コスモスは月を仰ぐ

猫小路葵

コスモスは月を仰ぐ

 このワンルームに引っ越して、最初の夜。

 咲良さくらはベランダに出て空を見上げた。

 涼しい風が吹いている。

 昼間はまだ暑いときもあるけれど、こうしてみると季節の移ろいが肌でわかる。

 もう夏は終わったんだなあ、と考えた。


 そのついでに、今日一日の出来事なんかも振り返ってみた。

 荷物の搬入が終わってひとりになり、遅い昼食を買いに出かけた。

 コンビニまで歩く道に、コスモスの花が咲いていた。

 民家の小さな庭の菜園に群れ咲いていたコスモス。

 咲良の苗字は『秋野』という。

 秋野あきの咲良さくら――だから、秋の桜と書くコスモスには思い入れがあった。

 咲良は再び夜空に目をやった。


「宇宙のことも、コスモスっていうんだよね」


 子どもの頃、なぜなんだろうと思って調べたことがある。

 すると、コスモスはギリシャ語で『秩序、調和』を意味すると書いてあった。

 宇宙を『調和のとれた秩序あるもの』とする見方により、コスモスと呼ぶのだそうだ。その対義語は『カオス』、混沌を意味する。


 そうだろうか? 咲良はピンとこなかった。

 小難しい解説を読めば読むほど、わからなくなった。

 果てのない、よくわからない空間に散らばった星。ガスや塵。

 そんな宇宙には、むしろカオスの方がしっくりくるのではないかと咲良は感じた。

 花のコスモスも、その整然と並んだ花びらの様子が『秩序』に例えられたとか。

 そんなの、整然としてる花なんて他にもたくさんあるのに――と思うけれど、たぶん論点はそこではないのだろう。


「それより……」


 そんな難解な理屈より……と咲良は前から思っている。

 もしも宇宙が一面コスモスの花で埋め尽くされていて、だから宇宙はコスモスというんだとしたら、それはどんなに幻想的な光景だろう。

 茫洋とした漆黒の空間いっぱいに咲き乱れるコスモス。

 星明かりの中をどこまでも続く花畑。

 広い星野原には銀河鉄道の線路も通っているかもしれない。

 列車が走ると花は揺れるだろうか。乗客は花に見とれるだろうか。

 そして、花々の上には輝く月が浮かんでいる。

 そう、ちょうど今夜のような――とても美しい月だ。


「そうだ」


 咲良はそこでポケットから携帯電話を取り出し、操作した。

 慣れた指使いで彼にメッセージを打つ。


 ――月がきれいだよ


 そう一言したためたけれど、送信するつもりはなかった。

 誰もいない部屋を振り返る。

 前の街でも同じ場面があった。

 そのときも、こんな初秋の夜だった。

 咲良がひとりベランダに立っていると、月がきれいに出ていた。

 彼にも知らせようと思い、メッセージを打った。


 ――月がきれいだよ


 あの日は、メッセージを送信した。

 すると間もなく部屋の網戸がからからと開いて、彼が携帯電話を手に笑いながら立っていた。


『なんで直接言わないの』


 咲良もいたずらっぽく笑い返す。

 彼とは一緒に暮らしていた。

 室内にいた彼に、ベランダからメッセージを送ったのだ。

 彼はサンダルを引っかけてベランダに出てくると、咲良の横に並んで尋ねた。


『“月がきれい”って、そのままの意味? それとも夏目漱石系のやつ?』


 そう、それね。

 夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとする逸話は有名だ。

 けれど、いまのように純粋に月がきれいだと伝えたいときには少し困る。

 咲良は『違うよ、もう』と彼の腕を軽くたたいて、『そのままの意味だよ。ほら、見てよ』と彼を促した。

 咲良にそう言われて、彼は夜空を見上げた。


『ほんとだ』

『ね、きれいでしょ』

『うん』


 しばらくの間そうやって、ふたりで月を眺めた。

 そうしてふと、咲良はさっきの問題を彼に聞いてみようと思った。


『ねえ、宇宙のことコスモスっていうじゃない? なんでだか知ってる?』


 彼は一瞬考える素振りを見せて、それから言った。


『そりゃ、宇宙にはコスモスが咲いてるからさ』

『へっ?』


 思わず変な声でそう聞き返した。


『あ、咲良知らなかった? 肉眼じゃ見えないけど、秋になると宇宙は一面コスモス畑になるんだよ。今頃ちょうど満開じゃないかな』


 彼は夜空を指差して、得意げにそう説明した。

 彼の人差し指は宇宙を示してすらりと伸びていた。


『だからコスモス!』


 彼の自信満々な顔に咲良は笑ってしまった。

 その笑顔のまま体重を預け、彼にもたれかかった。

 妙にうれしそうな咲良の様子が彼は不思議そうだった。


『まさかあなたまで、そんなこと言い出すと思わなかった!』


 咲良もずっと前からそう考えていたことを伝えると、彼も驚いていた。

 偶然の一致がうれしくて、胸の中がこそばゆくて、彼も笑った。

 咲良が『ねえ』と言うと、彼は『ん?』と言った。


『きれいだろうね、コスモス』


 宇宙と花、両方の意味で咲良は言った。

 すると彼がまた冗談を言った。


『でも咲良の方がきれいだよ。“あきのさくら”さん』


 また笑わされた。


『ハイハイ』


 月も笑っていたような気がした、あの夜のそんなやり取り。

 手が届きそうなほどよく覚えているのに、もう触れることはできない思い出。

 無人になったあの部屋は、いまどうしているかな。

 真っ暗な窓を思い浮かべると涙がこぼれそうになるけれど、ぐっとこらえた。

 きっとまたすぐに、別の誰かがあの窓に明かりを灯してくれる。

 あの部屋をまた幸せな空間にしてくれる。


 ――だからわたしも、ここでがんばるんだ


 彼も元気でやってくれたらいいな、と咲良は思った。

 今日から新しい暮らしが始まった。

 新しい部屋の、新しいベランダから見る夜景。

 夜空を仰いで、咲良は笑顔を作った。


「ねえ、月がきれいだよ」


 その笑顔のまま、彼宛てのメッセージを咲良は消した。



 

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