あの子の地雷
林刺青
第1話
ただでさえ低い曇った夕暮れの彩度は、空を狭める立ち並んだビルの為にそのほとんどが奪われて、視界の上半分はモノクロフィルターを掛けたように何処か寂しげだった。
しかし下半分では、統一感無く壁に敷き詰められた広告や看板——その過ぎた彩度が爛々と、道行く人の視線を奪う為に明滅を繰り返している。
何より気が滅入るのはその“道行く人”の多さだ。彼らにとって広告の健気な努力など、ましてやとうに奪われてしまった夕焼けの暖色など、薄いガラス板からもたらされる有難い情報と比べれば些末な事なのだろう。
15分程この道を歩いているが、画面に釘付けの人間とぶつかりそうになって身を躱したのは一度や二度ではない。
今歩いているのは果たして一本道なのだろうか——そんな皮肉の一つでもぼやいてしまいたくなる。
地方の人間は歓楽街のイメージに引っ張られ、都会は酷く怖い場所なのではないかと思うかもしれない。反社会勢力が跋扈し、少女が違法に春をひさぎ、下手な店で酒を飲めば法外な額を請求されてしまう——そんな嫌な想像が喚起されるのではないだろうか。事実、僕はそうだった。
しかし少なくとも駅前を見渡す限り、視界を埋めるのはあまりにもステレオタイプで悪い印象の清潔な都会である。
健全極まりない喧騒に意識を攪拌されて曖昧になった自身の所在を求める為、僕は周りの人間の真似をする様にガラス板を手にしてそれを覗き込んだ。
画面には誰々が写真を投稿しただの、雨雲が近付いているだの、アプリのしょうもないキャンペーンだの、少なくとも今の僕には必要無いであろう情報が雑多に押し込まれていた。これでは街の景色の下半分とそう変わらない。
ロック画面から先に進む気が失せてしまった僕は、ため息を吐いてもう一度周囲を見渡す。
連なるビルはその巨大さの為に僕をちっぽけに見せ、過激な広告の光は僕を照らす事を意図してはいない。一体僕は何処の誰で、何をしているのだろう。ふと浮かんだくだらない想像を鼻で笑った。
留年が決まって一年。恐らく人並みに備わっていたであろう僕の熱意や野心のようなモノは、例えば都会の夕暮れの彩度のように、例えば道行く人のスマホ以外への関心のように、既にそのほとんどが僕の思考から消えて無くなってしまっていた。
ドロップアウト寸前。“寸前”というタチの悪い状況。
“頑張れさえすれば”かなり現実的に社会のレールに戻れるのだろう——その条件付きの確信は、結局何の手も打たず惰性のままに日々を浪費する僕にとって、いつの間にか僕を縊る真綿以上の意味を持ち得なくなっている。
そしてそんな生活はある程度の間隔で、ふとした些細なきっかけで、首にロープを巻いたまま土台を蹴り飛ばしてしまった瞬間のような後悔、或いはどうせ単位を落とすであろう授業のテストを受けている時のような緩やかな絶望を僕にもたらすのが常である。
今回のヤツにもまんまと駆られ、部屋に居た堪れなくなってしまった僕は、それを何とかやり過ごす手段を考えた。
しかし所詮は机上の空論、そう表現するのも酷く失礼で怠惰な、枕上の空論とでも言うべき浅慮である。
結論は、今更真面目な生活を積み重ねた所で間に合わないので目先の問題はとりあえず全て先送りにして何か新しく、そして清く正しい事——例えば就職活動でも始めよう。
こんな所だった。
そうやってこれまでの人生のあらゆる選択の例に漏れず、楽な方に流され、思い立ったまま就活サイトに登録した僕は遂に今日、着慣れないリクルートスーツを見に纏いはるばる都会までやって来たのである。
一社目のインターンを終えてみれば、腐ってもそこそこ名のある大学に通っているおかげだろうか。浅はかで人生を舐めた、当事者意識皆無の逃避行動でやって来たにしては、居心地の悪さを覚える事はそれほど無かったように思う。
そうしてひとまず旅の目的から解放された僕は第一に安全に、できれば一人でも悪い扱いを受ける事なく酒を飲め、ついでに煙草が吸えたら最高。そんな店を探して道を歩いているのだった。
別に酒を飲むのが特別好きな訳ではない。焦燥感を宙吊りにしておく事に成功したとは言え、就職活動も僕のような人間にとっては殊更にストレスフルなモノだったというだけである。
溜まったストレスをやり過ごすのに僕のような何の趣味もない空っぽな若者に与えられた手段はそう多くなく、浅い考えでも思い付くことができた中で現状を鑑み、最もインスタントだと思われるストレス発散法が酒を飲む事だった。
繁華街の方向へ少し歩き、僕は良さげな風貌——入り口の近くに少々不潔な灰皿が置いてある立ち飲み屋を見つけた。
僕は特に一人だった場合、知らない土地のチェーンでない飲食店には多かれ少なかれ威圧感を覚える事が多い。今回もその例に漏れず、二、三度扉に手を掛けて開けるのを躊躇し、その後大袈裟に覚悟を決めて恐る恐る扉を開いた。
店内に入ってみれば、拍子抜けしてしまう程に悪くない店だった。歩きながら脳内で提示していた条件は見事に満たされている。その空間に大規模な集団が存在することは許されず、基本的には一人か二人、多くても三、四人の集団がそれぞれ適切な声量で会話を交わしている。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
こちらに気付き、駆け寄ってきた若い女性の店員が柔らかい物腰で僕に尋ねる。
僕は彼女から目を逸らすと、緊張の為に酷く無愛想になってしまいながら答えた。
「あ、一人です」
「ご予約はされてますか?」
「いや、してないです」
それを聞いた店員は一度店内を見渡すと、媚びるような笑顔を再びこちらに向け、丁寧な接客を続ける。
「ではこちらへどうぞ」
店員に連れられた先で、僕に大きな長方形の机、そのある区画が与えられた。
区画に辿り着いてすぐ、お通しとして簡単な煮物を持ってきた店員に、僕は酒と何やら小洒落た名前の料理を注文した。
5分もしないうちに僕の区画にはグラスが置かれ、それを確認した僕はお通しの煮物に箸を伸ばしてその中の厚揚げを口に運ぶ。鰹と昆布の合わせ出汁のよく染みた、普遍的であるが故に安心感を覚えるような、そんな味。
小皿とグラスが空になる頃には、先程までの“悪くない店”という評価は、“良い店”へと更新されていた。
初めて訪れる飲食店やそこで出される料理に旅情を掻き立てられ、僕は遠くに来た実感が、主たる目的などとうに終えた今になって、やっと心に追いついたような気がしていた。
そんな浮かれた気分で二十分も酒を飲めばアルコールは回り、気分はある程度良くなった。
至る所から聞こえる会話は混ざり合って意味を失い、僕を心地の良い孤独へ誘う。
そんな孤独への耽溺の最中、社会のレールに戻る為の大きな布石である今日の回顧でもしてみよう。チープな達成感からそんな事を思い立った。
オフィスに辿り着く。何人かの疲れを隠しきれていない男女、彼らの口調だけやけに明るい案内に従って席につく。その少し前まで案内をしていた男性が壇上に登場し、テンプレート通りの口上を述べ始める。
周りを見れば、恐らく何らかの規格が存在し、それを元に製造されたであろう、まだ何処かスーツの馴染んでいない新品のロボットのような人々が食い入るように男の話を聴いている。
会社にとって都合の悪い話が巧みに曖昧化された耳触りのいい演説が終わり、その後ロボット達にはグループディスカッションが課せられる。
彼らはあらかじめプログラムされていたように、カジュアルな場で聞こえたら笑ってしまうような片仮名の単語を繋ぎ合わせ、時折近くを通る会社の人間を横目に見ながら、わざとらしい会話を繰り広げる——。
この断片的な回想を読んで頂けた方は既にお察しの事と思うけれど、ドロップアウト寸前というこの状況、タチの悪さで言えば時折やって来る後悔や絶望感などとは比べ物にならない作用を2つ、僕にもたらしている。
ひとつは、心の何処かに自分は他人とは違うという根拠も実績も無い優越感が生じてしまう点。もうひとつは、何かに本気で取り組んでいないが故の俯瞰した視点から、何の得もない冷笑主義に傾倒してしまう点である。
在って無いような、或いは実態を伴わず肥大化した自身の尊厳を守る為の薄っぺらな虚勢。
今の僕にとって、ある程度大きな企業は何か悪事を隠していなければならないし、労働に従事している人間は尽く疲れ切っていなければならないし、真面目な就活生は規格化されたロボットでなければならないのだ。
溜息を吐き、酒を呷った。
ほんの少し前まで良い気分で酒を飲めていたのに、これではいけない。ちょっとしたきっかけで自己否定に陥る僕の悪い癖が出てしまった。
こうなった時、無理に酒を飲んで良い結果をもたらした試しは一度も無いので、どうにかして気持ちを切り替える必要がある。
そう思い、僕は徐に机の区画を離れると出口へと歩き始めた。少し怪訝そうな顔でこちらを見ている店員に気がついた僕は、立てた人差し指と中指を口元で前後させる。それを見た店員はすぐさま無警戒な笑顔をこちらに向け、僕を出口へ促すのだった。
外では雨が降り始めていた。傘の群れによって、この清潔で冷たい都会に蠢く不気味な層が作り出されている。
僕は雨程度で止まることのない人々の往来に少々の辟易を覚えながら煙草を口に運び、ライターを取り出した。
左手でライターを覆いながら何度か着火を試みるけれど、オイルが切れてしまったらしい。火がつく気配は無かった。
「——お兄さん、コレ使う?」
着火に悪戦苦闘している僕の背後から、恐らく僕に対して投げかけられたであろう若い女性の声に振り返る。その先には、下品な高級感を醸し出すガスライター、そのフリントに指を掛け、こちらに差し出している少女の姿があった。
左右の高い位置で束ねられた黒髪、涙袋を強調し過ぎてクマの様になっているアイシャドウ、媚びたピンクを基調とした緩めのトップス、短い黒のスカートに黒のハイソックス、10センチはあろうかと思われる厚底のブーツ、そして至る所にくどい程あしらえられた大小様々なリボン。
ファッションに疎い僕には断言しかねるが、所謂地雷系女子というヤツなのだろうか。毒を持つ生物の身体に派手な色が浮かび上がるのと同様、明らかに関わってはいけない人種である事が見事に示唆されている。
「——どうも」
とは言えニコチンの誘惑に勝てなかった僕は少女を警戒しつつ、彼女のライターへ咥えた煙草の先を近づける。
煙草に火がつくと、僕は軽く会釈をしてそそくさと少女に背を向け、煙を吐いた。
「——ところでさあ、今雨降ってるじゃん?」
黙って煙草を吸っていると、同じく黙って煙草を吸っていた少女が突然話を切り出した。
「私帰るとこ無いんだよね。ホ別2万で良いから遊んでかない?」
彼女は僕と同じ銘柄の煙草の箱を酷く小さな鞄から取り出し、指先でわざとらしくそれを振る。少女が明らかに未成年に見える事にはこの際見て見ぬ振りをしようと思った。この街で正義を振り翳そうと思う程自惚れては居ない。
「——ホ別?」
僕は応答に困って、とりあえず意味のわからない言葉を繰り返す。すると少女は口角を上げ、端的に言い切る。
「ホテル代と2万で抜いてあげるよって事」
なるほど、人は見かけによらないというのは結構な詭弁らしい。
「——今飲んでるからさ、他当たった方がいいと思うよ」
僕は苦笑いを隠さず、灰皿に火がついたままの煙草を放り投げる。そして店の中に逃げ込こもうと扉に手をかけた。横目に見えた少女は、そんな僕を引き留めようとする様子はおろかこちらを一瞥する事もなく何処か余裕そうな笑みを浮かべて煙草を吸っていた。
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