Round.12

 恋する令嬢が知らないのは、自分が放つ魅力が、どれほど相手の理性を破壊していくかということだ。そして——初めてのキスは、二人の関係を決定的に変える。


 舞踏会の三日前。カミラは自室で指南書のページをめくっていた。

 午後の光が窓から差し込み、埃が舞う。静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響いた。


「次の秘訣は……」

 そこには、こう書かれていた。 


『第十三の秘訣:彼の心を奪う最後の一押し——魅惑のドレスと香り』

『舞踏会は最大のチャンス。普段とは違う、大胆な装いで彼の視線を独占しなさい。そして、特別な香りで彼の記憶に刻み込むのです。彼があなたのことを、一瞬たりとも忘れられないように』


「大胆な装い……」


 カミラは頬を染めた。

 いつもは控えめな色を選んでいたけれど、今回は違う。今回は——。


「真紅のドレス、ですわね」

 決心した時、心臓が一つ大きく跳ねた。

(今度こそ、わたくし自身の力で、アシュラン様の心を奪ってみせますわ)




 翌日、カミラはルシアンの調合室を訪れた。

 薬草の匂いと、魔法陣の淡い光に満ちた部屋。棚には色とりどりの小瓶が並んでいる。

「ルシアン、いらっしゃいますか?」

「……何の用でしょうか、カミラ様」


 ルシアンが振り返った。黒髪が、実験台の明かりを反射する。グレーの瞳が、無表情のままカミラを見た。


「あの、お願いがあって……」

「また、ですか」

 ルシアンは溜息をついた。


「どうせ、アシュラン様を誘惑する魔法アイテムでしょう」

「そ、そんな風に言わないでください!」


 カミラは慌てた。

「ただ……舞踏会で、特別な何かが欲しくて」

「香水」

 ルシアンは少し考えてから、棚に向かった。

「……仕方ありませんね」

 彼は小瓶をいくつか取り出し、調合を始めた。淡い光が、液体の中で揺れる。

「この香りは、魔力を帯びた花のエッセンスです。あなたの体温に反応して、優しく香ります」

「まあ……」

「そして」


 ルシアンは、さらに別の液体を加えた。

「あなたの感情が高ぶると、魔力が花びらのように舞います」

「花びら……?」

「視覚効果です。ロマンティックでしょう」


 ルシアンは無表情のまま言った。でも、その声には、わずかな優しさが滲んでいる。

「ありがとう、ルシアン!」

「……別に、礼を言われるようなことではありません」

 ルシアンはそっぽを向いた。

「ただ、アシュラン様が暴走しないように願うばかりです」




 舞踏会当日の夕方。

 カミラは鏡の前に立っていた。

 真紅のドレスが、身体のラインを美しく際立たせる。オフショルダーのデザインが、白い肩を覗かせている。赤い髪を編み上げて、小さな花の髪飾りをつけた。


 ルシアンの調合薬を、首筋に一滴。

 甘く、でも上品な香りが、ふわりと広がった。

「……行きましょう」

 カミラは深呼吸をした。グリーンアイが、鏡の中で輝いている。




 王宮の大広間は、すでに華やかな音楽と光に満ちていた。

 シャンデリアが煌めき、貴族たちが優雅に踊っている。テーブルには色とりどりの料理が並び、給仕たちが忙しく動き回っていた。


 アシュランは、階段の下で待っていた。

 プラチナブロンドの髪を整え、黒いタキシードを纏っている。サファイアブルーの瞳が、階段の上を見つめた。


 そして——。

 カミラが現れた。

 時が、止まった。

 真紅のドレス。赤い髪。白い肩。


 階段を降りてくる彼女の姿が、まるでスローモーションのように見える。

 周囲の音が消えた。音楽も、話し声も、全てが遠くなる。

 アシュランの視界には、カミラしかいなかった。

「……」

 息をするのを、忘れた。

 心臓が、激しく脈打つ。全身の血液が、沸騰しそうなほど熱くなる。


 そして——彼の周りの魔力が、激しく揺れ始めた。

(駄目だ。落ち着け)


 アシュランは必死に魔力を制御した。でも、視線はカミラから離せない。


 カミラが階段を降りきった。

 その瞬間、男性たちの視線が一斉にカミラへ向かい、女性たちの間に微かなざわめきが走った。

 アシュランの魔力が、さらに激しく波打つ。会場の魔法陣が、ピリピリと震えた。


「……落ち着いてください、アシュラン様」

 背後から、ルシアンの低い声が聞こえた。

「あなたの魔力が暴走しかけています」

「……分かっている」


 アシュランは拳を握りしめた。

 そして、カミラへと歩み寄った。

「カミラ」

「アシュラン様」

 カミラが微笑んだ。その笑顔が、アシュランの胸を突き刺す。

「今夜は……」

 アシュランはカミラの手を取った。

「一歩も、君を離さない」

 その声は、静かだが——絶対的だった。




 ワルツが始まった。

 アシュランがカミラの腰に手を回し、優雅に踊り始める。

 音楽に合わせて、二人の身体が一体となって動く。カミラのドレスの裾が、美しく広がった。


 そして——。

 カミラの身体から、淡い微光が溢れ始めた。

 まるで花びらのように、キラキラと舞う魔力。ルシアンの香水の効果だ。

 周囲の人々が、息を呑んだ。

「カミラ……」

 アシュランが囁いた。

「今日の君は、一段と美しい」

「ありがとうございます」

 カミラは頬を染めた。アシュランの手が、腰にある。その熱が、ドレス越しに伝わってくる。


「いや、美しいなんて言葉では足りない」

 アシュランの瞳が、カミラの唇を見た。

「君は——誰よりも、眩しい」

 曲が終わっても、アシュランは手を離さなかった。

「少し……外の空気を吸いに行こうか」

 その声には、有無を言わせない響きがあった。

「はい」

 カミラは頷いた。




 二人は庭園へ出た。

 月明かりが、優しく二人を照らしている。薔薇が咲き誇る小道。魔法の光が、木々の間で揺れていた。薔薇の香りが、夜風に混じって淡く漂う。

 人混みから離れて、ようやく二人きりになれた。


「カミラ」

 アシュランが立ち止まった。

 ゆっくりと振り返る。その瞳が、月明かりの中で輝いている。

「アシュラン様……今日は、いつもと違いますね」

「……ああ」

 アシュランが一歩、近づいた。


「君が、あまりにも美しくて」

 もう一歩。

「もう……我慢できない」

 アシュランがカミラの頬に手を添えた。

 その手が、わずかに震えている。


「ずっと、触れたかった」

 顔を近づける。カミラの吐息が、アシュランの唇にかかる。


「ずっと……こうしたかったんだ」

 唇が、触れた。

 優しく——けれど熱い。


 カミラの身体から、さらに多くの微光が溢れ出した。まるで祝福するかのように、薔薇の花びらのように舞う。

 アシュランの魔力も呼応して、周囲の魔法陣が柔らかな輝きを放ち始めた。


 一度では、足りなかった。

「カミラ……」

 名前を呼びながら、もう一度。

「カミラ」

 さらに、もう一度。


 何度も、何度も。

 優しいキスが、次第に深くなっていく。貪るように、求めるように。

 アシュランの腕が、カミラの背中を抱きしめた。

 カミラの身体が、熱くなる。全身から、熱の霞のような魔力が立ち上った。体温の上昇が、視覚化されている。


「んっ……」

 カミラが小さく声を漏らした。

 その声に、アシュランの理性が揺らぐ。

 息が荒くなる。心臓が、激しく鳴る。 


 アシュランの手が、カミラの背中をゆっくりと撫でた。ドレスの布越しに、彼女の体温が伝わってくる。

 指先が、背中の紐に触れた——。

「っ……」

 アシュランがハッと我に返った。


 慌ててカミラから離れる。

 周囲の魔法陣が、激しく明滅していた。暴走寸前だ。


「ごめん……」

 アシュランは息を整えながら言った。

「僕は……やり過ぎた」

 拳を握りしめる。その手が、震えている。

「君を、驚かせてしまった」

「アシュラン様……」

「僕には……守らなければならない、約束があるんだ」

 言葉が喉で詰まったように、しばし沈黙が落ちた。

 月の光が、二人の間を静かに照らす。


「王家の戒律で……結婚前に、花嫁に深く触れてはならないと」

 その声には、苦悩が滲んでいる。

「だから……ここまでだ」

 沈黙が落ちた。

 月明かりだけが、二人を照らしている。

 カミラの心臓は、まだ激しく鳴っていた。身体が、まだ熱い。 


「あの……」

 カミラが顔を上げた。

 頬が、真っ赤に染まっている。

「アシュラン様」

「……何?」

「私は……驚いてなんて、いません」

 カミラはアシュランをまっすぐ見つめた。グリーンアイが、月明かりの中で揺れる。


「むしろ……」

 声が震える。でも、言わなければ。

「もっと……して欲しかったです」

 アシュランの表情が、凍りついた。

「……今」

 その声が、低く、危険なほど甘い。

「何と言った?」 


「もっと……」

 カミラは涙目になりながらも、続けた。

「アシュラン様に、触れて欲しかったです」

 その瞬間、アシュランの魔力が激しく揺れた。

 周囲の魔法陣が、一斉に明滅する。薔薇の花が、魔力の波に揺れた。

「……カミラ」

 一拍の沈黙。

「君は、僕を……試しているのか?」

 一歩、近づく。

「これ以上は……本当に、僕は止まれなくなる」


 カミラの肩を掴む。その手に、力が入る。

「だから、お願いだ」

 アシュランの声が、わずかに震えた。

「結婚式まで……待っていてほしい」

 カミラの頬に、そっと触れる。

「君を……誰よりも、愛している」

 そして——もう一度、優しくキスをした。

 短いキス。でも、そこには全ての想いが込められていた。




 二人は庭園から戻った。

 カミラの心臓は、まだドキドキと鳴っている。唇が、まだ熱い。

 アシュランの手は、まだわずかに震えていた。

(アシュラン様……あんなに、情熱的だなんて)

 カミラは頬を押さえた。

(指南書には、こんなこと書いてなかった)

(でも……もっと、もっと欲しくなってしまいますわ)

(こんな気持ち、知らなかった……これが恋の本当の意味なのでしょうか)

 一方、アシュランは——。

(……危なかった)

 彼は拳を握りしめた。

(もう少しで、全てを忘れるところだった)

(カミラ……君は、僕の理性を全て奪っていく)

(結婚式まで……本当に、持つだろうか)

 月明かりの下、二人の影が重なっている。

 初めての本格的なキス。

 それは、二人の関係を——決定的に、変えた。




 その夜、廊下で。

 ルシアンとライネルが、遠くから二人を見送っていた。

「なあ、ルシアン」

「……何でしょう」

「アシュラン、大丈夫か? さっき、魔力がヤバかったぞ」

「ええ。暴走寸前でした」

 ルシアンは無表情のまま、溜息をついた。

「でも、ちゃんと止まれたようだな! さすがだ!」

 ライネルは明るく言った。

「……次は、どうでしょうか」

 ルシアンは窓の外を見た。月が、冷たく光っている。

「カミラ様も、どんどん大胆になっています」


「まあ、婚約者同士だし——」

「問題は、アシュラン様が自分を許せるかどうかです」

 ルシアンの声が、低くなった。

「あの方は……まだ、あの夜のことを引きずっている」

「……ああ、あの事件か」

 ライネルの表情が、珍しく真剣になった。

「ええ」

 ルシアンは頷いた。

「いずれ、全てが明らかになる日が来るでしょう」

「その時、カミラは——」

「受け入れられるでしょうか。アシュラン様の、本当の姿を」 


 沈黙が落ちた。

 二人は、それぞれの部屋へと戻っていった。



 婚前交渉バトル——。

 初めてのキスは、すべてを変える“始まり”だった。

 王子の抑えきれない想い。

 令嬢の無自覚な誘惑。

 そして、まだ明かされていない過去。

 全てが、少しずつ——動き始めている。

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