第8話《命ある限り》
錯乱した篠垣が、恍惚とした笑みを浮かべて部屋の入口に立っていた。葦原 栞(あしはら・しおり)は、突然現れた死神を見て、厳しく目を細めていた。
背後には勝手口に続く扉はあるが、数年間大病を患った弱った体では、とても逃げられないと栞は思った。メイド長の駒生 仍(こまおい・なお)が、緊張した面持ちで篠垣と自分との前に立った。
(このままでは仍まで死なせてしまう)
そう思った。11年前、新婚旅行で行った欧州で、栞は仍と出会った。
当時の栞は22歳。仍は11歳。駒生家のパーティで出会ったことがあったから、身上は知っていた。シャルル・ド・ゴール国際空港で起きたテロにより、炎上した旅客機が空港内の格納庫に飛び込み、そこにあった駒生家のプライベートジェットごと、仍の家族や一族の命を奪った。
仍は空港内の免税店でお土産に悩み、迷子になったことで事件に巻き込まれなかった。栞は仍を引き取り、家族として過ごしてきた。
使用人という体裁はあったけど、年の離れた妹だと思っていた。だから、学費も出して、大学まで行ってもらった。仍は努力家で、奨学金制度を活用して、葦原家の財産を殆ど減らさなかったのだけど。
「仍」
「はい、奥様」
振り向かず、仍は返した。言葉には悲痛な覚悟が宿っていた。
「葦原家の当主代行として、貴女に命じます。わたくしのことは捨て置き、2階の子どもたちを助けなさい」
努めて冷徹な口調で言い放った。
「そんな……そんなこと、できるわけがありませんっ!」
情に篤い仍が、振り向かずに首を振る。
「二度は言いません。優先順位は、藍坂家の長女、葦原家当主、藍坂家の次女、祷の順番です。行きなさい! 煙を吸ったら動けなくなる。逡巡している暇はないの」
鋭い口調だった。
(奥様は……私を、生かそうとしてっ……!)
「助けを呼んでまいります」
仍は篠垣を見た。2階に行くためには、彼の横を通り抜けねばならない。
「Je veux que tu subisses un sort terrible.」
篠垣の姿をした何かが、フランス語で呟いた。瞳が白く濁り、声が人のものとは思えない低さで震えた。
(『私たちを……無残な目にあわせる』!?)
篠垣は何もない所に右手を伸ばす。渦巻くような光が現れ、手を突っ込んだ。
「──Couvrir deux mondes est une tâche difficile」
苦悶の表情を浮かべて、手が止まる。
(『二つの世界を超えるのは大変』!? 何を言っているの?)
仍はそう思いつつ、渦で動けなくなっている男の横を通り抜けようとした。男は残った左手を振り回す。その拳は裏拳のように振り抜かれ、仍の左肩を打った。人間離れした力だった。仍は吹き飛ばされて、寝室の外に弾き出され、壁に叩きつけられて転倒した。
痛みをこらえてなんとか顔を起こすと、男は何もない空間から西洋の片手剣であるレイピアを取り出した。
「D'abord……そう、あし、足を狙います」
フランス語から、不自然な日本語に変わる。
(──篠垣さんから、記憶を奪っている!?)
そう直観しつつ、仍はなんとか立ち上がった。その瞬間、レイピアが突き出されるのが見えた。
(速い! 避けられない)
仍は絶望した。その時、眼前に人影が現れた。その人物を剣は貫通し、目の前に切っ先が現れた。鮮血が仍の顔を紅に染めていく。
「奥様ッ!」
仍は、現れた栞に叫んだ。
「なんてことを!」
「……仍、先に行く命こそが、守るべき命です。この剣は……命ある限り、抜かせない!」
「奥様!」
「早く……行きなさいッ!」
栞は仍が聞いたこともない大声で、命令をくだした。
仍の目から涙があふれ、走って階段を駆け上がった。
「仍……私の家族……妹のような……。殺させはしないわ!」
葦原 栞は、腹部を貫いた剣の柄を両手で握りつつ、呟いた。仍が2階に上がった足音を確認しながら。
* * *
廻は祐奏たちに「様子を見て来る」と言い、1階への階段に向かっていた。
(何か武器になりそうなものは……)
《死神》が何者であろうと、祐奏たちが逃げるための時間を稼がなければならない。廻は2階の構造を頭に描いた。寝室以外は、来客用のバスルームと、唐沢が来客に飲料などを提供する厨房を備えた給仕室、小さな食堂がある。
廻は迷わずにバスルームに飛び込み、必要そうなものを確保した。大きめのバスタオルにボトルを包んで、飛び出すまでに10秒。
「お館様!」
階段を上がって来た仍と遭遇する。
「篠垣さんが洗脳されたみたいになって……奥様がっ」
動揺しつつ、説明しようとする仍を制する。
「話を聞いている暇はなさそう。仍、祐奏たちを窓から脱出させて。2階だから布団とか枕とか落として、そこに落ちれば多分死なない」
仍は頷いて「お館様は?」と聞く。
「《死神》が取りついた篠垣さんを足止めする!」
廻の言葉には逡巡がなかった。仍は一瞬だけ悩む。
(お館様一人で、大丈夫なの?)
そう思うのだが、廻が「篠垣さん──違う、《死神》が来る、早く祐奏たちの寝室に行って」と叫ぶ。廻が「祷もそこに避難させているから」と付け加えたことで、仍は決断できた。
(お館様は幼いとは言え、大変な天才だから、何かお考えがあるはずだわ)
そう思って走り出した。
篠垣に突き飛ばされた肩が痛むが、気にしていられなかった。
仍が走り去る音と時を同じくして、篠垣が火災で停電した2階に上がって来た。手には見たことがない剣が握られていて、真新しい血で塗られていた。
(母さんを、刺したのか──!)
怒りと、恐怖と絶望が沸き上がってくる。泣きそうになるが、逃げることは許されなかった。
「怖い……でも、僕は、当主なんだ!」
そう言いつつ、バスタオルを広げて、泡の出る風呂洗浄剤を吹きかける。
「そこまで、来てる」
篠垣は1階からの踊り場を越え、2階へは3mもない。即興の罠が間に合う前に、もう上がって来てしまう。
(間に合わないっ──)
篠垣の剣が廻に向けられた。串刺しを覚悟した時──。
「お館様っ」
突然、祐奏の声がした。彼女は棒のようなものを右手に持っており、それを篠垣に突き出した。強烈な光が発せられ、男の目を焼く。
(懐中電灯だ!)
懐中電灯の光が、断続的な停電で真っ暗になった館内で輝いた。目を焼かれた篠垣が顔を抑えようとした時、廻は4段上から跳躍して、バスタオルを篠垣の顔に巻き付けた。バスタオルに染みた洗浄剤の香りが鼻を突き、泡が目に沁みる。篠垣は悲鳴を上げ、手探りで顔を押さえた。
「篠垣さん、ごめんなさいっ」
その時、祐奏が廻の持って来たボディソープのキャップを開き、篠垣の足元に巻いた。完全に態勢を崩して、階段から落下する篠垣、ミイラ男の包帯のように、バスタオルを空中で巻き付けていた廻は、そのまま一回転して篠垣の胸を蹴った。
激しく転落音が響き、踊り場に転落した篠垣。
「死んじゃった……の?」
祐奏が心配そうな声を上げる。様子がおかしいとはいえ、1か月間で何度も見かけた顔見知りである。モノのように見ることはできなかった。
「生きているよ。でも、いくら大人でも、しばらくは動けない……って、えっ」
頭から落下したのに、篠垣の動きは止まっていない。すぐにでも立ち上がりそうなのを見て取り、廻は「逃げるよ」と祐奏の手を取って走った。
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