第5話:穢れの澱む場所

公文書館を出ると、昼前の日差しがアスファルトに反射して眩しかった。

空気はまだ湿り気を帯びているが、数時間前までの陰鬱な雰囲気はすっかりと洗い流され、街はいつも通りの日常を取り戻しているように見えた。


だが、三隅の内心は、その穏やかな風景とは正反対の、重苦しい予感に満たされていた。


二人がタクシーで向かったのは、中華街の関帝廟通りからほど近い、かつて中華青年会館が建っていた場所だった。


70年前、周文徳という一人の男が、異様な姿でその生を終えた呪われた土地。

三隅の記憶が正しければ、古い木造の会館は戦後の復興期に建てられ、地域の集会所として機能していたが、事件後に不審火で焼失。

その後、所有者が何度か入れ替わり、現在はガラス張りの近代的な商業ビルが建っているはずだった。


タクシーを降りると、目の前にはブティックやカフェが入った、7階建ての洒落たビルがそびえ立っていた。

平日の昼間ということもあり、若いカップルや観光客が楽しげに出入りしている。

ガラス張りの壁面が周囲の街並みをきらびやかに映し込み、70年前にここで起きた陰惨な事件の痕跡など、どこにも見出すことはできなかった。


「……ここ、だよな?」


三隅はスマートフォンの地図と目の前のビルを見比べながら、隣に立つ王に尋ねた。

あまりの変貌ぶりに、確信が持てなかったのだ。


彼自身、特に強い霊感があるわけではない。

この場所に立っても、感じるのは都会の喧騒と、香水や食べ物の匂いが混じり合った、ごくありふれた街の空気だけだった。


「ああ、間違いない」


王は短く答えた。

だが、その視線は三隅が見ているようなビルの華やかなファサードではなく、もっと別の何か――土地そのものの気配や、時間の澱のようなものを探っているように見えた。


彼はビル全体を、まるで巨大な生き物の身体でも検分するかのように、ゆっくりと見上げた。その表情はいつものように凪いでいたが、眉間には微かな緊張が刻まれている。


「何も感じないな。俺には」


三隅が正直な感想を述べると、王はビルから視線を外さずに言った。


「お前はそれでいい。

下手に感じる方が、厄介事を背負い込むだけだ」


その言葉には、慰めとも警告ともつかない響きがあった。

王はゆっくりとコートの内ポケットに手を入れると、年季の入った木製のケースを取り出した。


蓋を開けると、中には黒漆塗りの、複雑な目盛りが刻まれた円盤が収められていた。風水で用いられる羅盤だ。

だが、王が使うそれは、骨董品のような風格と、長年使い込まれた道具だけが持つ、一種の凄みを漂わせていた。


王は羅盤を左の掌に水平に乗せると、右手の指でそっと縁を支えた。

羅盤の中央、天池と呼ばれる部分に収められた小さな磁針が、最初は細かく震え、やがてゆっくりと北の方角を指して静止するはずだった。

それが、この道具の本来の動きだ。三隅も、過去に何度か王がこれを使うのを見たことがあった。


だが、今回は違った。


王の掌の上で、羅盤の磁針は、正常な方位を指し示すことを、まるで頑なに拒絶しているかのようだった。

北を指したかと思うと、次の瞬間には激しく南に振れ、かと思えば東西の間を狂ったように往復し始める。


やがてその動きはさらに激しさを増し、ついにはカタカタと音を立てながら、高速で回転を始めた。

それはまるで、目に見えない巨大な磁石が、この土地の理を根底から捻じ曲げているかのようだった。


王は顔をしかめ、その回転する磁針を忌々しげに見つめている。

その額には、玉のような汗が滲んでいた。

派手な術ではない。

だが、世界の法則の乱れを観測するという、彼の道術の根幹が、今まさに目の前で異常をきたしているのだ。



「……まだ、いる」

王が、絞り出すような低い声で言った。


「何がだ?」


「70年前の亡霊だ。

いや、もっと正確に言うなら、周文徳を縛り付けた『厭魅』の術そのものが、この土地に根を張っている。

死んだ男の魂魄は、70年間、ずっとここに縛り付けられたまま、解放されていない。

その穢れが、この土地の気そのものを狂わせているんだ」


70年間、ずっと。

その言葉の重みが、三隅の胸にずしりとのしかかった。


70年もの間、人知れず、この華やかな商業ビルの地下で、一つの魂が苦しみ続けている。

その想像は、どんな幽霊の姿よりも遥かに現実的な恐怖として、彼の肌を粟立たせた。

ビルのエントランスから漏れ聞こえる楽しげな音楽が、ひどく場違いなものに聞こえる。


その時だった。


三隅のポケットで、再びスマートフォンが振動した。

藤巻からだった。

公文書館での電話から、まだ一時間も経っていない。


「もしもし、三隅です」


『俺だ、藤巻だ。すまん、立て続けで』

電話の向こうの藤巻の声は、明らかに動揺していた。


『被害者の橋本の身元、不動産会社の社員だとさっき言ったな』


「ええ、聞きました」


『その会社、今、まさにこの中華青年会館跡地の再開発プロジェクトを主導している会社だったんだ』


その事実は、パズルのピースが一つ、カチリと音を立てて嵌まるような感覚を三隅にもたらした。

70年前の事件の舞台となった土地。

その土地の再開発に携わっていた現代の男が、70年前と全く同じ方法で殺される。偶然のはずがない。これは、土地に根差した呪いだ。


「……やはり、土地が関係しているのか」

三隅が呟くと、藤巻はそれを肯定するように言った。


『ああ。だが、それだけじゃない。

橋本の部下に話を聞いたんだが、妙なことを言っていた。

橋本はここ一ヶ月ほど、仕事で頻繁にこのビルを訪れていたらしいが、その度に「地下の駐車場に行くと、いつも誰かに見られている気がする」と、不気味なことを漏らしていたそうだ』


地下駐車場。

70年前、中華青年会館の管理人室があった場所と、完全に一致するわけではないだろうが、あまりにも符合しすぎている。


三隅はごくりと唾を飲んだ。

王の羅盤が示した、狂った気の中心は、おそらくあのビルの地下にあるのだ。


「三隅さん、あんた今どこにいる?」

藤巻の問いに、三隅は目の前のビルを見上げながら答えた。


「……そのビルの前にいますよ」


『そうか。なら話が早い。

……覚悟して聞いてくれ』

藤巻の声が、一段と低くなった。


『橋本の部下の証言で、もう一つ分かったことがある。

橋本が例のお守りを手に入れた経緯だ。

彼は、このビルの地下駐車場で、それを拾ったらしい』


「拾った……?」


『ああ。一週間ほど前、「気味が悪いものを拾っちまった」と笑っていたそうだ。

薄汚れた布袋だったが、なぜか捨てられずに、ずっと持っていた、と……』


その言葉は、三隅の全身の血の気を引かせるのに十分だった。

呪いは、待っていたのだ。

70年間、この土地で、次に己を拾い上げる人間を。

そして、その呪物に触れた人間を新たな宿主として、再びこの世にその姿を現したのだ。


三隅は、狂ったように回り続ける羅盤の磁針と、王の険しい横顔を交互に見た。

事件の輪郭が、ようやく見え始めてきた。

これは、過去の亡霊による復讐劇などではない。


もっと大きく、悪質な、土地に根を張った呪いのシステムそのものなのだ。

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