海の底で、たゆたう夜に

あまがさ

海の底で、たゆたう夜に

僕が君と初めて出会ったのは、深海に泳ぐ星のような、海月がたゆたう水槽の前だった。

 

 夜間営業のその水族館の巨大水槽の中には、ライトアップされ、うす白く発光した海月たちがゆらゆらと揺蕩っている。

 

 擬似的な海の底、青く照らされた水槽の前にいた君はまるで海月のひとつのようだった。


 白いワンピース姿の君はかなりの時間熱心に水槽の中を見つめていたが、突然こちらを振り向いて言った。

 

「ねえ」

 

「え?」

 

 ふわりとしたシフォン素材のスカートが翻り、意志の強そうな黒い瞳がこちらを見上げる。

 

「あれはおおいぬ座かしら? だとしたらこいぬ座はあれ?」

 

 水槽の中を指差しながら星を辿るように白く小さな指を動かした。

 

「……きみ、迷子かい? 付き添いの大人は?」

 

 僕にはきみはどうみても小学2〜3年生にしか見えなくて、まるで大人ぶった問いをしてしまった。

 

「あら、年齢なんて気にするの? あなただってせいぜい高校生でしょう?」

 

 指定の【ブラウス】に【スラックス】姿の僕をじっとみつめながら、君はコケティッシュに唇を持ち上げる。

 

 その当時僕は【わたし】ではない【僕】に戻るために、スラックスを履いて水族館に来るのが好きだった。

 

 ――【わたしスカート】はロッカーにかくして。

 

 まるでそれを見透かされたような心地になって、ぼくはカッと顔が熱くなった。

 

「それが? もしそうだとして、こどもが一人でウロウロしていい理由にはならないけど?」

 

「そうね。でもあなたみたいに女の子だけどスカートを履いているみたいに、おかしくもないし理由なんてないわ」

 

 暖簾に腕押し、海月みたいにひらひら、ゆらゆら。

 

 僕の言葉なんてちっとも効いてやしない。

 

 でも、この子が僕を見つめる目は【わたし】じゃなく【ぼく】をしっかり捉えていて。

 

 ――それは、はじめての経験だった。

 

「……まあいいや。海の底で星座をさがしてみるのも悪くはないのかもね」


「ええ、ええ! 年齢や性別なんて瑣末なことよ。 こんなに美しいものを前にして余計なことを考える暇なんてないわ!」


 頬を紅潮させるきみも、きっと海の底に隠すべき秘密をもっていたのかもしれない。


 けれどそれは、海の底の星空の前に必要なこと?


 結局君を呼ぶ声が聞こえて来るまで、僕たちは海月の宇宙を探しつづけた。

 

 次の日、君が水槽を楽し気に見つめる姿が写った巨大なポスターと、笑顔で年パスを2枚握りながら僕を待ち構えている君を見て、僕は肝を潰した。

 

「こんにちはシリウス」

 

 互いに名乗らなかったからか、おおいぬ座の恒星名で呼ばれるとは思いもしなかった。

 

 くす、と笑いをこぼすと僕は手を上げた。

 

「――やあプロキオン」


 それはこいぬ座おおいぬ座ぼくの出会いの話。

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海の底で、たゆたう夜に あまがさ @cloudysky088

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