第2話
それからしばらく、シエロは大人しくしていた。無事に帰りついたあと、お目付け役のヴィクターや父からこってり叱られる羽目になったし、ようやく出逢えた運命の男に追い払われた事実に心がついていけなかったせいだ。その代わりと言ってはなんだが、父からの不用意な見合いの勧めはなくなった。シエロが逃げ出したいほど見合いが嫌だという事実に父がようやく理解を示してくれたからだ。
見合いと称してアルファを送り込んでくることはなくなったが、父は公務に付き添わせる際にさり気なく優秀な婚約者候補を行く先々に用意していた。それは侯爵家や伯爵家の見目麗しい息子たちだったが、シエロはいつも以上に愛想よく減らず口を叩かぬように注意しながらも、無意識のうちにアルバと比べている自分に気づいてしまう。アルバのことを想うたびにあのくちづけやシエロに靡かない態度を思い出しては、狂おしいほどに胸を焦がしていた。何人の男と逢おうとも、彼を越えるアルファに出逢うことはない。あの男は奴隷で、シエロは皇太子だ。興味がないと撥ねつけられた上に、二度と逢わないと釘を刺されている。結ばれることはないと頭ではわかってはいても、彼が〈運命〉だと信じるシエロの心は頑なだった。
人は男女の性の他に、アルファ、ベータ、オメガの第二性を持っている。有能なアルファは特権階級に多く存在し、一方のオメガは人口が少なく希少性が高い。いちばん多いのはベータで、これは普遍的な能力値を持ち合わせていたが、アルファに近しい有能さを持つ者も数多く存在する。国によって扱い方は様々だが、シエロの父が治めるガルシア帝国では血液型程度の認識に収まっていた。
もちろん、アルファを羨む者も、オメガを蔑む者も一定数存在する。それでも帝国内ではオメガを保護する法律が定められていることもあって、彼らが不当な扱いをされることは他の国に比べると極端に少なかった。なにせ皇太子であるシエロはオメガであり、それでいてアルファに劣らない有能さを誇っている。それを目の当たりにしている国民たちは、オメガに対する印象を改めざるを得なかった。
「シエロ、もしかしてお前のアルファを見つけたか?」
双子の弟にそう指摘されたのは、アルバと別れてから数週間経ったあと、家庭教師の授業を終えて部屋へと戻る廊下を歩いているときだった。突然そう言われたシエロは思わず足を止めて黙り込んだ。そのことは今のところ誰にも話していなかった。話したところで諦めろと言われることが目に見えているし、これ以上つらい思いをするのは勘弁してほしかった。
沈黙したことで、ユーリウスに肯定と認識されてしまった。そしてそれがめでたいことでないことも同時に悟られてしまったらしい。ちょっとこっちに来いと手を引かれて、庭の片隅に置かれたベンチへと誘われた。しっかり腰を据えて話を聞いてくれるつもりなのだろう。
「その様子だと、叶う相手ではないんだね?」
「どうしてわかる?」
「わかるさ。僕はお前の片割れだ。お前からアルファの気配がするのには気づいていたけれど、周りにそれらしい男がいなかったから様子を伺っていたんだ。お前についている気配もどんどん薄くなっているし。どうしてもっと早く言わなかったんだ?運命の相手を見つけて、離れているのはつらいだろう」
わかったような口をきくユーリウスは、双子でありながら第二性が違う。本来ならばアルファである彼こそが皇太子であるべきだとシエロは常々思っていた。それなのに父が後継者を決めるときにシエロを指名した。ユーリウスはなにも言わなかったし、周りに反対意見を述べる者もいなかった。快く賛成というわけではないのだろうが、シエロの後継者としての能力が申し分ないせいで反対の声を上げることができなかったのかもしれない。
皇太子としての座に収まった以上、シエロの番探しは国を挙げての急務だった。父が優秀なアルファをあの手この手でシエロに逢わせようとするのは、その中から早く番を見つけて欲しいからだ。父が勝手に選んだ相手を押しつけられることがないのは、彼がシエロのことを溺愛しているからに他ならない。父は少なくともシエロの選んだ相手を婿に迎えようとしてくれている。ただし、少なくとも釣り合う身分が必要だ。
ユーリウスに同情されてしまうと、心の底に押し込めた欲望がまた胸へと迫り上がってくる。アルバに逢いたくて、考えるだけでも胸が押し潰されるようで苦しい。本気で逢いに行こうと思えば、どうにか逢うことはできるだろう。そうしようと意を決するたび、アルバから「二度と逢わない」と言われた言葉が思い返されて心が挫けてしまうのだ。
「この前、僕が見合いから逃げ出したとき、実は闘技の主催者たちに捕まって、優勝の賞品にされていたんだ。僕はオメガだし、鬱屈した男たちの欲を発散させるにはもってこいだったんだろう」
弟にすべてを隠しておくことは難しいだろうと思って、シエロはあの日の真相を初めて口にした。ユーリウスは絶句して、不愉快そうにシエロと同じ顔を顰める。今すぐ立ち上がって父やヴィクターに報告しに行きそうな気配をまとっていたが、どうやら最後まで話を聞いてくれる気ではいるらしい。腹立たしさを隠しもせずに先を促される。
あの日行方不明になった顛末は、表向き街に出たのが面白くて気づいたら帰り道がわからなくなってしまった、ということにしてあった。それ以上はシエロが口を割らなかったので、シエロにまとわりつくアルバの気配を他のアルファたちが察していたとしても食い下がられることがなかったのだろう。アルバのあのくちづけの真相は、公衆の面前でシエロが自分のものだと一時的に誇示するための行為に過ぎない。そうすることで主催者たちから護ろうとしてくれただけだ。
「そのとき、助けてくれたのが僕のアルファだ。目が離せなくなって、その男のものになりたいと強く願っていた。ひと目見てすぐにわかった。でも、彼の方はそうは感じていないみたいだ」
事実を淡々と述べているだけなのに、胸の奥が切なさに喘いだ。笑みを取り繕うシエロに真剣な眼差しを向けてくるユーリウスが、震えるシエロの手を安心させるように握り締めてくれる。シエロの手が緊張で冷たくなっているせいか、弟の手からじんわりとした温かさが伝わってくる。その優しさについ泣きそうになってしまった。
「運命じゃなくても、すきなんだね」
そう断言されて、ああそうだったのか、と、納得が心に落ちてくる。アルバへ募った想いは間違いなく恋だ。けれどアルバに求められていないという事実だけが、ひとり歩きしてシエロを苦しめている。すぐ逢える場所にいれば、一方的な片想いも楽しかったかもしれない。たとえ好かれていないとわかってはいても、思い立ったときに逢いにいけたらどんなにいいか。
アルファとオメガには〈運命の相手〉が存在する。ずっと探していた〈運命〉に出逢ったというのに、シエロはちっともしあわせではなかった。番になるなら彼がいいと心の底から願っているのに、それが叶わないことを同時に悟っている。その事実を突きつけられるたび、シエロは自分のオメガという性が恨めしくなる。そもそもヒートなど持ち合わせていなければよかった。それがあるから、シエロは〈運命〉に翻弄される羽目になる。
オメガにはヒートと呼ばれる発情期があり、番を持たないオメガはアルファを誘うフェロモンを巻き散らす羽目になる。これを防ぐためにはアルファと番になる必要があり、番関係はアルファがオメガのうなじを噛むことで成立する。昨今では良質な抑制剤も出回っているから、ヒートに振り回される者も減ってはきているが、依然として突然のヒートによりオメガが襲われる事案も少なくない。父はこれを心配して、シエロに早く番を見つけて欲しがっている。幸いシエロには未だ発情期がきていなかった。皇帝お抱えの魔導士からは、運命の相手に出逢って初めてシエロのオメガ性は覚醒するのだ、と言われていた。
その言葉が本当なら、シエロは今頃ヒートを経験していてもいいはずだ。ヒートがくる気配がないということは、アルバが〈運命〉ではないということになってしまう。それでもユーリウスの言う通り、シエロはアルバに恋をしていた。
「ヒートがこないうちは運命だと証明ができない。でもすごくすきだ」
「僕はその気持ちを大切にするべきだと思う。お前のお眼鏡に叶う男なら、随分と優秀なアルファなんだろう。探し出して逢ってみたい」
「剣闘士は奴隷だぞ。許してもらえるわけがない。それに、僕には興味がないとはっきり言われた」
紛れもない事実を自ら口にして、思っていた以上のダメージを受けた。思わず嘆息するシエロをユーリウスが笑って、いつからそんな弱気になったのだとけしかけてくる。
「お前らしくもないぞ、シエロ。いつもアルファたちを跳ね除ける減らず口はどこにいったんだ?」
「初めて惚れたアルファに突き放されたんだぞ。流石の僕でも弱気になる」
「相手はお前のことをなにも知らないわけだし、傍にいれば気持ちも変わるかもしれないだろ。少なくとも、お前を護ろうという気持ちはあったようだし。そうじゃなければ、マーキングなんかしない」
ユーリウスに自信満々に言い切られたので、シエロの気持ちはほんの少し上向きになった。たしかにおめおめと諦めてしまうのはシエロらしくない。アルバにとってみれば、シエロは捕まった可哀そうなわがままなお坊ちゃんに過ぎない。奴隷は自由を欲するものだと思っていたシエロの予想を裏切って、自由は自分で勝ち取ると言われたくらいだから、そうするに足る自信と実力を持っているのだ。それをその日に出逢ったばかりの世間知らずに上から目線で見下されたら誰だって腹が立つ。
仮にそれが自分の運命の相手だったとしても、きっと。
「僕が望めば、彼を手元に置くことができると思うか?」
あの檻を出た暁には、アルバの身をどうにでもできると考えていた。けれど突き放されてしまったあとでは、そう考える気力も湧いてこなかった。すきな男を手元に置いておいても、相手からの好意は返ってこない。それでもいいとあのとき思っていたシエロの心は、アルバからの拒絶を知ってすっかり弱くなってしまっていた。
そんなシエロを奮い立たせるように、ユーリウスが具体的な案を出してくる。
「そりゃあできるさ。奴隷は奴隷商から買えばいい」
「でもそれじゃあ奴隷のままだ。対等じゃない」
「それなら、助けてくれた礼だと言って自由にしてやればいい。それでお前の護衛騎士として雇うのはどうだ?お前が気に入るアルファを傍においておけば、邪な想いを抱く馬鹿たちも減るだろうし」
「父さまはお許しくださると思うか?」
「正直なところわからないな。だが、運命の相手だとすれば話は別だ。アルファとオメガの運命には誰も逆らえない」
「まだ運命だと決まったわけじゃない。それに僕は嫌われているんだぞ」
「それは今のところ、の話だろう?それにお前が奴隷上がりと番っても、お前にはスペアの僕がいる」
「なんだ、僕をけしかけて、自分が皇太子の座に収まろうという魂胆か?」
揶揄するようにそう言ったら、ユーリウスがおかしそうに笑った。まぁなとおざなりに肯定する冗談は、ふたりが昔から事あるごとに繰り返してきた遊びのようなものだ。
「ともかく、自分の護衛を雇うのに父さまの許しは要らないさ。僕たちにはそれなりの権限と資金が与えられているし、お前だって専属の護衛が必要な時期だ。いい考えだと思わないか?」
ユーリウスがドヤ顔をするだけあって、正直、とてもいい考えだと思った。ユーリウスに特定の護衛がいるのに対して、シエロの護衛は日替わりだ。オメガのシエロに対して邪な想いを抱かないようにするための処置で、どこかへ出かける際にはお目付け役のヴィクターも共についてくる。そうすることでシエロの危険は最善を尽くして回避されている。
弟からの提案にすっかり、シエロの心は元通りになっていた。アルバに逢えるかもしれない期待に舞い上がって、鼓動が高らかにときめいていく。
アルバはきっといい顔はしないだろう。それでもきっと逆らうことはしないという確信めいた予感があった。護衛騎士になることを了承してくれたら、正規の給料を払って雇うことにしよう。彼は腕が立つだろうから、すぐに騎士団の中でも頭角を現すに違いない。そうすればシエロの傍を離れたあとも、騎士として居場所を得ることができる。
傍にいて、すきになってもらえる確率はどれくらいだろう。今更好かれようとしおらしくしても、シエロの本性は割れてしまっている。それでもアルバの傍にいられるだけでよかった。たとえ嫌われていても、すきになってもらえなくても、ただすきな相手にすきなときに逢える、それだけでしあわせじゃないかと、シエロはようやく思うことができた。
アルバ=ラントスは剣闘士として昨今一番人気を誇っており、出場した試合では負けなしの実力者だった。剣闘士をしている奴隷は政府に登録されているが、アルバの書類の内容はおざなりで、名前と年齢以外、出身地などの情報は明かされていない。どうやら東の方から売られてきたらしい、というのが、ユーリウスの命を受けたヴィクターが調べてくれたすべてだ。
「この肌の色を見ると、少なくとも東のどこかの国の出身のようだね。アルバ=ラントス、十九歳。まぁ、奴隷はいろんな国から搔き集められているし、情報が少ないのは仕方がないことだろうけど」
シエロの部屋でくつろぐユーリウスが、ヴィクターが持ってきたアルバの資料を眺めながらそうぼやいた。ソファにだらしなく座る様子にヴィクターから眉を顰められても、プライベートな時間くらいだらりとして過ごしたいというのがユーリウスの口癖なので、直すつもりはなさそうだ。
「ラントスは東の端の国の名前だ。わざわざ国の名を名乗るとは思えないが、偶然ある苗字だとも思えない。ただ小さな国だと好んでその苗字を名乗る傾向もある。ラントス王国はここから遠く離れているから情報に乏しいが、そういった側面があるのかもしれないな」
「王族の血縁、なんていう都合のいいことは起きないかぁ」
ヴィクターの説明にユーリウスが残念そうに嘆息して、手に持っていた紙を床へと落とした。ヴィクターがそれを咎めるように拾い上げると、今度はシエロへと渡してくれる。
「ラントスはこことは違って、アルファ優位の国だ。オメガに対する認識が異なっている可能性もある。シエロが選んだアルファにケチをつけたくはないが、俺はあまり賛成はしない」
「ヴィーは頭が固いんだよ。ようやくシエロに春が訪れたっていうのにさ」
「奴隷を卑下するつもりはないが、シエロの身になにかあってからでは遅いだろう。無理矢理番にされて棄てられでもしたらどうするんだ」
ヴィクターの重苦しい溜息に、ユーリウスもそうだけどと不満そうな同意を返した。ぶつぶつと文句の応酬をしあう二人を苦笑いながら、シエロだけはその心配だけは絶対にないことを知っていた。ふたりはアルバに出逢ったことがないからわからないだろうが、あの男はシエロを邪険に扱ったりはしないし、そもそもそこまで興味を持たれてはいない。シエロがどうのというよりは、オメガと関わり合いになりたくないのかもしれない。
ヴィクターはアルバの資料の他に、他の剣闘士たちの資料も併せて持ってきてくれていた。それをなんともなしに捲りながら、いろんな人間がいるものだなぁと思う。アルバの資料は他の剣闘士たちと比べても情報量が圧倒的に少なく空欄が目立つ。仏頂面の写真に思わず頬を弛めるシエロに、ユーリウスとヴィクターが顔を見合わせて、小さく笑いながら小さく嘆息した。
「ともかく、僕はこの男をシエロの護衛騎士にすると決めた。その方が、シエロに変な虫がつかなくて済む」
そういうユーリウスの声ではっと我に返った。ヴィクターは頭を抱えながらも、どうにか反論しようと試みているようだ。宰相の息子であり幼馴染みであるヴィクターは実に有能な男で、将来はシエロやユーリウスの片腕になるべく努力を怠らない努力家だが、それでも立場はどうしても弱い。ユーリウスがそうと決めたら逆らえないし、意見を曲げることはできない。このふたりが恋仲だとしても、それは曲げられない事実なのだった。
「アルバが護衛になってくれたら、お前のお目付け役としての仕事も減るだろう?その分ユーリと一緒にいられるじゃないか」
ヴィクターに反論される前に、シエロがユーリウスに加勢した。彼にも好都合な理由をあえて挙げたのに、彼の表情は優れない。その上重苦しい溜息を零される。
「そういう問題じゃないだろう。どうしてお前たちはそう、いつも考え方が楽観的なんだ。剣闘士が皇太子の護衛になるなど前代未聞だ。陛下がお許しになるはずない」
「父さまの意見は二の次だ。シエロがその男がすきだと言うのだから、僕は弟として全面的に応援してやりたい。いつか別の男と番うのだとしても、だからこそ、一時くらいすきな男の傍にいさせてやりたいとは思わないのか?」
「だから、それが楽観的だと言っているんだ!シエロは皇太子だぞ。なんのために陛下がシエロの方を選んだと思っている?継承権を持たないオメガは姫君と同じように外国との婚姻に利用される。外国は今もアルファ優位の国が多い。シエロを守るためにアルファを選別しているというのに、よりによって東の国の思想を持つ相手というのは」
「だったら、お前の目で見定めてくればいい」
険しい表情でそう論じていたヴィクターがユーリウスの言葉に目を丸くした。は?と言いたかったのはシエロも同じだ。この弟は時々、というか常々、シエロの予想の斜め上を行く提案を投げかけてくる。実にいい考えだと言いたげな笑みに、ヴィクターが眉を寄せた。ユーリウスの言動には慣れているヴィクターでさえ、これには流石に苦言を呈した。
「それは俺に闘技場へ行けと言っているのか?」
「そうだ。剣闘士に逢うにはそうするしかないだろう?それで見極めてくればいい。この男がどんな男なのか。ついでにシエロも連れて行ってやれ」
「おい、そんなことを言って、この男にシエロを逢わせるのが目的なんじゃないか?」
「アルファのお前にはわからないだろう。オメガというのは、すきな男が傍にいないだけで想像も絶するつらさを味わうんだ。シエロは数週間も運命の相手に逢えていない。逢わせてやりたいと思うのは当然だろう?それにその男はシエロが選んだアルファだぞ?優秀な男に決まっている」
「お前だってアルファだろうに」
なにを言っても御託を並べられることに辟易したのか、ヴィクターが諦めたように了承した。ユーリウスが勝利の目配せをしてくるのに、シエロも笑みを怺えきれない。
皇子ふたりのわがままに付き合わされるヴィクターには申し訳ないが、アルバに逢いに行けるうれしさには勝てない。いつ行くのかと声を弾ませるシエロに面食らった彼が、それから方法を考えると苦々し気にまた嘆息した。
主に剣闘士は奴隷と傭兵から構成されている。大半は奴隷商から買い集められた奴隷たちだが、戦争が少なくなった昨今は職を求めて傭兵たちも集ってくる。彼らを戦わせる賭け事は剣闘と呼ばれ、庶民のみならず貴族たちの間でも人気があった。闘技場に詰めかけている観客の大半は市井の人々だが、お忍びで参加している貴族たちも少なくはない。
貴族たちの中にはそれぞれが専属の剣闘士と契約を交わして、優劣を競うような遊びを楽しんでいる者もいた。そのような貴族たちは挙って優秀な剣闘士を我が物にしようと大枚を叩いているらしいが、幸いアルバはどの誘いも断っているという。
「だから、僕の申し出も跳ねられると言いたいのか?」
シエロの物言いに答えないことで、ヴィクターが肯定の意を示した。実際申し出を一度断られているシエロとしてみれば、彼が仕入れてきた情報には充分な信憑性がある。
きっとアルバは誰かに使役されるような立場から自分の力で抜け出したいのだろう。奴隷が自由を買うにはそれ相応の金が必要だということはシエロだって知っている。それがどれほどのものでも支払う用意はできていたが、果たしてそれがユーリウスの想像するような結末に結びつくのかは未知数だ。
闘技場前の大通りでふたりは箱馬車を降りた。本日はお忍びの貴族を模しているため、いつもの絢爛な馬車を使うわけにはいかない。ヴィクターが調達してきた箱馬車は思っていたよりもずっと乗り心地が良く、なんだか悪いことをしに行くみたいでわくわくした。護衛の騎士たちは数人、庶民のふりをして離れたところからふたりを監視してくれている。シエロはてっきりヴィクターとふたりだけで忍び出るものだとばかり思っていたが、用意周到な彼がそもそもそんなことを許すはずがないのだった。
「今日はどんな男か見るだけだ。接触はしない。わかったな」
「わかっている。遠くから逢えるだけでもうれしい」
もうすぐ見ることができるだろうアルバの姿を思い描くだけで、シエロは頬がだらしなく弛むのを止められなかった。ヴィクターから呆れたような視線を向けられても、今のシエロは気にもならない。嘆息した彼に行こうと促されて、闘技場の入り口近くまで歩いた。試合が始まるまでまだしばらくあるはずだったが、闘技場には続々と人が集まって来ている。
市井の人々に混じってマントで顔を隠している者も多く見られたので、同じような格好をしているシエロたちも目立つことはなさそうだった。マントを被っている者たちは裕福な豪商程度の装いに抑えてはいたが、顔を見られぬよう細心の注意を払っているように思えるのは、その正体がお忍びで賭けに参加しに来た貴族たちだからだろう。賭け事に精を出しているところを見られるのはどことなく体裁が悪いのだ。
入り口近くの掲示板には本日の対戦スケジュールが掲載されていた。賭けに参加する者はそれを見て、中で目当ての剣闘士に任意の金額を賭ける。そこにも人だかりができていたが、素早く確認しに行ってくれたヴィクターによれば、アルバはシードで準決勝から参加するらしい。この前華麗に優勝してみせた雄姿を思い返したシエロは、それも当然のことだと頷いた。
「どうやら試合前の模擬演習を見学することもできるそうだ。それで今日のコンディションを予想することができるらしい」
いつの間にか周りから情報を仕入れてきたヴィクターから行ってみるか?と提案された。勢いあまって頷くと、くれぐれも見るだけだと念を押される。それ以上のことはしないと硬く約束をさせられてから、ヴィクターのあとについて行った。演習場はわきの細路地を抜けた奥にあるという。
ヴィクターと共に歩く路地は薄暗かったが、人通りがそれなりにあって賑やかだった。闘技場へと続く表通り以外の道も賑やかな雰囲気だったので、あの日たまたまシエロが迷い込んだのが関係者しか使わない裏道だったのかもしれない。
無事に開けた場所まで辿り着くと、そこは低い柵に囲まれた広場だった。広場を挟んだ向こう側には宿舎のような建物が立ち並んでいる。おそらくは専属の剣闘士たちが寝泊まりをする建物だろう。剣士たちを見定めに来ている大勢の中には、シエロたちと同じような格好をしている者が何人もいた。剣闘での賭け事はシエロが考えているよりもずっと、貴族社会に浸透しているのかもしれない。
「あれ?この前捕まっていたオメガちゃんじゃん」
雑多な剣士たちの中にアルバを探していたシエロは、すぐそばにあの日彼と一緒にいた半裸の男がいることに気づかなかった。話しかけられたことに警戒したヴィクターに背後へと庇われると、彼がおや?と言いたげに肩眉を上げる。
「今日はひとりじゃないんだ。もしかして、その人オメガちゃんの恋人?」
「これはただの、」
「そうだと言ったらどうなんだ」
否定しようとしたシエロの声をヴィクターが遮った。シエロを庇う方便とはいえ、アルバに誤解が与えられるようなことをしたくなかったシエロは、思わずむっと唇を尖らせる。男がそうかと思案するように顎に手を当てて残念そうにぼやいた。
「アルバは振られちまったわけか」
むしろ逢いに来たのだと言いたくても、ヴィクターが威嚇している手前声に出すことはできない。やきもきしたままふたりのやり取りを見守ることしかできないシエロは、その歯痒さについ地団太を踏みたくなった。
「そのアルバという男はどこにいる?」
「さぁ、どっかのお偉いさんに呼び出されていたな」
「そういうことはよくあるのか?」
「まぁ、アルバはここじゃあ一等実力のある剣闘士だからな。よく呼び出されている印象はある。なんだ、お前たちもアルバを雇いに来たのか?」
「そうだと言ったら、どうしたらいい?」
流れで会話しているように見えて、ヴィクターはよくよく言葉を選んでいるようだった。貴族たちが好んで奴隷を召し抱えることは少なくないが、奴隷を買いたい場合は奴隷商を通すことになっている。ただ奴隷商は国中に一定数存在するので、誰がどこに所属しているのかは調べなければわからない。それに剣闘士は普通の奴隷とは扱いが違い、奴隷商も慎重になる。ヴィクターはその辺りをこの男から聞き出そうとしているのだろう。
「無駄だと思うぜ。アルバはこの手の話に聞く耳を持ったことはない。ほら、この前だってそこのオメガちゃんが自由をやると言って、自分で買うと断っただろう。そういう男なんだ。だが、今回の話には肯く方に賭けている」
「なぜだ?」
「私用の騎士として高額な報酬で雇いたいという話らしい。俺もお零れに預かりたいくらいだ」
男が腕を組んで羨ましそうに頷いた。お喋りなこの男はヴィクターが誘導するまでもなく、欲しい情報をぺらぺらと喋ってくれた。それに気をよくしたヴィクターが礼を言って懐から金貨を一枚取り出すと、情報の礼だと言って男の方へと投げた。それを慌てて受け取った彼がにやりとして、アルバは宿舎の陰で交渉に応じていると教えてくれる。
「お前、名は?」
「カリオンだ。ベータだが腕は立つぜ。まぁ、俺は奴隷ではなく傭兵だがな」
「そうか。それなら雇いやすい。アルバという男を無事に雇うことができた暁には、お前も共に雇うと約束しよう」
「へぇ、お兄さんとこも騎士団を持っているんだ。お貴族さまはみんなそうなのかねぇ」
金貨を嬉しそうに弄びながらぼやいたカリオンに、ヴィクターがにやりと口端を吊り上げた。いずれの暁に己が所属するのが帝国騎士団であると知ったら、この男はどんな反応を示すのだろう。
振り向いたヴィクターにアルバの元へ行ってみるかと問われたので首を何度も縦に振った。人混みを割って進んでいく彼について行こうとしたところをカリオンに引き留められる。
「オメガちゃんのこと、アルバが心配していたんだ。無事に帰れたようでよかったな。でも、恋人がいるなんてあいつも残念がるだろうよ」
それにヴィクターは弟の方の恋人なのだと告げようとして叶わなかった。シエロがついてこないことに気づいたヴィクターがすぐに戻ってきて、行くぞと手を引かれてしまったからだ。
「恋人なんて言わなくてもよかったじゃないか」
人混みを抜けて宿舎の方へと回りながら、隣を歩く男に文句を垂れた。カリオンがシエロたちに逢った話は口が軽そうなあの男のこと、すぐにアルバへと伝わるだろう。それで恋人がいると誤解されてしまうのはシエロにとっては非常によくない。アルバがシエロを心配してくれていたらしい事実をせっかくカリオンから仕入れたのに、自分に熱視線を向けていたオメガに実は別の恋人がいると知ったらアルバはどう思うだろう。
そこまで考えて、どうも思わないような気がしてしまった。心配してくれていたのはただ、折角自分が勝ち取って逃がしてやったシエロの身の行く末を案じてくれただけに違いない。恋人がいるのならお役御免だと済々するだろう。
「お前を護るためには方便も必要だ。番のいないオメガだと思われるよりは安全だろう」
「そうだけど」
ヴィクターの言うことはいつだって正しい。シエロやユーリウスがこっちの方が正しいに決まっていると御託をいくら並べたところで、彼の正論に敵ったことはない。
「これはあの男の気持ちを見極めるにも役に立つ。もし向こうもお前のことを好ましく思っているのなら、傍にいる俺のことを牽制しようとするだろうからな。アルファ同士ならすぐにわかる」
「もし牽制されなかったら?」
「そのときはそのときだ」
なんだか曖昧な指標だなあと思っていたとき、ヴィクターがおもむろに立ち止まった。どうしたのかと口を開きかけたシエロは、静かにするようにと人差し指を立てられて口を噤む。そっと物陰に隠れると、ヴィクターに示された先でアルバがふたりの男と対峙していた。身分を隠す気はないらしく、貴族らしい豪奢な装いをしている。ふたりのうちの背の高い方にシエロは見覚えがあった。
「ヴィー、あれはフィンレーじゃないか?」
「ああ、もうひとりはダリル侯爵だ。カリオンは私用の騎士として雇う話だと言っていたが、いったいなんのためだ?」
「僕たちと同じように護衛にするつもりじゃないか?」
「あそこの騎士たちはまぁまぁ優秀だ。新たに雇う必要はないだろう」
「じゃあ僕たちの邪魔をしたいだけだろう。フィンレーとの話が進まなくてやきもきしているらしいからな」
ダリル侯爵家の次男であるフィンレーは、かつてヴィクターと同じようにシエロたちの幼馴染だった。けれどシエロの婚約者候補が選定される際に名が上がるようになってから疎遠になっていた。特定の貴族と親しくしているのは好ましくなかったし、お互いに運命を感じていないことはわかっていた。ヴィクターがお目付け役として今も傍にいるのは、彼の生家であるカサンドラ公爵家が婚約者に名乗りを上げなかったからだ。
耳を欹ててもここからではなにを話しているかまでは聞き取ることができない。ダリル侯爵がアルバの肩を叩いて大袈裟に笑う一方で、フィンレーはにこやかな様子で付き添っているだけのようだ。アルバはただ黙ったまま不愉快そうに眉を寄せている。カリオンは今度こそ頷くだろうと言っていたが、見たところその気配はなさそうだった。
「ダリル侯爵家が手を出している以上、急ぐ必要がありそうだな。とりあえず今日のところは戻ろう。そろそろ試合が始まる」
「今乗り込んでいくというのは?」
「今日は様子見だと約束しただろう。もう少し情報が必要だ。ダリルがどれほどの報酬を約束しているのか調べる必要がある」
「こちらに出せない額ではない」
「それでも今は駄目だ。見つかったら面倒なことになる」
それ以上食い下がっても負けることは目に見えていたので、シエロは不満を垂れ流しながらヴィクターの決定に折れるしかなかった。たしかにここでダリルのふたりに相見えるのは得策とは言えまい。シエロとしてはアルバが首を振る前に割って入っていきたかったのだが、勢いだけでどうにかなる話ではなさそうだ。
後ろ髪を引かれながら闘技場まで戻ると、中に入ってチケットを買った。アルバに賭けたいのは山々だったが、皇太子が賭け事に手を出すわけにはいかない。試合はチケットさえ買えば見ることができるので、今日はそれで満足することにした。なにはともあれ、もう少しでアルバが活躍しているところが見られるのだ。
ヴィクターが買ってくれたチケットは二等席で、すり鉢状をしている闘技場の中ほどの席だった。程よい高さと距離で広く見渡すことができる。〈賞品〉として主催者の隣に留め置かれていたときには近すぎて、試合の様子に圧倒されるばかりだった。そのときも今も、シエロの目はアルバの姿を探している。待機エリアに彼の姿を見つけると、もうそこから目が離せなくなってしまった。
「随分と不愛想な男なんだな。アルバという奴は」
シエロの目線を追ったヴィクターが、無表情で他の試合を見ているアルバをそう表現した。アルバのことをそう知っているわけではないけれど、誰かに対して媚び諂うような男ではないことだけは知っている。そうかもしれない、と苦笑ったところへ、アルバが不意にこちらの方へと顔を向けた。距離があるからそうとは限らないが、しっかりと目が合ったような気がする。思わず顔を俯けると、ヴィクターにどうしたのだと問われた。熱が滲んだ頬を見られたくなくてなんでもないと誤魔化す。あまりに熱視線を向けていたから、アルバに気づかれたのかもしれない。
跳ねた鼓動を落ち着けてから顔を上げると、彼はもうこちらに顔を向けてはいなかった。その表情が少し険しいように感じるのは、シエロの存在に気づいたからだろうか。これほどの人数の中でひとりを見つけるのは不可能なので、おそらくはすべてシエロの取り越し苦労だろう。
「あの男、不満そうな顔をしていたぞ」
「なにに対して?」
「お前の傍に別のアルファがいるからじゃないか?喜べ、シエロ。勝機はこちらにありそうだ」
ヴィクターがそう確信したように笑うと、始まるぞとシエロを促した。シエロはアルバがフィールドへ出ていくのを目で追いながら、ヴィクターに言われた言葉の意味を考えずにはいられなかった。
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