……怖かった……』


 カミラが泣きながら、アシュランを見上げた。

 その瞳に——恐怖があった。

 僕を、怖がっている。


 その事実が、アシュランの胸を突き刺した。氷の刃が、心臓を貫いたような痛み。

『暗くて……誰も来なくて……帰れなくて……』

「ごめん、ごめん……」

 アシュランはカミラを抱きしめた。


 小さな身体が、震えている。まるで、怯えた小動物のように。泣き声が、耳に痛い。その声が、胸に突き刺さる。


「もう、しないから……ごめん」

 何度も、何度も謝った。

 その瞬間——。

 温室のガラスが、ビリビリと震えた。

 植物が、一斉にしおれていく。枯れていく。

 幼いアシュランの魔力が、感情とともに暴走した。

『やめて……怖い……』

 カミラの泣き声が、震えている。

 ハッとして、アシュランは手を離した。


 触れてはいけない。

 触れたら、壊してしまう。

 でも、カミラはしばらく泣き止まなかった。

 その時、アシュランは理解した。

 自分の愛は——時に、相手を傷つける。

 自分の独占欲は——相手を怖がらせる。

 自分の魔力は——相手を傷つける。


 カミラを守りたいのに。

 カミラを幸せにしたいのに。

 自分が、カミラを泣かせてしまった。

 自分が、カミラを怖がらせてしまった。

 その日から、アシュランは誓った。

 もう二度と、カミラを泣かせない。

 もう二度と、自分の独占欲に負けない。

 だから——触れてはいけない。

 深く、愛してはいけない。

 近づきすぎてはいけない。

 壊してしまうから。




「……それが、僕の罪だ」

 アシュランは顔を上げた。

 その表情は——いつもの穏やかさを保っている。でも、その瞳の奥に、何かが揺れていた。


「あの日から、ずっと……君を泣かせたくないと思った。けれど、君を見るたびに、壊してしまいそうで怖い。君が笑うたび、僕の中の何かが叫ぶんだ」


 声は静かだけれど——その言葉には、抑えきれない何かが滲んでいる。

「独り占めにしたい、誰にも渡したくない、ずっとそばに置いておきたい——って」


 拳を、そっと握りしめる。その手だけが、震えていた。

「でも、それをしたら……また、君を泣かせてしまう」

 アシュランは立ち上がって、窓の外を見た。

 雨が、まだ降っている。


「そして——」

 彼は静かに続けた。

「僕の家系には……呪いがあるんだ」

 カミラは息を呑んだ。

「王家に伝わる古い書に、こう記されている」

 アシュランの声が、淡々と響く。


『愛する者と身体を重ねる前に深く触れれば、魔力は暴走し、相手を傷つける。しかし正式な婚姻の儀を経て、夫婦となり初めて結ばれれば、呪いは解ける』


 カミラは黙って聞いている。

「つまり——」

 アシュランが静かに説明した。

「結婚式を挙げて、正式に夫婦になるまでは……」


 少しだけ、間を置く。

「君を、抱くことはできない」


 その言葉が、カミラの胸に沈んでいく。

「キスや、抱擁は——何とか、大丈夫だった」

 アシュランは窓の外を見た。

「あの夜も……君に触れることができた」


「でも、それ以上は——」

 彼の声が、わずかに低くなる。

「もし、君を求めてしまったら……、肌を重ねてしまったら、魔力が、制御できなくなる」

 アシュランがゆっくりと振り返った。

 その表情は、穏やかなままだった。


「君を、傷つけてしまう」

 雨音が、静かに響いている。

「でも、結婚の儀を経た後は、傷つけることはなくなると書いていた」


 アシュランがカミラを見た。

 微笑んでいる。でも、その瞳は——笑っていなかった。


「だから、僕は——」

「結婚式まで、待ちたいんだ」

 その瞳の奥に、深い願いがある。

 いや——執着が。

「君を、絶対に傷つけたくない」




 カミラは、静かにアシュランの手を取った。

 その手が、冷たい。

「だから……」

「あの夜、何度も離れようとしていたのですね」

「私はもっと、と思っていたけれど」

「あなたは——必死に、堪えていた」

 アシュランは小さく笑った。


「ああ……限界だったよ。だが、君に触れたい。君の全てを、知りたい」

 その声が、わずかに震えた。

「でも、触れたら壊してしまうかもしれないことが……どれだけ辛いか」

 一瞬だけ、仮面が剥がれた。

 でも、すぐに——また、穏やかな笑みが戻る。

 カミラの手は温かい。

「でも、私には——」

 カミラが微笑んだ。

「『恋愛指南書』がありますわ! そこには、こうも書いておりますの! 『愛する人を待つことも、愛のひとつ』と!」

 その言葉に、アシュランは目を見開いた。

 そして、クスリと笑った。


「君の指南書ね。僕には『王家の古書』があって、君には『恋愛指南書』がある」

 アシュランが優しく微笑む。

「面白い組み合わせだね」

「だから、待ちますわ」

 カミラが言った。

「あなたが安心できるまで。呪いが解けるまで」


 カミラの瞳が、優しく微笑んでいた。

「でも——」

 いたずらっぽく光る。

「それまでは、キスはたくさんしてくださいね」

 その言葉に、アシュランは、少しだけ、困ったように笑った。

「……ああ、それは約束する」

 でも、その瞳の奥に、何か、暗いものが蠢いている。

 カミラには、見えなかったけれど。




 しばらくして、二人は離れた。

 アシュランの表情は——少しだけ、軽くなっていた。長年背負ってきた重荷が、少しだけ軽くなったような。

「でも……」

 彼は言った。

「まだ、怖いんだ」

「怖い?」

「君を、壊したくない」

 アシュランは窓の外を見た。雨が、まだ降っている。でも、少しだけ弱くなっている。

「だから、結婚式まで……やっぱり、待ちたい」

 カミラは微笑んだ。

「では、壊れないことを証明して差し上げますわ」

「え?」

「私は、あなたが思っているより、ずっと強いの」

 カミラの瞳が、いたずらっぽく光った。


「だから、もう心配しないで。私を、信じて」

 その言葉に、アシュランは小さく笑った。

「……君には、敵わないな」

 その時、雨が上がった。

 雲間から差し込む月光が、部屋を銀色に染めた。

「月が……」

 カミラが窓を見た。

「綺麗ですわね」

「ああ」

 アシュランも窓を見た。

 月が、二人を照らしている。

 まるで、祝福するように。まるで、二人の未来を照らすように。

 二人は並んで、月を見上げた。

 距離は、まだある。

 触れることは、まだできない。

 でも——。

 心は、確かに近づいていた。

 魂が、繋がっていた。

 婚前交渉バトル——。

 過去の傷がいま、明かされた。

 でも、それは——終わりではなく、始まりだった。

 二人の愛が、より深くなる。

 そのための、大切な一歩。

 痛みを分かち合うこと。

 過去を受け入れること。

 それが、本当の愛の始まり。

 

 全てが、変わる。

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