第一章 虐げられる『黒髪令嬢』①

 ハスティーナ王国の南にある片田舎の小さな町から、私は八歳の時に、このエヴェリー伯爵家に引き取られた。

 き母の兄であるエヴェリー伯爵は、目の前に現れおずおずと挨拶した私を見た瞬間に、顔をしかめた。

「……ふん。シンシアにそっくりじゃないか。まるで生き写しだな。気味の悪い」

「この娘が、駆け落ちをしたあなたの妹の子? ……嫌ね、いかにも男をたぶらかしそうな目をしているわ。それにこの娘の髪ったら……」

「これからこの子とうちのしきで一緒に暮らすっていうの!? このエヴェリー伯爵家の義娘として、社交の場にも私たちと一緒に出るようになるってわけ? 絶対に嫌よ私!」

 エヴェリー伯爵夫人と娘のパドマは、伯爵以上に盛大に顔をゆがめた。二人は私の容姿が気に入らないと言い、まず髪を短く切り落とし、真っ黒に染めるよう命じたのだ。そして、裾を切った使用人用の古いワンピースのみを着るよう指示され、伯爵家の令嬢としてではなく使用人として過ごすよう強制されたのだった。

 以来今日までの約十年間、私は毎朝日が昇るより先にベッドを出て、暖炉の炭の粉を安物の香油などに混ぜ込んで作った手製の染め粉を髪に塗り込み真っ黒に染めてから、エヴェリー伯爵家の三人に命じられた屋敷の仕事をこなす日々を送ってきた。

 伯爵一家はすぐに私に暴力をふるった。朝食が出てくるのが遅い、窓の桟にほこりがついている、ドレスの繕いが雑だ、などなど。身に覚えのない不満をぶつけられながら、私はエヴェリー伯爵に蹴飛ばされ、伯爵夫人に頬をたたかれ、パドマに掃除用のバケツの汚水を浴びせられ、そして罰と銘打ってしょっちゅう食事を抜かれた。

 エヴェリー伯爵家にはよく来客があった。大抵の人は私をただの使用人だと思っているのか気にも留めなかったけれど、まれに私の存在に気付き、伯爵夫妻に尋ねる人もいた。

「見慣れない使用人だと思ったが……、よく見るとシンシア嬢にそっくりじゃありませんか! 伯爵、もしやあの娘は……?」

 ある日、客人の男性が廊下を掃除している私に目を留めそう問うと、エヴェリー伯爵は渋々といった感じで返事をした。

「……ええ。実は亡き妹の忘れ形見です。このエヴェリー伯爵領を出ていったあの妹が、先日十数年ぶりにようやく手紙を寄越したのですよ。自分は病のためもうじきはかなくなる、一人娘をお兄様に託したい、などと、あまりにも身勝手な内容が書かれていましてね」

「なんと……。あのシンシア嬢が……。では、彼女はすでに?」

「ええ。亡くなったと知らせがあったので、この娘を南方の町まで迎えに行かせたのですよ。しかしまぁ、この小娘がまたとんでもなく素行の悪い厄介者でしてね。屋敷の物を盗んで勝手に売り飛ばそうとするわ、私たちの見ていないところでパドマに暴力をふるうわで、もう困りきってしまいまして。このままでは社交の場に出すことさえできませんから」

 それは真っ赤なうそだった。私はそんなこと、一度もしていない。けれどここでそう反論したところで、お客様が帰られた後にひどいせつかんが待っているだけだ。私は悔しさをぐっと堪え、応接間からの視線を感じながら廊下の床磨きを続けた。

「それはまた……、伯爵もご苦労なさいますなぁ」

「まぁ、父と母に見限られたシンシアにとっては、私が唯一の身内ですからね。忘れ形見を育てるのは、我々夫婦の義務です。しかしこの娘をこのまま甘やかし続けるわけにはいきませんから、心を鬼にして、一から厳しくしつけなおしているところです」

「なんと……。あの礼儀正しいシンシア嬢の娘さんとはとても思えませんな」

「外面はいい妹でしたが、男爵家の三男と駆け落ちするような娘ですから。その相手の男も、仕事中の事故でシンシアより先に死んでいたというし、どうにも不幸が重なりまして」

 興味深そうに話を聞いている客人の前で、エヴェリー伯爵は偽善者の顔をしながら深刻ぶって語っていたものだった。


 そんな苦痛に満ちた日々に終わりはなく、私は毎日朝から晩まで心を殺してひたすら働き続けた。髪を黒く染め、時に空腹のあまりフラフラとよろめきながら。

 エヴェリー伯爵夫人に命じられ私が作っていた黒髪の染め粉は、いくら苦心してもろくな仕上がりにはならなかった。髪はベタベタと気持ちが悪く、その上染め粉をつけた髪が肩の辺りを汚すものだから、粗末なワンピースはますます薄汚れた。顔の周りも染め粉のせいで同じようにすすけていて、私の風貌はまるで路上の物乞いのようだった。

 私の髪が伸びてくると、大抵はパドマがま忌ましそうにはさみを持ってきた。

「見苦しいわねぇ。切りなさいよ! あんたに長く美しい髪なんて必要ないわ!」

 そう言うとパドマは私の髪をわしづかみにする。

「きゃ……っ! い、痛い! 止めてください……っ」

「うるさいわね! いい!? 一日でも染め忘れたら、絶対に許さないから! お母様に言いつけて、これまでで一番つらをしてもらうんだからね!」

 そう怒鳴りながら、パドマは私の髪を肩の辺りまでザクザクと乱暴に切るのだった。

 パドマが実は、自分のくすんだ赤毛をコンプレックスに思っていることに、私はいつしか気付いていた。ある日掃除のためにパドマの部屋の扉をそっと開けると、出かけているものと思い込んでいた彼女が鏡台の前に座り、め息をついていた。

『はぁ……。なんで私の髪はこんな色なのかしら。……せめてこの顔のそばかすだけでもなかったらいいのに……』

 彼女は彼女で、自分の容姿に悩んでいるのだろう。私への当たりのむごさがその裏返しなのも、なんとなく分かる。

 けれどこうして手荒に髪を切り落とされるのは、私だってものすごく辛い。幼い頃は、美しく手入れし伸ばした髪を、母が毎日優しくかし結ってくれていた。

『あなたの髪色は本当に素敵ね、ミシェル。神様からあなたへの贈り物かしら。可愛かわいらしいあなたを何倍も魅力的にしてくれているわ。ふふ。大事にしなきゃね』

 母の優しい言葉を思い出すたびに、堪えきれないほどの悲しみに包まれる。

 かといってパドマに抵抗することなど、エヴェリー伯爵と夫人が絶対に許さない。

 屈辱と悲しさで、パドマに乱暴に髪を切り落とされる時は、いつも涙が止まらなかった。


 けれど、そんな苛酷な日々を送る私に、たった一人だけ優しくしてくれる人がいた。

「ミシェル、こんにちは。今日も大変そうだね」

「あ……、スティーブ様。いらっしゃいませ」

 スティーブ・ヘイゼル伯爵令息。ヘイゼル伯爵家の次男で、パドマの婚約者。私とパドマは同い年で、ともに十八歳になっていたが、スティーブ様はその四つ上の二十二歳だ。うねったくりいろの髪に、くすんだ灰色の瞳。お世辞にも美男子とは言いがたいが、個性的な雰囲気の方だった。

 スティーブ様がパドマに会いにエヴェリー伯爵邸を訪れてくる日、私の心はいつも少し浮き立った。けれど、それは決して横恋慕などの感情からではなかった。

「毎日お疲れ様。……ほら、これ。伯爵家の皆には内緒だよ。あとでこっそりお食べ。令嬢たちの間で今っている店の焼き菓子さ」

「っ! ……いつもありがとうございます、スティーブ様……」

 キョロキョロと周囲を見回し誰もいないことを確認すると、スティーブ様は手に持っていた小さな紙袋を私にそっと手渡した。

 スティーブ様はパチンとウィンクすると、人差し指を口元に当てて小さな声で言った。

「ほら、今のうちに自分の部屋に置いておいで。パドマか誰かが来たら、僕がく言っておいてあげるから」

 そのキザな仕草は、決して美男子ではないスティーブ様には正直あまり似合っていなかったけれど、私にはまるで王子様のように見えていた。

 スティーブ様の存在は、孤独な私にとって大きな心の支えになっていたのだった。

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