第1章・6年前の惨劇
第5話《とっても優しい、人なんだ》
歌内 釉(うたない・ゆう)は、6年前の自分の声を思い出した。
その再現した声で──いま、廻に語りかけた。
「もしかして……《お館様》ですか?」
言葉が落ちた瞬間、葦原 廻(あしはら・めぐり)と葦原 祷(あしはら・いのり)の兄妹は動きを止めた。
まるで、世界の音が消えたようだった。
「え……もしかして……祐奏(ゆうか)、か……!?」
「祐奏ちゃん、だよね……!?」
「はい。藍坂 祐奏(あいさか・ゆうか)ですっ」
そう言って、帽子とウィッグと眼鏡を外した。
少し青みがかった、濡烏(ぬれがらす)と呼ばれる短い黒髪が姿を現す。
意志の強そうな、形のいい眉。息を飲んでしまうほど、均整の取れた顔立ち。透き通るような透明感のある肌色。そして、透き通った美しい声。
忘れるわけもない。
「祐奏……無事で、っ、無事で、よかった」
「生きていたのなら……っ! 連絡、よこしなさいよっ」
廻と祷が、泣きながら口々に言った。
(《お館様》も《お嬢様》も、あの時と変わらない。お優しいままだ……)
釉──祐奏の胸がじんわりして、涙が頬を伝った。
その名を呼んだ瞬間、胸の奥に、あの秋の光景が蘇る。
それは6年前──。
* * *
6年前。東京。
葦原家は、明治維新後に貴族階級の一つ《伯爵》に任じられた《名家》で、戦前には貴族院議員も出した家柄である。
邸宅は、大正期の洋風と和風を融合した《文化住宅》で、木造二階建てだ。
赤いスレート屋根には小さなドームがあり、玄関は洋風、応接間を備えつつ、住宅本体は和室が並ぶ。
その邸宅は文化財のようで、かなり広い敷地に建てられ、高い壁に囲まれていた。
木の香り漂う本館には当主の執務室があり、壁を天井までの本棚が埋めている。
館の当主は、まだ10歳の葦原 廻。
大きすぎる重厚なテーブルと豪華な椅子を持てあましつつ、古い小説を読んでいた。
そこへ、執事の唐沢 劭(からさわ・つとむ)が現れ、廻のテーブルにオレンジジュースを丁寧に置いた。
「唐沢、今日、来るんだよね。藍坂家の子たち」
少しそわそわしつつ、廻は顔を上げて尋ねた。
「はい。行儀見習いとして、1か月ほど滞在致しますが、何か」
「確か、僕と、同い年なんだよね?」
好奇心と、ほんの少しの不安をその目に宿して、廻は質問する。
「長女の藍坂 祐奏 様は、お館様と同い年。次女の藍坂 歩奏(あいさか・ほのか)様は、祷お嬢様と同い年でございます。
お二人のお母様が早くに亡くなられ、困り果てた先方の当主に、奥様が手を差し伸べられたのでございます」
「そっか、母さんが。うちには仍(なお)がいるから、安心だものね」
廻は、メイド長の駒生 仍(こまおい・なお)の名前を出した。
仍は22歳の住み込みメイドで、礼儀作法も立ち振る舞いも美しい。
「ねぇ、お兄! 車、来たみたいだよっ。ドームから見えた」
走る足音とともに、祷が執務室の入口からひょっこり顔を出す。
「お嬢様。お屋敷の中で走ってはいけません。それと、『お兄様』です」
メイド服姿の駒生 仍が、祷の袖をつかんだ。
物静かで教養ある女性だ。ショートボブの髪は実用的で、目線を合わせて注意している。
「仍、ごめんなさい。お客様が来るから、お屋敷を見回っていたの。これ」
そう言って、ベルガモットのピンクの花を一本差し出した。途中で折れている。
「まぁ、お嬢様。よく見つけてくださいましたね。これは仍がお預かりします」
仍は花を受け取ると、祷を優しく抱きしめた。
仍は、天涯孤独の身だったが、幼少期に葦原家に引き取られた恩義がある。だから、幼い主たちを少しでも精神的に支えたいと思っていたのである。
廻と祷の母である葦原 栞(あしはら・しおり)は、夫の葦原 奉(あしはら・まつり)が病死して以来、心労もあり、体を壊すことが増えた。
廻は、そんな仍の姿に微笑み、席を立つ。
「今はお客様が優先だけど、仍。そのお花、後で僕にちょうだい」
「《お館様》は物知りでいらっしゃいますから、何かお考えがあるのですね」
「うん!」
廻は子どもではあるけど、立場としては葦原家の当主。家格では上とはいえ、同じ《名家》である藍坂家に対しては礼儀を尽くさねばならない。三つ揃えのスーツを着ているのは、そういう気持ちの表れだった。廻、祷、唐沢、仍は玄関に移動する。
玄関には廻と祷の母の栞も来ていた。清楚なワンピースを着て、体が冷えないように、夏場ながらもケープをまとっている。
「母さん──いえ、母上、無理をなさってはいけません」
「廻、わたくしが呼んだお客様です。そんな失礼なことはできませんよ」
栞は理知的に廻を窘めた。
母はびっくりするほど痩せていて、廻の心は不安でざわつく。
玄関の扉を開けると、ちょうどBMW・502が停車する。1950年代のクラシックな車種で、2ドアのクーペ。ボンネットの鼻先に4つ並んだヘッドライトが威厳を醸しだしていた。クロームメッキのバンパーが輝き、整備状態の良さを示した。
運転席から、藍坂家当主の藍坂 岳寛(あいさか・たけひろ)が降りた。ドイツのブランド「ヒューゴボス」のスーツを着た、長身の美丈夫だ。
廻が挨拶をし、岳寛が応じる。そして栞と岳寛の話となった。
そこで後部座席から、絵に描いたように愛らしい二人の少女が降りて来た。
姉の藍坂 祐奏は10歳。恐ろしく整った顔立ちをしていた。髪は背中まで届くロングヘアで、濡烏(ぬれがらす)と呼ばれる、少し青みがかった黒髪だ。丁寧に梳かされていた。白いリボンで髪の左側を軽く留めており、顔の輪郭を柔らかく縁取っている。その深く澄んだ瞳は、年齢に似合わぬほど冷静さと、知性を宿していた。
服装は藍色の長袖ジャケットに、裾が三層のフリルになった純白のスカートをあわせていた。スカートの裾やジャケットの袖口にはレースがあり、彼女の上品さと育ちの良さを主張していた。足元は白のハイソックスと、光沢のある黒いローファーだ。きちんと磨かれた革の光沢が、彼女の几帳面さを物語っている。
妹の藍坂 歩奏は9歳。こちらも整った顔立ちだが、可愛らしさが勝る。少し茶色がかった黒髪をツインテールにして、黒と白のストライプのリボンで止めていた。
服の構成は祐奏と同じだが、藍色ではなく、こげ茶色のジャケットだった。少し大きめで、袖口から小さな手が覗いている。
同じ服を着ていても、彼女の動きは軽やかで、フリルの揺れ方さえ違って見えた。
歩奏のローファーは、少しだけ擦り傷がついていた。それは、彼女がよく走り回る証であり、祐奏が黙って磨いてあげる日常の一端でもあった。
「お兄、あの子たちだね」
大人たちの会話を無視して、祷が廻に話しかけた。
「うん、僕たちから話しかけよう。なんだか緊張しているみたいだし」
廻は祷の手を引いて、姉妹の前に連れて行った。妹の祷は、見慣れない客に少し身構えつつも、兄の後ろでしっかり立っていた。
「あの……藍坂 祐奏さんと歩奏さんだよね。僕は葦原 廻。こちらは妹の祷」
「よ、よろしく。祷だよ……ですっ」
「廻……様と、祷…様。葦原家の《お館様》と《お嬢様》ですね! は、はじめまして。藍坂 祐奏ですっ」
「妹の歩奏です。こんにちは」
姉は緊張して、妹は警戒して、廻に視線を向けた。
「そんなに畏まらないで。同い年なんだし、僕のことは廻って呼んでよ。僕も名前で呼びたいし。藍坂さんだと2人になっちゃう」
廻は子どもでありながら、動作には落ち着きと気品があった。祐奏はだから(呼び捨てなんて、とんでもないこと)としか思えない。
「そ、そんな失礼なことはできませんっ! 《お館様》は《お館様》です」
びっくりして、祐奏は首を横に振った。
「あ、でもわたしたちを名前で呼ぶのは、序列ですから、そうしてください。『さん』も要りません。決して失礼がないようにと父に言われています。すみませんっ」
「そっか。無理強いはできないもんね……」
少ししょんぼりする。そこで、思いついたことがあって、廻は笑顔になった。
「ねぇ、君たち、お花は好き?」
男の子がそんなことを言い出すのが意外で、姉妹は目をぱちくりさせた。廻の人柄を感じ取り、少し空気が優しくなる。
「あ、はい」
「私は見るのは好き」
祐奏は頷き、歩奏は少し笑った。
「仍、さっきのお花をちょうだい」
「あ、はい」
「ありがとう」
廻は仍から花を受け取ると、藍坂姉妹に「こっちに来て。祷も」と手招きした。
庭には小さな植物園があり、ビニールハウスの中には色々な植物が見られた。中には作業机があって、廻はそこの引き出しを開けた。
「あった」
ハサミと竹串、麻紐を取り出す。
「ここ、綺麗ね。で、お館様は何をしようとしているの? 折れてて、かわいそう」
歩奏が、廻の持ったベルガモットのピンクの花を指さした。
「手当しようと思ってね」
「お兄は、こういうの得意なんだよ」
祷が少し誇らしげに笑った。
廻は手際よく、ハサミでベルガモットの茎を切った。
「切って、しまうのですか」
祐奏がびっくりして、目を丸くした。
「うん。折れ口が潰れていると、水が吸えないから。でね」
茎に竹串を添え、麻紐で縛る。
作業台の横の流しとガス台へ移動し、ヤカンに少量の水を入れて火にかけた。
湧いた湯に茎を数秒浸し、となりの冷水のボウルへ移し替える。
「これで水を吸う。あとはお花を新聞紙で包んで水につけておけば、元気を取り戻すよ。つぼみもある。これから咲くのが楽しみだね!」
わくわくした口調で目を輝かせて話す廻を、祐奏と歩奏は感心して見ていた。丁寧で無駄ない動きに感心して、祐奏は思わず頷いてしまう。
(とっても優しい、人なんだ)
──祐奏はその言葉を胸に抱くように、指先でスカートの裾を軽くつまんだ。そして、嬉しくなって、笑った。
廻は、その笑顔に気づくのが一瞬遅れた。
気づいたときには、眩しさに目を細めて──ただ、見とれてしまう。
目線が合って、廻と祐奏は赤面した。
急に胸がどきどきして、2人はびっくりした。目が合った瞬間、世界が一瞬止まったようだった。胸の奥が、まだ名前を知らない感情でいっぱいになった。
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