第3話

短編・人魚編 


 夜明け前、白い靄が立ち込める砂浜に、アレンたちは小舟を乗り上げた。潮の香りは濃く、波打ち際には打ち上げられた貝殻や海藻が散らばっている。月はまだ高く、銀色の光が四人の影を長く伸ばしていた。


「……ここが、人魚島……」

 サナが震える声で呟く。十年分の想いが胸の奥でうずまき、吐く息さえ熱い。


 アイネが辺りを見回し、眉をひそめた。

「本当に何もないのね。思ってたより、静かすぎる……」


 コウキは肩に荷物を担ぎながら、鼻で笑った。

「妙な空気だな。鳥の声ひとつしねぇ。まるで……生き物が息をひそめてるみたいだ」


 アレンは剣の柄に手をかけ、慎重に砂浜を踏みしめる。空気の張り詰めた感触が、彼の警戒心をさらに強めていた。


「とにかく、島の中を探そう。セイの手がかりを見つけるんだ」


 四人はゆっくりと森の奥へ足を進めた。緑は濃く、潮風と混じった甘い花の匂いが鼻をつく。だが不思議なことに、どこか人工的な匂いも感じられた。


 ――時間が止まっているような島だ、とアレンは思った。


 草を踏むたび、音がいつもより重く響く。サナは何度も海の方を振り返り、落ち着かない様子だった。


「……手がかり、ないね」

 森を抜け、入り江に出たところで、アイネが息を吐いた。額にはうっすら汗がにじんでいる。


「漁師が言ってた通り、ただの島ってわけじゃなさそうだ」コウキが呟く。


 サナは拳を握りしめ、決意を固めたように顔を上げた。

「……セイがよく釣りをしていた場所があるの。そこに行ってみたい」


 その瞳は強い光を宿していた。アレンは頷き、彼女の後をついていく。


 島の西側、断崖の下にぽっかりと開いた入り江があった。波は穏やかに寄せては返し、岩に砕ける音が静かに響く。ここが、かつてセイが竿を垂らしていた場所だという。


 サナは岩場に立ち、海を見下ろした。月光が海面に散り、青白い光が揺れている。胸が締めつけられ、記憶の中の笑顔が鮮やかによみがえる。


 その時だった。


 ――来て……お願い……助けて……。


 風の音に混じって、かすかな声が耳に届いた。


「……っ!? 今、声が……!」

 サナは慌てて振り返り、三人に呼びかけた。

「聞こえた? 今、誰かが……!」


 アレンが耳を澄ますが、波音しか聞こえない。だが、サナだけは確かに聞いた。海の底から響くような、哀切な声を。


「来て……助けて……」


 今度は誰の耳にもはっきり届いた。四人の視線が海面に注がれる。水泡がぷくりと浮かび、青い光がゆらめいたかと思うと、海の中からひとつの影が現れた。


 月光に濡れた髪が流れ、鱗の尾がきらめく。少女のような顔立ちに、深い海の色を宿した瞳。


「……人魚……」

 アイネが思わず息をのむ。


 その人魚は震える声で言った。

「お願い……助けてあげて……あの子を……!」


 サナの胸が跳ねる。

「“あの子”って……もしかして、セイのこと!? 彼はどこ!? どこにいるの!?」


 人魚は顔を歪め、涙をこぼした。

「捕まっちゃった……私のせいで……生きているかどうかもわからない……」


 サナの瞳に怒りが宿る。

「セイは! セイはどこなの!! 何をしたの! セイに!!」


「サナ、一旦落ち着いて」アレンが前に出て、彼女の肩に手を置いた。「君の名前は? そして良かったら話してくれないか? 何が起こったのかを」


 人魚は嗚咽を飲み込み、小さく頷いた。

「……私の名前はアリア。人魚……。あの時のことを話すね」


 アリアの瞳に、十年前の記憶がよみがえる。

「十年前……あの子が釣りに来ていた時に、私は初めて人間を見たの。とても驚いた……でも、彼はそんな私を面白おかしく笑ったの。私は恥ずかしかったけど、怖くなくなってた……。だから私は彼に聞いたの。“良かったら一緒に海で遊ばない?”って」


 アリアの声はどこか遠くを見つめていた。

「そしたら、彼はこう言ったの。『行きたいけれど、この島に僕の友達がいるんだ。大切な。行ってもいいけれど、彼女をこの島から逃がして、街へ連れて行ってあげて。そうしたら海に行ってもいいよ』って」


 サナの心臓が凍りつく。セイが――自分の意思で――。


「嘘……そんなはずない……セイは私といるのが幸せだって……私を幸せにするって……嘘よ……嘘よ!! 絶対に嘘!!!」


「サナ! 落ち着いて!」アイネが彼女を抱きしめ、声をかける。


「妙じゃねぇか……」コウキが眉をひそめる。「なんでセイは海の中なんかに行ったんだ? 何か目的があったのか?」


「取りあえず続きを聞こう」アレンが促す。


 アリアは震える唇で、続きの言葉を吐き出した。

「私と彼は海の中でしばらく過ごしていたの。でも、ある日、魚人が現れたの。古くから魚人と人魚は争いあってきた……。男の人魚は全員殺された……だから人魚は勝てなかった。彼も私も魚人に捉えられたの。でも、彼は私を必死の思いで逃がしてくれた。そしてその時、手紙を渡されたの。“あなたに渡してほしい”って。私はずっと泳いでいた……あなたを見つけることができる日まで。そしてようやく見つけたの……お願い、彼を……彼を助けてあげて……」


 アレンは静かに頷いた。

「分かった。彼を助けに行く。でもどうやって……海の中に……僕らは呼吸ができない」


「僕ら? なんで俺も行くことになってんだよ」コウキが苦笑いする。


「私は全然アレンについていくよ!」アイネが明るく言う。


 サナはただ呟いた。

「セイ……セイ……」


 アリアは涙を拭い、真剣な表情で言った。

「呼吸はできる。彼の時もそうだった。人魚は魔法で海の中で呼吸ができるようにする魔法をかけられるの」


「分かった。行こう。彼を助けに」アレンは決意を込めた声で言った。「だけど、サナ、君はここで待っていてくれ」


「なんで……私も……」サナが顔を上げる。


「精神が不安定だと安全とは言えない。そしてアイネ、サナを見ていてくれないか?」


「え、私もアレンと行きたかったなぁ……」アイネが苦笑した。


「けっ……」コウキが短く吐き捨てるように笑う。


 サナは唇を噛みしめるが、何も言えなかった。


「行こう。アリア、お願いできるかい?」アレンが人魚に目を向ける。


「……うん、わかった」アリアが頷く。


 こうしてアレンとコウキは、海の奥へと向かうことになった。人魚アリアの導きで、海底に広がる未知の世界へ――。


 彼らはまだ知らない。やがて待ち受ける、どす黒い悪と、深海の闇を。

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