第2話 王府井大街1

「え、ちょっと、困りますよ。明後日までの契約でしょう。こんなところで突然辞めるっていわれても」

 王府井大街ワンフージンダージエの人ごみのなか、突然耳に飛び込んできた日本語に、上野孝弘はとっさに振り向いていた。

 路上でスーツ姿の男二人がなにかもめていた。服装から見て顔が見えているほうが中国人、後ろ姿が日本人だなと見当をつける。

 日本人のほうが焦った声を出していて、中国人はうすら笑いを浮かべて、とってつけたように軽く頭を下げていた。


「この後、アテンドがあるのわかってますか? 信用問題ですよ」

「仕方ナイです。わたしも困ってイます。でももう約束した。だからスミマセン」

「ちょっと、ワンさん。こんな形で契約終了になると、次からはあなたには仕事をお願いできませんよ」

「あー、そうデスね。でも仕方ナイです。時間ナイので、失礼します。高橋さん、スミマセン」

 そう言った男が逃げるように後退すると孝弘の肩にぶつかって、そのまま振り返らずに足早に去っていく。


「いってーな」

 つぶやいた日本語を聞きとがめたのか、高橋と呼ばれた男が孝弘に目を向けた。

「すみません、日本の方ですか。大丈夫ですか?」

「いや、いいけど。あんたがぶつかったんじゃないし」

 答えながら、孝弘は相手をじろじろ見る。

 日本でなら不躾な目線になるだろうが、ここ北京ではそのくらいでは問題にはならない。


 人目を引く整った顔立ちの男だった。

 くっきりした二重の目にすっきり通った鼻筋。孝弘よりすこし背は低い。スーツを着ていても、全体的に優しげな雰囲気をまとっている。

 服装からして駐在員か出張中の会社員なのだろうが、顔だけ見れば学生で通りそうだ。

 孝弘の返事に彼は困ったような笑みを返した。

 へんなもめごとを見られてバツが悪いのか、そのあいまいな笑みはとても日本人らしかった。


「そうだけど。でもとばっちりでしょう」

「あんまり簡単に謝らないほうがいいよ。日本とは違うんだ、もっと警戒しないと、この国じゃすぐにカモにされるよ」

 年上の社会人にいうことでもないだろうが、ついそんなことを口走っていた。

 おかしいなと思う。自分はこういうお節介をやくタイプではないはずなのに。

 それなのに今も、さりげなく人ごみから彼をかばって、歩道の外れに誘導している。

「ありがとう、気をつけるよ」

 孝弘の対応を見て、相手も自然と言葉使いをかえてきた。

 外見からきちんとした感じなのかと思ったが、けっこう臨機応変なタイプらしい。


「ところで、きみ観光客じゃないよね、留学生?」

 孝弘がうなずくと、目の前の彼はちょっと首をかしげて何か考えこんだ。

 その表情がふと変化して、目に力が入ったように見えた。

 にこっと親しげに笑いかけてくる笑顔が、さっきのあいまいな微笑みとはまるで違っていて、やたらきれいで孝弘はちょっと驚いた。


「ええと、いまって時間ありますか? 留学してどのくらい? いや、ええと、中国語ってどのくらい話せますか?」

 矢継ぎ早にそんなことを訊ねてくる。

 孝弘がうろんな表情になったのを見て、彼は名刺入れから名刺を一枚差し出してきた。

 学生の孝弘がスーツ姿の大人から名刺なんてもらったことはない。

 片手で受け取ると、さっと目を通す。

 社名は孝弘も知っている会社のもので、日本語と簡体字で北京市内の住所が載っており、所属は海外事業部中国開発室、高橋祐樹とあった。


「失礼しました。高橋祐樹といいます。そこで見ていたと思うけど、じつは今、契約していた通訳に逃げられてしまって、真剣に困っているんだ。これからお客に会って話をしなきゃいけないことになっていて。もし時間があるなら助けてくれませんか?」

「それってつまり、俺に通訳をしてほしいってこと?」

 孝弘の問いに彼はまじめな顔でうなずく。

 今日は王府井書店まで買い物に来て、あとはついでに夏服でも見にいこうかと思っていた。つまり急ぎの用ではない。


「時間はあるし、助けてあげたいけど。ちゃんとした通訳なんてしたことない」

 駐在員の仕事など学生の自分に手伝えるものなのかと危ぶんだ孝弘に、祐樹はうなずきながらも諦める気はないようで問いを重ねた。

「中国語はどの程度?」

「北京に留学してきて一年ちょっと。HSKでいうなら四級。でも日常会話とか授業はわかっても、仕事の内容とか単語とか知らないから、通訳できるとは思えないんだけど」

 #漢語水平考試__ハンイーシュイピンカオシ__#、通称HSKを知っているかわからなかったが、孝弘がそう告げると、じゅうぶんだよと彼はうなずいた。

 HSK三級取得で文系大学の本科生として、五級取得で理系大学に留学できるレベルだから、四級の孝弘の語学力はだいたい理解できたのだろう。


「今日はこれから日本から来たクライアントに北京事情指南というか、ようするに北京案内をする感じなんだ。会議室で資料見ながら会議ってわけではないから、現地事情に詳しい君みたいな人のほうがいいと思う」

 それなら何とかなるだろうか。

 会議だなんて言われたら、断ったほうがよさそうかと思っていたが。

 孝弘がどう答えようかと迷っている間に、彼はさらに言葉をつなぐ。

「しかも王さんが突然辞退したこんな場面に日本人留学生が居あわせるなんて、これはもう君を雇えっていう天の配剤だと思うよ」

 にっこり笑って孝弘の目を引き付けておいて、祐樹は優雅に肩をすくめてみせた。


「というか、正直、まったく中国語が話せないうえに北京に赴任してまだ一週間で、北京事情を人に紹介できるほども知らないっていうのが実際のところなんだ。謝礼と食事は出すし、夜までになるから帰りも送っていくよ。人助けのアルバイトだと思って頼まれてくれないかな」

 あっさり事情を明かしてみせ、ね?と誘いこむ。

 顔に似合わず案外押しが強いんだなと、祐樹のくり出す条件を聞きながら孝弘は驚いていた。

 でもまあ、何だかよくわからないが、面白そうだ。

 本気で困っているようだし、自分の中国語レベルでいいというなら引き受けてみようか。持ち前の好奇心がむくむく湧いてくる。


「やってもいいよ。役に立てるか、よくわからないけど」

 孝弘の言葉に、彼はほっとしたように大きく息をついた。

「よかった。君に引き受けてもらえなかったら、この王府井の大通りで中国語話せる日本人いませんかーって叫ばなきゃいけないかと思ったよ」

 さわやかに笑ってそんな冗談をいう。

 

 王子さまのように優しげな見た目より実際にはしたたかで、そのギャップで得するタイプだ。

 それをたぶん、自覚もしている。

 こういうタイプは侮れないな。

 でも興味をひかれた。

「じゃあ、先にすこし打ち合わせしようか。どこか入れる店を知ってるかな? ところで、名前はなに?」

「上野孝弘」

 祐樹を連れて人ごみを抜けながら、面白いことになったと孝弘はわくわくしてくるのを感じていた。



注:現在の漢語水平考試験(HSK)はこのシステムではありません。

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